« 新盆法要でお話したこと③ | トップページ | 新盆法要でお話したこと⑤ »

2007年7月15日 (日)

新盆法要でお話したこと④

新盆法要でお話したこと 「芥子の実」

お釈迦さまと、幼いお子さんを亡くされたお母さんのお話です。
可愛い我が子を亡くしたお母さんは、子どもを生き返らせてくれる人を、必死で探し回ります。
 「どうかこの子を生き返らせてください!!」
 「誰かこの子を生き返らせてください!!」
                    
「私が生き返らせてあげよう」と言う人はいました。
が、でたらめなことを言っては、そのお母さんから金品を奪っていくのでした。
それでもお母さんは、子どもを生き返らせてくれる人を探し続けます。
そして出会ったのがお釈迦さまでした。
      
で、お釈迦さまも言うのです。
「私が生き返らせてあげよう」と。
「ありがとうございます」
「その子を生き返らせるためには、芥子の実が一粒必要です。どこかのお家から、譲ってもらってきてください」
「はい、分かりました」
「ただし、条件があります。まだ誰も死者を出したことがないお家の芥子の実でないと、その子を生き返らせることはできません」
「分かりました。まだ誰も亡くなられたことがないお家を探して、芥子の実をもらってきます」
  
お母さんは、芥子の実を求めて家々を訪ねます。
どこのお家でも、芥子の実を譲ってくれました。しかし…
「ありがとうございます。ひとつお尋ねします。お宅では、まだ誰も亡くなられたことはありませんか?」
「いえ、うちは○○が亡くなっております」

そうです。どこのお家でも、誰かが亡くなっているのです。
お母さんは、何件も何件も訪ね歩き、結局芥子の実を手に入れることはできませんでした。そしてお釈迦さまの元に戻ります。
 
お釈迦さま「お帰りなさい。芥子の実は譲っていただけましたか?」
お母さん「いえ、誰もが芥子の実を譲ってはくれましたが、誰も大切な人を亡くしてないご家庭はありませんでした」

お母さんは続けます。
「お釈迦さま。お釈迦さまは、私にいのちの真実を知らせようとしてくださったのですね。いのちある者は、いつかいのちを終える日が来る。そんなことは、分かったつもりでいました。でも、いざ私の可愛い子が亡くなると、その事実を受け止めることができませんでした。生き返らせたい、生き返らせたい、その一心でした。でも、その想いは我が子のためではなく、私自身のエゴでした。亡くなった我が子のためのつもりが、私自身の満足のためでしかありませんでした。亡くなった我が子は、私にいのちの真実を伝えてくれる先生でした。そのことに気付かず、危うく子どもの死を無駄にするところでした。可愛い我が子は、生きていなければ可愛くないのか。いえ、たとえ亡くなっても、私にとって可愛い我が子に変わりはないのです。お釈迦さまのおかげで、私は大切なことに気付きました」

お釈迦さまは微笑んで言われます。
「私はなにもしてませんよ。もし、あなたが大切なことに気付いたというのなら、それは、あなたの可愛いお子さんのおかげですよ」

お子さんを亡くされたお母さんは、いのちある者は、いつかいのちを終える日が来るという真実に出会われました。そう、そういう意味で、誰もが同じいのちを生きているのです。そのようないのちに、尊いも卑しいも、富めるも貧しいも違いはありません。
誰もが同じいのちを生きている。その意味において人間は、いや、生きとし生けるものはすべて平等なのです。

誰もが同じいのちを生きられる。そういう場を、「倶会一処(くえいっしょ)」と言います。「ともに、一つ処で会す、会う」。どこか遠くにあるわけではありません。亡くなってから行く場でもありません。今、私が住んでいるこの場こそ、「倶会一処」なのです。

« 新盆法要でお話したこと③ | トップページ | 新盆法要でお話したこと⑤ »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 新盆法要でお話したこと③ | トップページ | 新盆法要でお話したこと⑤ »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