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2007年5月26日 (土)

闇あるがゆえに光あり

表面光明煥然たれども、裏面には限りなき悲痛を包含する。
裏面の闇黒あるが故に、表面の光明が現はるる。
如来は尽十方の無碍の光明である。しかも深くその御胸に入る時に我は無限の闇黒を見る。
我々は自己の闇黒の存在を以て常に如来の存在を否定せんとした。
誠に如来を以て単なる光明としたならば勿論爾くなければならぬ。
しかも如来は無限の光明なると共に無限の闇黒である。
故に我等の闇黒はかえって如来を肯定する所以となる。
然らば如来の闇室とは何ぞや。
我惟うに如来は無辺の蝋燭である。
彼は尽十方の光明を以て外十方を照らす。
而も光の中心は又無辺の闇黒である。
この無辺の闇黒とは大悲の本願である、修行である。
智慧を以て光明とせば慈悲は闇黒である。
如来は外面より見れば光明にして、内面は闇黒である。
この如来の闇黒は誠に如来光明根本原動力にして、如来の真生命はここにある。
如来の本願はこの闇黒の御胸より涌き出でた。
  
            曽我量深「大闇黒の仏心を観よ」
   
   
聖なる者・救い主に闇があるなんて、普通は思いもしない。「心の清さが、迷いの衆生を救わしめる」と、思っているのだから。
しかし、曽我量深師(明治期の真宗の教学者)は、阿弥陀如来が大きな闇を抱えているという。
その闇があるからこそ、衆生救済の願いを立てることができた。
我々衆生も、闇を持つからこそ、如来の慈悲を感得できる。
持っていてはいけないもの、捨てなくてはいけないものと思われている「闇」こそが、救いには欠くことが出来ないものである、と。
  

 
先日輪読会に参加し、曽我先生の「大闇黒の仏心を観よ」を読みました。如来にも闇があるなんて、ビックリしました。ちょうど「闇」について考えているときに、「大闇黒の仏心を観よ」を読むご縁をいただきました。
数年ぶりに参加した輪読会で、こんなビックリに出会えるなんて。以前にも「大闇黒の仏心を観よ」は読んでいるのに。「闇」について考えてなければ、こころに引っかかりもしなかったことでしょう。「ここをお読みなさい」という呼びかけだったのかもしれません。
 
教えは、問題意識なく聞いていても、なにも響かないことでしょう。
問題意識を持って仏法聴聞していると、何かしら響いてくるものです。
 

 
輪読会で、
「“闇”を持つ者が衆生救済できるわけがないではないか」という意見が出ました。
反面、
「“闇”があるからこそ、衆生を救済できるんだと思います」という声も聞かれました。
   
如来の本願はこの闇黒の御胸より涌き出でた
何気なく読み飛ばしてしまいそうだけど、実はとても大変なことを教えてくださっています。
  
闇があるから、光がある。
闇を持つから、光を感じる。

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コメント

曽我先生も時期によって教説が少しづつ変っているように感じていますが、中期以降は「闇を持つ」のは「法蔵菩薩」であると説かれることが多いようです。先生は法蔵菩薩を「アラヤ識」であるとも説かれていますが、アラヤ識には善・悪の全ての種子が熏習されているのですから、闇があるのも当然でしょう。闇を持つが故に光を求め、一切衆生の闇を引き受けて光へと向かわれるのが法蔵菩薩ではないでしょうか? ただし法蔵菩薩と阿弥陀仏との因果は一如ですから、結局、阿弥陀仏も闇を持つと言っても同じなのでしょうが・・・。生半可な知識を書いてすみません。

ロウソクに光をともせば明るいところと、闇のところに分かれるんですよね。
光が無ければ、闇という存在も無いのかも知れません。

阿弥陀仏があるからこそ、闇が見えてくるような気がしました。

☆やすさん こんばんは
阿弥陀如来と法蔵菩薩を厳密に書き分けようとすると、普通に使われている表現も、見直しが必要ですね。
「阿弥陀如来は、念仏申す衆生を救いたいと願われました」とか。
 
『法蔵菩薩を「アラヤ識」であるとも説かれて、アラヤ識には善・悪の全ての種子が熏習されている』
「阿弥陀は我なり」ではなくて、「法蔵菩薩は我なり」とか。

☆たかさんへ
闇があるからこそ、阿弥陀仏が見えるんですよ。
私、阿弥陀さんに、しょっちゅうお会いしてます^^
(なんて書くと、先輩方からいろいろ言われそうだ…)

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