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2007年7月

2007年7月30日 (月)

なんとかなる④(完)

28日(土)、西蓮寺仏教青年会「白骨の会」を開催しました。
参加者は3人(私も含めて)。いつもは輪読会をしているのですが、テーマも決めず、3人で今考えていることを語りあいました。

参加された方のおひとりが言われたことが、耳に残っています。
「仕事のことで迷っていた時もあったけど、とにかく、目の前の仕事を好き嫌いなくやってみようって思えるようになったんです。そうしたら楽しいんじゃないかなって。実際、目の前の仕事を一生懸命やるようになってから、仕事が楽しくなりました」
 
こころの中のある転換が、新しい何かに目覚めさせる。そういうことがあるものです。
状況・環境に変化があったわけではない。私の想いの転換が、今まで見えなかったものを見えるようにしてくれる。
「なんとかなる」ということが頭にあったので、「あぁ、こういうことなんだなぁ」って、青年会でお話していて思いました。素敵なお話を聞かせていただいて、ありがとうございます。
 

 
青年会でそのお話を聞いていて、養老孟司さんのことばも思い出していました。人生相談の回答だったと思います。
 
(相談者)
「自分のやりたい仕事が見つからないんです」
 
(養老さん)
「初めから間違ってますね。やりたいことと、仕事は別ですよ。仕事は仕事。やりたいことは、仕事が休みの日にやってください」

聞いててニヤリとしてしまいました。
「やりたいこと」とか「やりがい」って言うけれど、好き嫌いを言っていたり、選り好みをしていても、「やりたいこと」は見つからないし、「やりがい」も感じられないことでしょう。だって、自分で選んでいたら、嫌になったらすぐ辞めちゃいますから。
 
与えられた(出会った)仕事、与えられた職場、
与えられた環境、与えられた家族、与えられた仲間、
うん、すでに「なんとかなる」人生を歩ませていただいてます。

2007年7月29日 (日)

なんとかなる③

「なんとかなる」という言葉にたどり着いた仏教青年会の次の日、日ごろお世話になっているお寺のサマーセミナーに参加させていただきました。
 
存明寺サマーセミナー
 講師 二階堂 行邦先生
 講題 一人(いちにん)に立つ、共に生きる
  
お話も終わりに近づき、二階堂先生がおっしゃいました。

 なるようにしかならないものは、
 なるようにしかならないというように、なるようになっている
 そうなったところに、全生命をかけて生きる

  
ちょうど「なんとかなる」ということが頭にあったので、先生の言葉が響いてきました。
(この言葉、先生もハッキリと覚えていないのですがと断わられたうえに、私のおぼろげな記憶で書いてしまったので、正確ではありません。でも、言わんとしていることはお汲み取りいただけるのではないかと思い、紹介させていただきます)
 
物事決まってるという運命論や、努力は無駄という刹那主義ではありません。
全生命をかけて生きる。昨日も書きましたが、大きなはたらきの中を生きているからこそ、全生命を傾けられるのだと思います。

全生命を傾けたからといって、自分の思うがままの人生を歩めるわけではありません。
いや、思うがままに歩めないのが人生。
でも、そこを全生命をかけて歩んでいけるのは、「なんとかなる」から。
 
「なんとかなる」
未来が、結果が「なんとかなる」のではなくて、
私が全生命をかけられることが、一歩を踏み出せることが、「なんとか」なっている姿なのかもしれません。

2007年7月28日 (土)

なんとかなる②

「なんとかなる」
いつからか覚えてはいませんが、私の座右の銘です。

「なんとかなる」が座右の銘。どう思われます?
いい加減だなぁ、呑気だなぁ、無責任だなぁって感じられるかな。
 
「なんとかなる」
ある時まで、自分はなにもしなくても、「なんとかなる」もんだと思っていました。
“なにもしなくても”は極端ですが、「なるようになる」って。それこそ自分の人生にいい加減、呑気、無責任でした。

「なんとかなる」
でも、ある時を境に、ガラッと想いが変わりました。
自分で力を尽くして、尽くして、尽くしていれば、「なんとかなる」って。
なんとかするために自力を尽くすんじゃないんです。
生きるということそのものが、自力を尽くすということ。
私が自力を尽くせるのは、大いなるはたらきに包まれているから。だから安心して自力を尽くせる。私は、自力を尽くして生きるしかできないのです。すると、人生「なんとかなる」もんです。
って、思うようになりました。

