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2007年10月

2007年10月28日 (日)

時事ネタより感話(結)

昨日一昨日と、最近の事柄を挙げてみました。
今バッシングを受けている方々は、それも仕方のないことです。しかし、そうなる原因の一部は私にもあるわけです。総評論家時代とも言われますが、自分のことを抜きに他を批評・批判・非難することの無責任さ・恐さを知るべきだと思います。
他人には厳しく、自分には甘いですね。

2007年10月27日 (土)

時事ネタより感話(2)

ミートホープ
不二家
石屋製菓「白い恋人」
赤福「赤福餅」
 エトセトラ エトセトラ
 
食品会社の偽装が明るみになっています。製造日や消費期限・賞味期限の偽装・改ざん、食品の偽装。手口も巧妙・悪質であり、許されるものではありません。が、そうせざるをえなかった背景には、厳しく、細かすぎる決まりごとや、消費者の無責任な重圧があるのではないでしょうか。
 
食品に関して、なにか問題が起こると消費者は「信頼しているんだから、キチンとしてもらわないと困る」というような言い方をする。さて、日ごろ会社や商品に対して「信頼しています。ありがとう」という気持ちを持っているのでしょうか。都合がいいときだけ信頼を口にしている気持ち悪さを感じます。
 
「なにを食べさせられているか分からない」と憤慨する消費者もいますが、お菓子・飲料etc、どうしてあんなに日持ちするのでしょう。よほど防腐剤が入っているからだと想像できませんか?
そう、たとえ偽装・改ざんをしていなくても、なにを食べさせられているのか、分からないのです。
 
最近は、詰め合わせのお菓子の一個一個にまで消費期限が明記してあります。消費期限をすぎたところで、食べても問題はないのに、期限をすぎるとあっさりと捨ててしまう人も多いそうです。コンビニの売れ残りのお弁当も、日々たくさん処分されています。
 
「食べ物を粗末にしてはいけない」
小さい頃から言われ続けてきたセリフです。しかし、食べ物を粗末にし尽くしている現代日本。食を軽率にする生活は、生を軽率にすることにつながると感じています。そう思いませんか?

2007年10月26日 (金)

時事ネタより感話(1)

横綱 朝青龍関(1980年9月27日生 27歳)
女優  沢尻エリカ様(1986年4月8日生 21歳)
ボクサー 亀田大毅選手(1989年1月6日生 18歳)
 
現在マスコミでバッシングを受けている方々。みんなチヤホヤされていました。というより、周りがチヤホヤしていました。そんな状況に身を置いていたら、誰だって勘違いするものです。私が、彼らと同じような境遇に身を置いたらどうしていることでしょう? …という想像の一助になればと思い、生年月日・年齢を付してみました。
 
チヤホヤするのもいいでしょう。しかし、ある人を応援すると決めたのなら、たとえ何があっても応援し続けるということが、本当に応援するということではないでしょうか。ことがあった後の、マスコミの、世間の、掌の返し方には、恐ろしいものを感じました。
 
私自身はどうでしょう?
信じた、愛した、尊敬した相手に対して、たとえその人が何をしようとも、信じ続け、愛し続け、尊敬し続けられるでしょうか。そう考えると、なかなか難しいものです。そのようなことを想うとき、衆生を信じて、救うと誓われた阿弥陀如来の有り難さを感じます。信・愛・敬とは衆生の仕事ではなく、如来の仕事なんだなぁと感じます。

2007年10月23日 (火)

夢現(ゆめうつつ)

午前中に外出先で用を済ませ、少しのんびりの昼過ぎ。
晴れた秋空の下、渋谷にポツンとひとり。
そういえば新宿にも用があったっけ。
普通なら山手線で渋谷から新宿に行くけれど、バスに乗ってみようかなとふと思う。
渋谷のバスターミナル。山手線や埼京線で新宿に行けるのに、果たしてバスの路線があるのだろうか(そんなことも知らずに、バスに乗ろうとしていた私)。
路線図の看板の前に立ち、ジーっと眺める。
あった。渋谷から新宿西口に向かうバスを発見。
さっそく乗り場へ。バスも停まってる。
さっそく乗ってみる。なぜかワクワク。
  
