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2007年8月25日 (土)

うれしい出来事

門前を掃除していたら、3人の方に声をかけられました。
 
①お他宗の方なのですが、いつもそちらの冊子をくださるご婦人。
「いつもごくろうさまです」
と、声をかけていただき、今日も冊子をいただきました。
さっそく読ませていただきました。
ありがとうございます。
 
②いつも元気に挨拶してくださるおじさん。
「おはようございます。はい、これ」
と、いつもと同じ元気な声で挨拶をされ、手渡されたのはミネラルウォーター。
「暑いから気をつけてね」
そう言うと、颯爽と行ってしまわれました。
掃除中、飲ませていただきました。おかげさまで熱中症にならずにすみました。
いつも元気をいただいてます。ありがとうございます。

③いつも掲示板のことばの感想をお話してくださるご婦人。
今月の言葉も素敵だわぁ」
「そう思っていただけます?」
「えぇ、人間、生きているんだもの。苦悩して当たり前よね」
と言ってくださるものだから、つい愚痴っちゃいました。
「でもね、こんな言葉 掲示してくれるなって、言われちゃったんですよ」
「あら、今月のことばは、大切な事実じゃない。それに、ことばって苦悩してるから身に響くのよ。
以前、「ゆとりって、時間の余裕じゃなくて、こころの余裕なんだよね」って、掲示してくれた時があったじゃない。私は、あのことばに救われたの。当時、いろいろと焦っていたんだけど、あぁ焦る必要はないんだ。立ち止まってもいいんだって思えたの。でも、そう思えたのは、苦悩があったからなのよね。なにも悩んでなかったら、ことばは響かない。苦悩できるってことは、生きてるってことなんだなぁって思うわ」
「ありがとうございますTT」
    

門前を掃除しているほんのちょっとの時間に、こんなに交流がありました。
うれしさで、夏バテも吹き飛びました。ありがとうございます。 

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コメント

酷暑の中でも爽やかな交流を持てるのは、かつさんの日頃の人徳ですね。風呂上りに冷えたビールを飲むことだけを楽しみにしている私には、こういう貴重な体験は訪れません。(泣

話題が急回転しますが、私のサイトで今「愚禿鈔」を読んでいます。その中の二教42対の中で「因明直弁対」の意味と、どちらが真実教なのかが分かりません。サイトには私なりの推測を書いてしまっていますが、正しいところをお教え下さい。

☆やすさんへ
お返事遅くなりました。申し訳ありません。
久しぶりに「愚禿鈔」に向き合ったので、世界感に入るのに時間がかかってしまいました。
なんて、呑気なことをしている間に、やすさんの講読が進んでしまいました。失礼しました。

42対は、聖道門と浄土門の比較ですから、
「因明直弁対」は、
因明が聖道門・直弁が浄土門を表わしているのだと思います。
「因明」とは、「因(ちな)みに明かす」ということ。何かしら手がかりを示して明らかにする、というようなことだと思います。
「直弁」は、「直(ただ)ちに弁ぜられる」ということ。『大無量寿経』では、直ちに仏が阿弥陀の本願を説かれています。なにか、阿弥陀の本願を説かなければいけない縁があって、それゆえ説くのではなく、直ちに阿弥陀の本願が説かれている。そういうことを、「直弁」というのだそうです。
いろいろと資料をひっくり返してしまいました。思い返すに、42対にキチンキチンとあたったことがないので、いただいたご縁を大切に、「愚禿鈔」の世界に、もう一歩踏み込んでみたいと思います。
ありがとうございます。

ご多忙中にいろいろと調べてお教えいただきまして、ありがとうございます。ナルホド! スッキリしました。「直弁」とは「ただちに弁当を食べる」ことではなく(笑)、「大経」が釈尊の本懐であるという義が含まれているのですね。

それにしても「愚禿鈔」は独特の世界ですね。もし正しく読むことが出来れば、祖聖の教相の核心にかなり近づけそうな気がしますが、私ごときでは「聞き違い」が起こりそうです。もし私がおかしな事を書いていたら、よろしくご教示をお願いします。

☆やすさんへ
「愚禿鈔」も「教行信証」も独特の世界観だと思います。
こちらこそ勉強になります。よろしくお願いします。

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