天命に安んじて 人事を尽くす 
                   清沢 満之

2007年7月27日 (金)

なんとかなる①

迷いがあって、誰かに相談したとします。
そして、「なんとかなるよ」なんて応えが返ってきたらどう思いますか?
相談しなきゃよかった。こっちは真剣なのに。馬鹿にすんな。って思うかな。
 
どうして このようなことを書いたかというと、
ある仏教青年会に参加して、「○○という相談を受けた場合、どう応えますか?」という発題をいただいたのです。
それをもとに、参加者みんなが、想いを語る。
面白いことに、みんなで語っているうちに導き出たことばが「なんとかなる」だったのです。
  
実際、困り果てて私に相談してくれた相手に、「なんとかなる」なんて返事は、なかなか出来るものではありません。よほどの信頼関係がなければ。
でも、「なんとかなる」という返事は、突き放したものではないのです。
   
「なんとかなる」
結果がどうなるかはわからないけれど、結局は「なんとかなる」もの。
でも、「なんとかなる」という考え方は、「なんとかなる」という声を掛けてもらったからこそ意識できるのです。
「なんとかなる」って言われずに育った人は、「なんとかなる」という考え方にたどり着けません。思いもしません。
今の状態をなんとかしたい。自分でなんとかしなきゃ。どうすればいいんだ。
と、もがいている人にとって、「なんとかなる」という選択肢が有ると、心の余裕の生まれて来ます。

「なんとかなる」
楽天的・楽観的に構えよという言葉では、決してありません。
ある意味、これ以上ない核心を突いた言葉です。
軽く口に出せるものでもありませんが、「なんとかなる」という選択肢があるんだよということを、悩みを抱えている人に知っておいてほしいと思います。

2007年7月26日 (木)

御影堂ご修復現場

7月19・20日、「通信員」というお役目の協議会で、京都のご本山(東本願寺)に行ってきました。
20日には東京に戻っていたのですが更新が滞ってしまいました。ずっと京都に行ってると思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。すみません。
協議会終了後、ご修復中の御影堂(ごえいどう)の現場視察をさせていただきました。
その写真をアップしますので、ご覧ください。
 
Dscf0609
ヘルメットをかぶって、御影堂へ出発
 
Dscf0610

Dscf0630_2
御影堂内です。
 
Dscf0631
 
Dscf0634
これから屋根に敷き詰められる瓦です。
ご懇志をいただいた方のお名前が書かれています。
 
Dscf0638
御影堂下層部の屋根
 
Dscf0650
作業が進む下層部側面
 
Dscf0652
階段を上って、阿弥陀堂を拝みながら上層部へ
 
Dscf0654
圧巻の上層部
 
Dscf0659
整然と並んだ瓦に身も引き締まります
 
Dscf0662
鬼瓦 重さ3トンです
 
古からの想いと、現代の想いが合わさり、未来へと引き継がれていく。
そんな空気を感じました。
今度は、門徒さんを連れて見学に行きたいなぁ。
  
ご修復状況をもっと詳しく知りたい方は、東本願寺のHPをご覧ください。
はじめから本山のHPをご紹介した方が、案内が丁寧でしたね。

2007年7月19日 (木)

ご本山参拝中






阿弥陀堂です。








ご修復中の御影堂です。



2007年7月18日 (水)

新潟県中越沖地震の被災者の方々にお見舞い申し上げます。

教区HPに情報がリンクしてありましたので、ご覧ください。
暮らしにじぃーん 新潟県中越沖地震

2007年7月17日 (火)

新盆法要でお話したこと⑥(完)

新盆法要でお話したこと 「毎日がお盆」
 
「南無阿弥陀仏」とお念仏申してください。
でも私は、そのたった六字の名号を称えることすら忘れて、日常を生きています。
「お念仏称える、それだけでいいのですか?」
その、たった「それだけ」のことが出来ないのです。
 
今日は新盆法要ということでお集まりいただきました。通夜葬儀・納骨法要を勤められ、新盆法要があり、これから、ご法事を迎えることとなります。
それら仏事は、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す場を、私がいただいているのです。私が、亡き人のために勤めるのではありません。
「お念仏申す生活を送ってくれよ」…亡き人からのメッセージです。
 