あたたかい秋の陽ざしを浴びながら、バスは出発。
ボーッと外を眺める。
あぁ、この道で行くのかぁ。
へぇ、この道を通るんだぁ。
こころのなかでつぶやく。
まだまだ知らない道ってあるんだなぁ(知らない道の方が圧倒的に多いのだけれど)。
知ってる道でも、自分で運転していたのでは、気づかない風景がたくさんある。
  
何分くらいかかっただろうか。
電車より時間はかかるけれど、遠回りだけれど、そのちょっとの遠回りが、こころの凸凹をならしてくれる。
 
あと一駅か二駅で終点の新宿西口。
ボタンを押して、わざとちょっと手前のバス停で降りてみる。
普段より歩くスピードを落としてみる。
秋の陽ざしが心地よい。
 
最近ちょっと忙しかった(忙しいフリをしていただけ?)から、こころが少しのんびりした。
なにが忙しいんだろう。
なにを急いでいるんだろう。
 
のんびりついでに、西口のスタバでコーヒーを飲む。
ほっと一息。
 
新宿で用を済ませ、帰路へ。 
乗客もまばらな京王線に乗る。車窓から差し込む陽ざしが心地よい。
うつらうつら
ふっと気づくと、まもなく千歳烏山駅。
あぁよかったと電車を降り、歩き始める。
 
「ゆっくり行こう」
スローな時間を過ごし、ここ最近の自分を見つめる。そういう時間をいただいたんだなぁと思う。
   
  ~~☆
 
なんて思ったのも束の間。
電話だ、メールだ、書類整理だ、片付けだ、法話の準備だ、寺報の準備だ、報恩講の準備だ、その他諸々。あっという間に外は真っ暗。
 
夢のようなひと時から、あっという間に現実に戻る。
同じ1時間、同じ1分、同じ1秒なのに、自分が感じる時間の感覚はまるで違う。だけど、時の経つスピードは変わらない。不思議不思議。

2007年10月20日 (土)

言葉を持っているということは、

我々が言葉を持っているという意味は、
人間が関係を保つ存在だということを表わしているのです。
関係を保つところに、人間の存在はあるんだということを表わしているのが、私は言葉の持つ意味だと思うのです。

  (平野 修『生きるということ』東本願寺出版部)
   
   
「話せば分かる」
と言うけれど、嘘だと思う。
話せば話すほどこじれるから。
話せば話すほどエゴが出るから。
話せば話すほど相手の話を聞かないから。
 
「黙ってたら伝わらない」
と言うけれど、話しても伝わらないと思う。
どうせ分かってもらえない。
どうせ聞いた振りをするだけだから。
どうせ最後には自分の意見を押し付けるんだから。
 
「話し合えば分かる」
「黙ってちゃ、分からないよ」 
耳障りの良い ことば だけど、当てにならない表現だと思ってた。
 
でも、私自身が頭から
「話せば話すほど~」
「どうせ~」
なんて思ってちゃぁ、伝わるものの伝わらない。分かってもらえるはずのものも分かってもらえない。
 
言葉があるということは、
「人間が関係を保つ存在だということを表わしている」ということ。
関係を保つための道具として言葉があるのではない。
関係を保つために言葉を使うのではない。
言葉があるということ、その事実が、すでに関係を保っていることの証。
 
「話してもなにも変わらない」とか
「どうせ~」なんて言ってないで、言葉の力をもっと信じるべきなんだな。

2007年10月18日 (木)

止揚?

きれいにしても、汚す人がいる
汚しても、きれいにする人がいる
  
つくっても、壊す人がいる
壊しても、つくる人がいる
 
たすけても、傷つける人がいる
傷つけても、たすける人がいる
     
  
 きれいにする   
 つくる
 たすける 
 
それだけでいいのに、
   
 汚す
 壊す
 傷つける
  
なぜだろう?
  
