2007年8月のことば

人間は
苦悩する才能を持った生き物です
誰もが悩みを抱えながら生きている。しかし、私の悩みとは、
「自分の思い通りにならない」
「欲しいものが手に入らない」
「得たものを失うことが恐い」
「物事うまくいきますように」
「失敗したくない」
「生きたくない」
「死にたくない」
など、欲望に根ざした悩み。自分で作り出し、自分で振り回されている。
「苦悩する才能」とは、自分で自分を振り回している、欲望に根ざした悩みとは違います。
お釈迦さまは教えてくださいました。人間は縁によって生きる存在である、と。
父と母が出会い、私が生まれる。父と母には、それぞれに両親がいて、その両親にも父と母がいる。代々さかのぼり、誰かひとり欠けたとしても、私は存在しません。
私見ですが、私が生まれるためには、父と母、そして私自身の「生まれたい!」という強い願いがなければ、この世に生まれ出ることはできないと思っています。そう、なぜ私が生まれてこられたのか。私自身が強く願ったからなのです。
私が生まれる事実を考えただけでも、数多くの縁があったことを思い知らされます。そのうえ、数え切れないほどの縁のおかげで、今、私がここにいます。
人格・思想を作るために、どれだけ多くの人々の影響を受けたことでしょう。
この肉体を形成・維持するために、どれだけ多くの生き物のいのちをちょうだいしていることでしょう。
生活するために、どれだけの人の努力のおかげで、今の生活が成り立っていることでしょう。
親鸞聖人は言われました。
さるべき業縁のもよおせば、
いかなるふるまいもすべし
(『歎異抄』第13章)
人間とは、そうせざるを得ない状況に身を置かれたら、何をしでかしてしまうか分からない存在である。人の物を盗み、人を傷つけ、殺してしまうこともある、と。
聖人のことばを聞いて、「いや、たとえどんな状況になっても、私はそんなことはしない」と言う人もいます。しかし、「する」とか「しない」ということが問題なのではありません。
聖人が言いたかったことは、「出会う縁によっては、なにをしでかしてしまうか分からないのが人間です」ということではなく、「私は、縁によって生かされています」ということだと思います。私の身の事実を、これほどまでに厳しいことばで伝えようとされたのです。
欲望に根ざした悩みに振り回されている私。しかし、その悩みは、私側から見た一側面に過ぎません。たとえ私にとってはひとつの出来事にすぎなくても、縁が縁を生み、多くの人々に縁が生じています。
私の成功の背後には、数多くの犠牲がある。私の失敗により、成功する者もいる。
私との出会いにより救われる者もいれば、同時に、傷ついている者もいる。万人に対していい顔はできない。
私の願いが叶うとき、悲しみの涙を流す者がいる。生きとし生ける者すべての願いが叶うことはない。
私がここにいるために、ここにいられない誰かがいる。
生まれ、生きるものにとって、死もまた必然。死を厭い嫌うが、先行く人が耕した土壌があるからこそ、今、私がその大地を踏みしめられる。その大地を耕す仕事を、放棄していいのだろうか。
いのちとは、オギャアと生まれてから息が止まるときまでのことなのか。受精により生じるのだから、私のいのちは、はるか昔から受け継がれてきたもの。そして、たとえ我が身は滅んでも、いのちは連綿と続く。始まりもなければ、終わりもない。
縁を生きる私。喜びとともに必ず悲しみがある。縁に生き、縁に死すのが人間。そこに、存在に根ざした苦悩がある。
縁を生きているからこそ、苦悩の才能が開花するのです。
☆

掲示板、8月の人形は、ゴーヤに座っているシーサーです。
昨年沖縄に行ったときに、目が合って、思わず買ってしまいました。
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