2007年9月のことば
生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
親鸞聖人「龍樹和讃」
生死をはじめとする迷いや苦しみは
まるで海のように際限がありません
その苦しみの海に、
常に沈み、常に没している私たちを
阿弥陀如来の本願の船だけが
乗せて
必ず安楽浄土へ渡してくださいます
☆ ☆ ☆
荒れる闇黒の大海原は私を包み込む。その闇黒から必死で逃れようとする私。
逃れようとする私に、波は容赦なく襲いかかる。波に打たれ、海原に沈みゆく私。どんなに沈んでも底がない。いったいどこまで沈むのだろう。いったいどれだけ深いのだろう。深さは、底に着いたときに感じるのではなく、その只中にあって感じるものなのかもしれない。
苦しい。海上に出ようと、急いで浮かび上がる。沈んでは浮かび、漂い。そしてまた沈み、また浮かび…。
漂っていると、晴れ間が見えるときもある。「あぁ、やっと明るくなった」。波ひとつ立たない穏やかな海。海と一体となり、この身をまかせる。いつまでもこのままでいられたら…。しかし、やがて波が立ちはじめ、辺りは暗くなっていく。海がまた漆黒の闇へと変わる。
漂っていると、目の前に浮き輪が流れてきた。慌ててしがみつく。「あぁ、助かった」。このまま浮き輪に身をまかせ、いつまでも浮かんでいたい。しかし、浮き輪の空気は徐々に抜けていく。空気が抜け切ったとき、私はまた闇黒の海原に放り出された。
漂っていると、小島を見つけた。「今度こそ助かった」。陸にあがり、大地を踏みしめる。今度こそ、安住の地を見つけた。いつまでも、この小島で生きていこう。しかし、小島は徐々に浸食していた。小島は徐々に削られていく。安住の地と思った小島も、いつまでもあるものではなかった。浸食が進み、私はまた大海原に投げ出された。
目の前の楽は、儚く消えてしまう。いつまでも続くものではない。しかし、続かないのは、実は私の満足心だった。思いがけない晴れ間に、浮き輪に、小島に、私は安心を得た。それなのに、いつしか物足りなさを感じていた。晴れ間が当たり前なんだ。浮き輪よりも良いものがあるはずだ。小島よりも良いところがあるはずだ、と。
荒れる闇黒の大海原の正体は、この私であった。波が収まることもあるだろう。暖かな日が射すこともあるだろう。浮き輪や小島、頼りとするものが見つかることもあるだろう。しかし、そこに満足できない私は、また荒れた大海原に自ら飛び込む。
荒れる海原を漂っていると、ある日、何かが私に当たった。「今度はなんだろう?」
正体は木片だった。どこから流れてきたのだろう。見渡す限り何もない。この大海原で、小さな木片が私に当たる不思議。
こんな小さな木片に身を任せたところで、沈んでしまいそうだ。なんの頼りにもならぬと、気にも留めない私。
その木片こそ、私を救うために流れてきたのだった。頼りにならぬものと放ってしまう私。その私を、木片は見捨てない。
あなたを救いたい。木片は、この私に届いた阿弥陀如来の願い。阿弥陀の願いは、決して人を選ばない。決して人を嫌わない。決して人を見捨てない。
闇黒の海原で、その願いが見えなくなってしまっている私。木片は、私を彼の岸に必ず渡してくれる。一生を共にしてくれる法(教え)。
木片を手に入れても、闇黒の大海原は、闇黒の大海原のまま。弥陀の願いに救われて、この闇黒の大海原が、波ひとつなく澄み渡り、快晴の海に変わるのではない。
「弥陀弘誓のふね」とは、すべての衆生が乗れる堅固な豪華客船ではない。私一人つかまるのがやっとの木片。しかし、沈まない。しかし、枯れない。しかし、私を見捨てない。必ず私を浄土へ導く。
闇黒の大海原で、木片につかまる私。木片に身を任せる決心をしたとき、目の前に、彼岸(阿弥陀如来)が見えてくる。
「南無阿弥陀仏」
☆
掲示板、9月の人形は、月に座って見つめあうウサギです。
2007年は9月25日が中秋の名月 (十五夜)だそうです。
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