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2007年10月 1日 (月)

2007年10月のことば

  Dscf0815
     私を助ける阿弥陀さまがいるのではない
     私が助かる法を阿弥陀さまというのです
           安田 理深

    
   
☆縁によって生まれる☆

一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
                      (『歎異抄』第5章)
「生きとし生けるものはみな、いつの世にか、父母であり、兄弟であったに違いない」
   
父と母が出会い、私が生まれる。父と母には、それぞれに両親がいて、その両親にも父と母がいる。代々さかのぼり、誰か  ひとり欠けたとしても、私は存在しない。
   
私が生まれることも縁
私のいのちが尽きることも縁
 
   
☆縁を生きる☆
 
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
                      (『歎異抄』第13章)
「人間とは、そうせざるを得ない状況に 身を置かれたら、どのようなふるまいでもするものです」
   
「あれをした」
「これはしなかった」
すべて自分の選びのように思っているけれど、「成したこと」も「成さなかったこと」もすべては縁。
成したのは縁による。「縁によるといっても、いけないことは避けられるはず」と、自分の選びのように主張する。成さずに済んだのは、自分が拒否したからではなく、成さないで済む縁に出会っているから。
  
  
☆縁に遇う(あう)☆
  
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

           (「正像末和讃」)
「阿弥陀如来のご恩に出会った者、諸々の師の教えを受けた者は、ねてもさめても へだてなく念仏申さずにはおれないはずです」
 
阿弥陀如来の慈悲のおこころ。私に仏法を伝えてくださった諸師のご恩。恩を受けて生きている私。縁の表われが恩。恩に包まれ、今の私がある。ご縁とはご恩でした。
 
縁・縁・縁。縁について、何度も書いてきました。何度も考えてきました。何度も味わってきました。
けれど、
 「私」を縁の中心に置いていました。
 「私」を頂点に縁を思い描いていました。
 「私」を縁の主役にしていました。
 
縁と縁とが出会い、さらに縁が生じる。
砂の数ほどの縁の中で、ある縁とある縁が出会い、次の縁が生まれる。
星の数ほどのいのちがある中で、いのちといのちが出会い、次のいのちが生まれる。
 
不思議だと思いませんか? 
 縁は破綻しないのですね。
不思議だと思いませんか?
 縁からはみ出る者はいないのですね。
不思議だと思いませんか? 
 個としてのいのちは終わっても、縁の中では誰も死なない。
 はるか昔から、これから先まで、いのちは生き続けるのですね。
 
「私」は、縁と縁とが織り成す模様の中の、ほんの一部分にすぎない。とてもとてもちっぽけな存在。縁の中を生かされている。決して中心ではないし、頂点でもないし、主役でもない。しかし、私一人欠けただけで、縁と縁とが織り成す模様はまったく別のものになる。
縁には不思議があふれている。縁は、私の想いを超えている。不思議なるもの、想いを超えたもの、それが「阿弥陀さま」。
 
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
               (『歎異抄』後序)
「阿弥陀さまが、五劫という長い間ご思案になって発起してくださった本願をよくよく考えてみると、ただひとえに、親鸞ひとりのためのものだったのだなぁ」
  
縁と縁でつながっている。つまり、「一人」のすくいは、みんなのすくい。「すでに助かっているのです」。親鸞聖人の告白が、今、私に響いています。南無阿弥陀仏。
 
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
今月のお人形
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10月の人形はお地蔵さんです。 お地蔵さんって、みんなニコニコしていますよね。見ている私も、こころがホッとします。

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