お盆だからといって、迎え火・送り火、ナスやキュウリでのお飾りなど、特別なことは何もしなくていいと言いました。でもそれは、文字通り「なにもしなくていい」ということではありません。
「南無阿弥陀仏」と念仏申す。それで充分なのです。常に南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。
そういう意味では、毎日がお盆であり、お彼岸であり、ご法事なのです。なにもしなくていいから楽なのではありません。お念仏は、老若男女・行住坐臥(何かしていようが休んでいようが、座っていようが寝ていようが)、誰でもいつでもできる行です。忙しいのです。

亡き人から、聞法により私を見つめなおす機会をいただく。これからの私の歩みが問われる。お念仏申すご縁をいただく。
それが、本来のご供養だと思います。
 
最後に、皆さんご一緒に「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

以上、「新盆法要でお話したこと」のダイジェストです。お盆前に書き終えようと思っていたのですが、7月盆が終わってしまいました。でも、8月盆はこれからですから、ご勘弁ください。
ダイジェストのつもりが、かなり詳しく書いてしまいました。書いているうちに、話した内容から だいぶ加筆してしまいました。新盆法要に参加された方、「あれ! 副住職、そんなこと言ったかなぁ?」ってところもあるかもしれません。それもまたご勘弁を。
これでネタバレですね。来年の新盆法要は、お話の内容を考え直さなくては。

2007年7月16日 (月)

新盆法要でお話したこと⑤

新盆法要でお話したこと 「真宗の供養」 
 
亡き子を生き返らせようとするお母さんに、お釈迦さまは、
「亡き人は生き返りませんよ」と、いきなり真実を突きつるのではなく、「私が生き返らせましょう」とおっしゃいます。
聞きようによっては無責任に聞こえるかもしれません。
お釈迦さまは、一人ひとりの状況に応じて教えを説かれました。
このお母さんに出会い、最善の方法で教えを説かれたのです。だからこそ、このお母さんは、真実に出会い、受け止められました。もしお釈迦さまが初めから「亡き人は生き返りませんよ」と言っていたら、そのお母さんは、我が子を生き返らせてくれる誰かを探し続け、いのちの真実に出会えずにいたことでしょう。
 
すぐに答を求める風潮がある現代。法話を聞いて、「分からない」「難しい」「答を聞かせてほしい」と思う人もいるいことでしょう。しかし、答えはないのです。自分で気付く以外に。しかも、答に気付いたからといって、いつまでも納得できるものではありません。
お子さんを亡くされたお母さんも、いのちの真実に気付いたとはいえ、時には子どものいない淋しさに押しつぶされたことでしょう。でも、もし気付いていなかったら押しつぶされきっていたことでしょう。気付きがあったからこそ、押しつぶされても、なにか自分を生かすはたらきに支えられたのです。

大切な人を亡くされた皆さん、どうか哀しみで止まるのではなく、或いは亡き人の安心を願うのではなく、亡き人は私にどんなメッセージを遺してくれたんだろうと、考えてみてください。
答えは出ないかもしれません。しかし、亡き人を縁として、自分が生きる道を考えるようになる。そのことこそが、本当の意味でのご供養ではないでしょうか。
そういうことを考えながら、手を合わせ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申してください。

2007年7月15日 (日)

新盆法要でお話したこと④

新盆法要でお話したこと 「芥子の実」

お釈迦さまと、幼いお子さんを亡くされたお母さんのお話です。
可愛い我が子を亡くしたお母さんは、子どもを生き返らせてくれる人を、必死で探し回ります。
 「どうかこの子を生き返らせてください!!」
 「誰かこの子を生き返らせてください!!」
                    
「私が生き返らせてあげよう」と言う人はいました。
が、でたらめなことを言っては、そのお母さんから金品を奪っていくのでした。
それでもお母さんは、子どもを生き返らせてくれる人を探し続けます。
そして出会ったのがお釈迦さまでした。
      
で、お釈迦さまも言うのです。
「私が生き返らせてあげよう」と。
「ありがとうございます」
「その子を生き返らせるためには、芥子の実が一粒必要です。どこかのお家から、譲ってもらってきてください」
「はい、分かりました」
「ただし、条件があります。まだ誰も死者を出したことがないお家の芥子の実でないと、その子を生き返らせることはできません」
「分かりました。まだ誰も亡くなられたことがないお家を探して、芥子の実をもらってきます」
  