でも、
 
 汚す
 壊す
 傷つける
 
がなければ、
 
 きれいにする   
 つくる
 たすける 
 
ということも必要なくなってしまう
  
全部私の中のこと 

 

2007年10月16日 (火)

味は変わらないけれど、

レストランで何を注文しても、人が頼んだもののほうが絶対によく見える。
                ポーリーナ・ボース―ク
 
正しい選択・間違った選択があるわけではない。
ただ、なにを選択したとしても、迷いはつきもの。
  
自分が注文したものに納得できたとしても、
いつまでも同じものを頼み続けることもできない。
いつか飽きてしまう。
 
人のものがよく見えるのも、
迷うのも、
飽きるのも、
わたしのこころ


2007年10月11日 (木)

笑顔

親鸞聖人が大切にされたお経『大無量寿経』。これこそ真実の経であると、聖人は言われます。
それはなぜでしょうか。
  
『大無量寿経』には、これから教えを説こうとする釈尊のお姿が描写されています。
釈尊の姿は喜びに満ち溢れていました。
釈尊随従の弟子の阿難さんが、いつもと違う釈尊にお姿に驚き、問われます。
「お釈迦さま、今日はどうなさったのですか?」
いつもと違うことに弟子の阿難さんが気づいたことを、お釈迦さまはとてもうれしく感じました。
「阿難よ、よく気づいて問うてくれた」
と、阿難さんを褒め、釈尊は教えを説かれました。 釈尊のお顔は「光顔巍巍(こう・げん・ぎ・ぎ)」と清らかに光り輝いていました。

この釈尊と阿難さんの会話を以て、親鸞聖人は『大無量寿経』こそ真実の経であるといただかれました。
非論理的な理由に思われるかもしれませんが、親鸞聖人にとっては、これ以上ない明確な理由です。
 
前回の文章で、 「笑顔の背景には、どんなにつらいことがあったことでしょう」ということを書きました。
「笑顔」とお釈迦さまの「光顔巍巍」としたお姿を一緒にするのも極端な話かもしれませんが、
でも、
その背景にはどれほどの苦悩があったことでしょう。
その笑顔に、光顔巍巍としたお姿に出会ったならば、きっと私たちも笑顔で人生を送れるのだと思います。
 
人生、
自分の思い通りになったら、
幸せになったら、
便利になったら、
笑顔が満ち溢れるのかと思ったら、無表情になりました。
 
人生、
自分の思う通りにならないってところに腰を落着かせたら、
今が幸せなんだなと気づけたら、
不便でも生きるのになにも困らないなぁって思えたら、
困った顔になるのかと思ったら、笑顔になりました。
 
今以上なにも望む必要もない。満ち足りているのだから。

2007年10月 6日 (土)

幸せって…

幸せって、いいことばかり起こることじゃないわよね
 
考えることがあります。 
「幸せを求めることが人生の目標じゃないの?」って問われたことがあるけれど、
それっていったい何を求めているんだろう?
どうなることが幸せなんだろう?
 
いいことばかり起こること?
ずっと楽しい時間であること?
なにもかも自分の思いどおりになること?
 
仮にそれが幸せなんだとしても、
そうなればなったで、そのことを幸せなんて感じなくなることでしょう。
いいことばかり起こっていれば、そのことがいいことだなんて思わなくもなるし、
楽しい時間が続くことも苦痛かもしれないし、
自分の思いどおりになった結果は孤独です。
  
笑顔の素敵な人っていますよね。 
単に笑顔なのではない。
生まれつき素敵な笑顔なわけでもない。
笑顔の背景には、どんなにつらいことがあったことでしょう。
 
いろいろな経験をして、人の顔やこころってつくられていくものだと思います。
そのときは苦しくても、決して無駄なこと・無意味なことではないと思う。
幸せが苦痛や苦悩を取り除いたものであるならば、幸せになったら人の表情から笑顔は失われていくんだろうな。
 
「幸せってなに?」って問いをひっくり返すと、
「不幸ってなに?」って問いも存在します。
 
「不幸ってなに?」
もしね、苦しい出来事が肥やしとなって笑顔となる日が来るのなら、不幸(と思われていること)も不幸ではありません。
 
幸せとか不幸とかって、外的な出来事ではなくて、自分のこころの問題です。

いいことばかり起こって、そのことに喜びを感じなくなる。なんて不幸なことでしょう。

2007年10月 4日 (木)

一期一会

お寺にお参りに来たときには、いつも立ち寄ってお話をしていってくださる門徒さんが亡くなられました。
最後にお寺にみえたのは7月。そのときに、その門徒さんとお話をしたのが坊守。
まさかそのときの会話が最後になろうとは、誰も思ってはいません。
  
