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2007年9月11日 (火)

9.11

お内仏(お仏壇)で、阿弥陀さんに向かって、仰ぎ見て、手を合わせて、目をつむって、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏。
 
9.11だからってわけではないけれど、自然と体がそのように動きました。
お内仏、ございますか? 
お内仏は一家に一台あるべきものです。
そんな話をしていたら、お他宗の方が仰いました。
「お仏壇は、長男の家にあるから、うちにはありません。だって、兄弟みんながお仏壇を持っていたら、仏さんがどこに行けばいいのか迷ってしまうでしょ」
 
あぁ、そういう考え方なのか。
私は、お仏壇は一家に一台って、仏教諸宗、みんな勧めているものだと思ったのでビックリしました。
迷う…さて、誰が迷っているのでしょう?
  
あるおばあさんが仰いました。
「子どもが家を新築したので見に行きました。そしたら、仏間がないんです。当然お仏壇もありません。私は、息子に言いました。『お内仏がなくて、子育てが出来るか!!』って」
お内仏に手を合わせる親の姿を見て、子は育つ。「こうするんだよ」なんて、わざわざ言わなくても、子どもは親の姿から学ぶ。学び学ばれ、継承されていく。それが伝統。
 
お内仏は、亡き人の落ち着き場所ではありません。
なにもないところに手を合わせづらいものです。お内仏があるおかげで、手も合わさる。愚痴をこぼしたっていい。迷っている私に気づかせてもらうところ。私の生き方を見つめさせていただくよりどころ。
 
9.11のテロからもう6年。
この6年間、何をしてきただろう。何を見てきただろう。
何もしてないのかもしれない。何も見えてないのだから。

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コメント

かつさん、こんばんは
ご無沙汰してます。
911系最近映画でレンタル複数
ありますが、たまたまリアルタイムで
見た某国営放送のニュースにのほうが
私の記憶には、強い衝撃でした。
多分、記憶とシンクロしたのだと思います

私見ですが、大事な事は、911忘れえぬこと
あらゆる背景があったこと。

和をもって尊しとなす
歴史にも、わが国は今は日本人っていっても、ア○ヌの方や沖○問題やら同○問題ってあって、やはり、巻き込まれ、血が流れたと思います。

浅学な私が言うのも恥ずかしいですが、原水爆も戦争も四苦四諦も含め忘れぬこと(風化させない)で、問い続け、個の肉は滅びても、そこにも佛の光は届くのではないのかと思います。

見えてきたこと、私も含め人は、過ちを犯しても、和ということは、大事なもので、
かけがえのないものだということに人の血でなく、智を集めることではないでしょうか?それが、人の人たる問い続けのように
思います。

☆tanukiさんへ
なぜ争いはなくならないのか。
いつまで環境を破壊し続けるのか。
終わりのない課題です。
しかし、争うことなく共生し、環境を破壊することなく生きることができる生き物ならば、すでにそうしているわけで、つまりは、争い破壊し続けなければ生きていけない業を背負っているわけです。私は。
やわらかなるを以て尊しとするもよし、
智を集めるもよし、
そうして出来ることを一所懸命に努め、努め努め努め、人の想いを超えたはからいの存在を知る。それこそまさに慈悲であり、智慧なのでしょう。

自身の存在の哀しさに目覚めたとき、
「個の肉は滅びても、そこにも佛の光は届く」ことを感じられるのだと思います。
南無阿弥陀仏


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