お母さんは、芥子の実を求めて家々を訪ねます。
どこのお家でも、芥子の実を譲ってくれました。しかし…
「ありがとうございます。ひとつお尋ねします。お宅では、まだ誰も亡くなられたことはありませんか?」
「いえ、うちは○○が亡くなっております」

そうです。どこのお家でも、誰かが亡くなっているのです。
お母さんは、何件も何件も訪ね歩き、結局芥子の実を手に入れることはできませんでした。そしてお釈迦さまの元に戻ります。
 
お釈迦さま「お帰りなさい。芥子の実は譲っていただけましたか?」
お母さん「いえ、誰もが芥子の実を譲ってはくれましたが、誰も大切な人を亡くしてないご家庭はありませんでした」

お母さんは続けます。
「お釈迦さま。お釈迦さまは、私にいのちの真実を知らせようとしてくださったのですね。いのちある者は、いつかいのちを終える日が来る。そんなことは、分かったつもりでいました。でも、いざ私の可愛い子が亡くなると、その事実を受け止めることができませんでした。生き返らせたい、生き返らせたい、その一心でした。でも、その想いは我が子のためではなく、私自身のエゴでした。亡くなった我が子のためのつもりが、私自身の満足のためでしかありませんでした。亡くなった我が子は、私にいのちの真実を伝えてくれる先生でした。そのことに気付かず、危うく子どもの死を無駄にするところでした。可愛い我が子は、生きていなければ可愛くないのか。いえ、たとえ亡くなっても、私にとって可愛い我が子に変わりはないのです。お釈迦さまのおかげで、私は大切なことに気付きました」

お釈迦さまは微笑んで言われます。
「私はなにもしてませんよ。もし、あなたが大切なことに気付いたというのなら、それは、あなたの可愛いお子さんのおかげですよ」

お子さんを亡くされたお母さんは、いのちある者は、いつかいのちを終える日が来るという真実に出会われました。そう、そういう意味で、誰もが同じいのちを生きているのです。そのようないのちに、尊いも卑しいも、富めるも貧しいも違いはありません。
誰もが同じいのちを生きている。その意味において人間は、いや、生きとし生けるものはすべて平等なのです。

誰もが同じいのちを生きられる。そういう場を、「倶会一処(くえいっしょ)」と言います。「ともに、一つ処で会す、会う」。どこか遠くにあるわけではありません。亡くなってから行く場でもありません。今、私が住んでいるこの場こそ、「倶会一処」なのです。

2007年7月14日 (土)

新盆法要でお話したこと③

新盆法要でお話したこと③ 「坊…聞法の場」

新盆法要の案内が来て、お寺に集まられて、お坊さんが読経するものと思われたことと思います。
でも、読経の前に、私(副住職)が法話をする。
「あれ?」って思われた方もいるのではないでしょうか。
 
浄土真宗のお寺って、本来、仏教のお話を聞くところなのです。
ちなみに、お話を聞くところを「坊(ぼう)」と言います。そこで中心になる人、坊の主(あるじ)が必要です。その人を「坊主(ぼうず)」と言います。また、浄土真宗のお寺では、住職の奥さんを「坊守(ぼうもり)」と言います。坊を守り、坊主を守り、法を守る。大切なお役目を担っています。浄土真宗のお寺を本当に支えているのは、「坊守」さんなのです。
話が逸れましたが、法要(お経)に先立って法話があっても不思議なことではないのです。いや、法話なしに法要は成り立たないのです。
 
では、仏教のお話聞いてどうするのか? どうなるのか?
迷っている自分の姿が知らされます。
自分の迷いを他のせいにして生きている、私の姿を。
そのように、知らないうちに他を傷つけ、他のいのちを奪い、生きている私。
そのような者が、どうして生きていられるのか。救われるのか。
 
浄土真宗のご本尊は、阿弥陀如来です。
阿弥陀如来は、そのような私を救いたいと、遥か昔に願いを立てられました。
阿弥陀如来の、衆生を救いたいという願いがあるからこそ、今のままの私でいられるのです。

「南無阿弥陀仏」
「南無」は「頼りとします」「よりどころとします」という意味です。
「南無阿弥陀仏」阿弥陀如来を頼りとして、人生を歩みますという想いが、手を合わさせ、頭を下げさせる。