   
(坊守)
「はぁ、あのときにお会いしたのが最後になるって分かっていたら、もっとお話していたのに」
  
(私)
「そんなことが分かっていたら、別れられなくなっちゃうよ」
  
(住職)
「誰とお会いするときでも、そのとき そのときの出会いが最後ですよ」 
 
(坊守・私)
「!!…そうだねぇ」
 
  
生きている者は、いつかは命終えるときがくる。そんなことは分かっている。分かっているけれど、まだ先のことと思ってる。いつ終えてもおかしくない命を生きている。誰と会うときでも、なにをするときでも、どこに行くときでも、そのときそのときの出会いや行動が常に最新にして最後。
生きるということの意味を教えていただきました。○○さん、ありがとうございます(-人-)

2007年10月 1日 (月)

2007年10月のことば

  Dscf0815
     私を助ける阿弥陀さまがいるのではない
     私が助かる法を阿弥陀さまというのです
           安田 理深

    
   
☆縁によって生まれる☆

一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
                      (『歎異抄』第5章)
「生きとし生けるものはみな、いつの世にか、父母であり、兄弟であったに違いない」
   
父と母が出会い、私が生まれる。父と母には、それぞれに両親がいて、その両親にも父と母がいる。代々さかのぼり、誰か  ひとり欠けたとしても、私は存在しない。
   
私が生まれることも縁
私のいのちが尽きることも縁
 
   
☆縁を生きる☆
 
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
                      (『歎異抄』第13章)
「人間とは、そうせざるを得ない状況に 身を置かれたら、どのようなふるまいでもするものです」
   
「あれをした」
「これはしなかった」
すべて自分の選びのように思っているけれど、「成したこと」も「成さなかったこと」もすべては縁。
成したのは縁による。「縁によるといっても、いけないことは避けられるはず」と、自分の選びのように主張する。成さずに済んだのは、自分が拒否したからではなく、成さないで済む縁に出会っているから。
  
  
☆縁に遇う(あう)☆
  
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

           (「正像末和讃」)
「阿弥陀如来のご恩に出会った者、諸々の師の教えを受けた者は、ねてもさめても へだてなく念仏申さずにはおれないはずです」
 
阿弥陀如来の慈悲のおこころ。私に仏法を伝えてくださった諸師のご恩。恩を受けて生きている私。縁の表われが恩。恩に包まれ、今の私がある。ご縁とはご恩でした。
 
縁・縁・縁。縁について、何度も書いてきました。何度も考えてきました。何度も味わってきました。
けれど、
 「私」を縁の中心に置いていました。
 「私」を頂点に縁を思い描いていました。
 「私」を縁の主役にしていました。
 
縁と縁とが出会い、さらに縁が生じる。
砂の数ほどの縁の中で、ある縁とある縁が出会い、次の縁が生まれる。
星の数ほどのいのちがある中で、いのちといのちが出会い、次のいのちが生まれる。
 
不思議だと思いませんか? 
 縁は破綻しないのですね。
不思議だと思いませんか?
 縁からはみ出る者はいないのですね。
不思議だと思いませんか? 
 個としてのいのちは終わっても、縁の中では誰も死なない。
 はるか昔から、これから先まで、いのちは生き続けるのですね。
 
「私」は、縁と縁とが織り成す模様の中の、ほんの一部分にすぎない。とてもとてもちっぽけな存在。縁の中を生かされている。決して中心ではないし、頂点でもないし、主役でもない。しかし、私一人欠けただけで、縁と縁とが織り成す模様はまったく別のものになる。
縁には不思議があふれている。縁は、私の想いを超えている。不思議なるもの、想いを超えたもの、それが「阿弥陀さま」。
 
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
               (『歎異抄』後序)
「阿弥陀さまが、五劫という長い間ご思案になって発起してくださった本願をよくよく考えてみると、ただひとえに、親鸞ひとりのためのものだったのだなぁ」
  
縁と縁でつながっている。つまり、「一人」のすくいは、みんなのすくい。「すでに助かっているのです」。親鸞聖人の告白が、今、私に響いています。南無阿弥陀仏。
 
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
今月のお人形
Dscf0814
10月の人形はお地蔵さんです。 お地蔵さんって、みんなニコニコしていますよね。見ている私も、こころがホッとします。

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