「坊」
聞法し、自分を知り、自分を見つめ、そこで初めて「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てきます。
「南無阿弥陀仏」…亡き人に安らかに眠っていただく呪文ではありません。私を目覚めさせるお念仏。
亡き人は、阿弥陀如来の願いに気付け気付けと呼びかけています。眠ってなんかいられません。忙しいのです。
眠っている私を起こすために。

2007年7月13日 (金)

新盆法要でお話したこと②

新盆法要でお話したこと② 「追善供養」

(生きている)私が、(亡くなった)あの人のために…

そのような想いで手を合わせている人がほとんどではないでしょうか。
お寺やお墓にお参りしたり、お内仏を飾ったり、お坊さんにお経を読んでもらったりします。ご供養のつもりで。
でも、そのような「(生きている)私が、(亡くなった)あの人のために…」という意識で勤めるご供養は、「追善(ついぜん)供養」といいます。
「追善」…善を追いかける、追加する。さて、どんな善でしょう? 
亡き人が生前為し得なかった善い行いを、生きている私が亡き人に成り代わり致します。ですから、その善い行為を、亡き人のためにさしむけてください。
追善供養って、そういうことなのです。驕り高ぶったご供養ですね。亡くなった方というのは、そんなにそんなに悪い人だったのでしょうか。善い行いをしてこなかった人なのでしょうか。私を生んでくれた。育ててくれた。影響を与えてくれた…。そのご恩は、数え上げれば切りがありません。亡き人が生前為し得なかった善い行いなんてないのです。
もちろん、そんな追善のつもりで手を合わせている人は少ないと思いますが、知らないうちに亡き人を貶めて(おとしめて)いる、蔑んで(さげすんで)いるのかもしれないのです。

2007年7月12日 (木)

新盆法要でお話したこと①

新盆法要でお話したこと① 「迎え火 送り火」

お盆といえば、「迎え火送り火」を思い起こされる方もいるのでは。
でもご葬儀の際、「安らかにお眠りください」って言っておきながら、お盆になると、なぜ亡き人(亡き人の魂)を迎えたり送ったりするのでしょう。
しかも、お盆の帰省ラッシュで混んでそう。とても「安らかに」していられないですよね。
 
身の回りに不幸が続けば、「(亡くなった)○○が迷っているのでは…」
嬉しいことがあったときでも、「(亡くなった)○○に報告しなくちゃ♪」
 
「迎え火送り火」は、地域の習慣と化してる場合もあるので、それを否定するわけではありません。
自分の身の回りの出来事を、亡き人とお話したくなる気持ちもよくわかります。いや、そういう場(お内仏やお墓)ってとても大切です。どんどんお話して、自分の思いを吐き出して、「あぁ、私ってそういうこと考えてたんだ」って気持ちの整理をしてください。
 
気をつけたいことは、亡き人は迷ってないってこと。
もし、なにか不安になることがあっても、それは、私自身の問題なのです。亡き人のせいではありません。
それどころか、「自分を見つめよ見つめよ、南無阿弥陀仏とお念仏申せ申せ」と、亡き人は今現に、私に呼びかけてくださっています。忙しいのです。

亡き人が迷っているのではない。
私が迷っているだけ。

 

 
7月7・8日、西蓮寺新盆法要が勤まりました。
この一年の間に身近な亡くされた方々にお集まりいただき、合同の新盆法要をお勤めさせていただきました。
法要に先立ってお話させていただいたことを少々…

2007年7月10日 (火)

足場が組まれている

でっかいものを
作ろうとして
はじめて 知った

でっかいものを作るには
それよりでっかい足場を
組む作業が必要な事

そして その作業は
地味で
単純で果てしない事

   (「ハチミツとクローバー」第9巻)
       
今、「ハチミツとクローバー」(漫画:羽海野チカさん原作)にはまっています。
はじめは登場人物が頭に入らなくってなかなか読み進められなかったのですが、途中からググッと引き込まれてしまいました。最後は泣いてたりして。
 
ジーンと来ることばもいっぱいあったけど、この竹本君のこころの中の声が好きです。
  
私が生きていくには、私の周りに、私なんかよりもっともっと大きい足場が組まれているんだなぁ、いや、組み続けられているんだなぁって思いました。
親・兄弟・身内・近所の人々・学校の友達・出会った仲間・会うこともないかもしれない人々、そして阿弥陀さま。
 
でっかい足場って、私が私のために組むのではない。 
私が生きていくに先立って、たくさんの人の想いや力で組まれているんだなぁ。だから私は生きていける。成長していける。 

でっかいものを
作ろうとして
はじめて 知った
 
  
動いているだけじゃ気付かない。
「生きよう」と思って、はじめて気付くことなのかもしれない。


(おまけ)
落着かない生活を送っていて、ブログの更新が滞ってしまいました。
でも、発見がありました。(ほぼ)毎日更新しているよりも、更新が滞る方がアクセス数が多くなるという発見が。
心配して見てくれるのかなぁ? 
ご心配をおかけしました。元気にしております。

2007年7月 1日 (日)

2007年7月のことば

  Dscf0460
  私を傷つけるのが人なら、
   私を支えるのも人
  私が傷つけるのが人なら、
   私が支えるのも人

共命鳥(ぐみょうちょう)をご存知ですか?
共命鳥は、胴体はひとつで頭がふたつ。共命鳥の容姿はとても美しく、誰もがほめたたえるほどです。

ひとつの胴体に頭がふたつある共命鳥は、容姿の美しさとは反対に、いつも喧嘩ばかりです。
「お前の容姿が気に入らない」
「お前さえいなければ、私だけがほめたたえられるはずなのに」
「お前さえいなければ、この美しさは私だけのものなのに」
お互い、相手が邪魔で仕方ありません。
   
「邪魔なあいつを殺してしまおう」
ある日、一方の鳥が決断し、もう一方の鳥の食事に毒を盛ります。そうとは知らない鳥は、毒入りの食事を食べてしまいます。鳥は苦しみ、死んでしまいました。
さて、頭はふたつと言っても胴体はひとつです。結局、毒を盛った方の鳥も苦しみ、死んでしまいました。
 
  ☆
  
共命鳥は、どこにいるのでしょうか? なにを伝えようとしているのでしょうか?
ひとつの胴体にふたつの頭。共命鳥は、場を同じくする仲間と共に生きている私の姿を表わしています。
親子・夫婦・兄弟・家族・学校・会社・地域…私の身の回りを見渡しても、かなりの数の共命鳥がいます。頭の数も、どんどん増えていきます。
地球だって共命鳥。地球温暖化が騒がれているけれど、「自分さえよければいい」の結果が、「自分を苦しめる」ことだと、やっと気が付いてきたようです。
たとえその規模は違っても、場を同じくするということは、そこには同じ根っこを生きる仲間がいるということ。誰もが、あらゆる生き物が、根っこでつながって生きています。誰かが傷つけば、その傷は私をも傷つけます。
  
 「あいつさえいなければ」
 「仲よしが集まれば、喧嘩もしないだろう」
 排除の思想と仲良しの思想
 相反する思想のようだけど
 どちらも結果は同じ
 めぐりめぐって自分を傷つける

     
        
私の中にも共命鳥はいます。
なにかあったとき、自問自答することはありませんか? 自分の中で、天使と悪魔が格闘することはありませんか?
つらいことと楽なこと。つらい道を選んだ方が、後々自分のためになると思っていても、目の前の楽に手を伸ばしてしまう。
  
 私の中に、ふたりの私。
 自分に厳しい私と、自分に甘い私。
 ふたりは、いつも喧嘩ばかり。
 だけど勝つのは、いつも自分に甘い私。
 その行く末は、
  さて、どうなることでしょう?
  
  
    
共命鳥。私と、もう一方の頭は阿弥陀さまかもしれない。
「生きよ 生きよ」と、常に呼びかける阿弥陀さま。しかし、その声が聞こえない私。常に呼びかけられているのに、常に迷い、常に淋しく生きている。

 私が私を生きないで、
 誰が私を生きるのか。
 阿弥陀さまの呼び声に、
 「南無阿弥陀仏」と応えるとき、
 私の眼前に、私を生かす道が現われる。
 
   
  ☆
   
共命鳥を譬えに、共に生きることの窮屈さ、大変さ、つらさを書き連ねましたが、反面、「私はひとりでは生きていない」事実を感じることもできます。
ふたつの頭のそれぞれが、もう一方の想いを必死で感じようとするとき、お互いを生かしあう「共に」の関係が生まれます。
 
   
Dscf0462
今月の人形は、石でできたカメの親子です。
大久保石材様よりいただきました。ありがとうございます。

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