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2007年5月17日 (木)

心の闇

少年による母親殺害事件が起きました。
今回の事件に限らず、原因がハッキリしない、納得できない、不可解な事件があると、犯人を凶行に向かわしめた原因を、報道では「心の闇」と表現します。

森 達也さんのお話を聞きに行ったときに、次のようなことを教えていただきました。

オウムの事件が起きたとき、人々は不安や恐怖を感じた。それは、事件そのものに関する不安・恐怖でもあるけれど、なぜオウム信者が地下鉄にサリンをまいたのか動機がハッキリと分からないという不安・恐怖なんです。

動機・理由がハッキリしていれば納得できるというわけではないけれど、オウムの事件までは、ハッキリした動機・理由あって犯行に及んでいた。ところが、オウムの事件は、動機・理由とされるものが言われはしても、とうてい納得できるものではなかった。それゆえ、人々は余計に恐怖感を覚えた、と。


 
今回の母親殺害の事件にしても、「殺すのは誰でもよかった」と少年は言う(言っているらしい)。
やはり、納得できる理由ではない。
そこで、この少年は人とは違う何かを抱えているのではないかということが考えられ始める。「心の闇」という表現で。
確かに、「心の闇」の部分もあるのかもしれない。しかし、「心の闇」とは、この少年だけが持つものだろうか? ハッキリした動機・理由もなく罪を犯す者だけが抱えるものだろうか?
いや、誰にだって「心の闇」はある。誰にだって心当たりはあることでしょう。「自分は、なんて恐ろしいことを考えるんだ」「(自分に対して)嫌な奴だな」って思うことありませんか?
 
「心の闇」が犯罪を発動させるわけではない。「心の闇」の導火線に火をつけてしまう何かに、出会ったか出会わなかったかの違いではないだろうか。誰もが「心の闇」があるのだから、そこに火がついてしまうことも、誰にでも有り得ること。
  
動機・理由・原因が知りたいというのは、自然な欲求。でも、全てがハッキリ分かるものではない。
「自分のことは自分が一番分かってる」と言う人もいるけれど、実は一番訳がわからないのは自分自身。自分の「心の闇」すら見えていないのだから(見えてしまうことこそ、一番の恐怖かもしれないけれど)。
 
知りたいという欲求を満たす、仮に満足させるために、「心の闇」を他者に当てはめるのは、かえって何も見えなくしてしまいます。
 
森 達也さんに教えていただいたことです。
日本では犯罪は減っているんです。特に、少年による犯罪は。
しかし、報道する側からすると、「犯罪は減っている」「日本は安全です」と言っても視聴率や新聞雑誌の売り上げは伸びない。「犯罪が増えている。特に凶悪犯罪が」「日本はもっとセキュリティに力をいれなければいけません」と、不安を煽った方が民衆は興味を持つ。それが、今の報道の姿です、と。

「心の闇」のせいにして何も見えなくしてしまった結果、余計に闇の中を彷徨っているのが現代日本人のようです。 

(付記)
「心の闇」という表現、ここ最近作られた言葉だろうと思っていましたが、平安の昔からある言葉のようです。
しかし、本来「心の闇」とは、「愛しい人を想う」「親が子を(子が親を)想う」気持ちを指していた言葉だそうです。
今では正反対の使われ方をしていますね。でも、愛しい気持ちが強ければ強いほど、その想いは憎しみに変わることがある。憎い相手だと意識することから、相手を認めることに変わることもある。
「心の闇」という言葉から、人間の複雑な心の移ろいが見えてきます。

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コメント

今、「涅槃経」を読んでいますが「心の闇」という言葉を聞くと「一闡堤」を思い起こします。仏は一闡堤と共に地獄へ堕ちて、一闡堤が一念の改悔の心を生ずるのを待って、生じたら種々に説法して一念の善根を生ぜしめて救うと説かれています。私の「心の闇」をどうにかして下さるのは如来様だけのようです。一念の善根とは「南無阿弥陀仏」でしょう。私の善根ではありませんね。

☆やすさん こんばんは
若いお坊さんたちと、「信心獲得」について話していました。

獲得するんだから、やはり自力ではないか。
いや、はからいを捨てたところで得られる信心があるはずだ。
いや、だからそれは自力だろう。

その堂々巡りでした。他力自力について話していると、陥りやすいところですよね。
「南無阿弥陀仏」は如来より賜りたる善根。私の善根ではありませんよね。
と、お話したのですが、「だからそれって自力でしょ」。
はい、また元に戻ってしまいました^^

この子たちが、どのように思索を深めて行ってくれるのか楽しみです(何様?ってかんじですね)。

オウムの事件の時、私は「それまで誰もが無意識に守ってきた一線を越えてしまった」という気がしました。みんなその線があることを知っていても、あえて見ずにというか・・意識せずに、でもその線を犯さずにいたものを、ああいう形でその線を越えてしまって、それを日本中の人が目の当たりにした、というか・・・。
目の当たりにしたその線はみんなが「越えてはいけないもの」と言う。でも一度それを意識したら、その後はいけないと言われるほど越えてみたくなってしまうような。そんな気がしました。 ほんとに、恐いことだと思いました。(なんかわかりにくくてすみません)

☆☆
「愛しい人を想う」「親が子を(子が親を)想う」ことが「心の闇」・・っておもしろいですね。心の中の自分でもよく見えない場所、本能的なもの、無意識?なものってことなんでしょうか・・・でも人の気持ちってほんとに表裏一体で・・・その意味ではみんな、「心の闇」に支配されていますよね・・

闇って字の形から、すると門の音なのでしょうか?もし、そうなると、心の門から音がする。
強引ですけど、音はどう聞こえるか、どう聞くか

愛しい人を想うことっていい音ですね。
平安の人は、自分の心がままならぬだけどそれを
闇と捕らえる余裕がある。

その時代の言葉と思えるもの「やみ、ものやみ、いみ・・・連想するときりがない」けど、死は身近にあって、その余裕がある。

心の闇 その頃から色は違えどあるってことは
今も誰でも大小あるのでしょう。

今、平安の人ほど心を見る機会を与えられているかどうか、やはり、自分が仏の光の中にいるとするかのような気がします。

マスコミの「心の闇」って、悪い対処療法のような感じがします。そこにまた、線を引いて、自分達は、「知らない善良なる第三者」で安心すればいいのかな?それは、余りにも、平安の人の心の捕らえ方から、すれば、単純なような気がする。

私達は、本当の知の豊かさを得たのか、返って、
知に振り回されている。
私にとっての「信心獲得」をつきつけられたような気がします。

☆fairmoonさん こんばんは
「一線を越える」
越えてはいけないものって、なんの理由も理屈もなく、越えてはいけないものとしてありましたよね。
でも、今はハッキリとした理由が求められる時代。そうなると、無意識に共通認識として誰もが持っていた越えてはいけないものがなくなってしまいます。昨今のモラルの崩壊を思わされます。
越えてはいけないものを越えると、あとは坂道を転がるがごとし。加速度がついてしまいます。

「心の闇」
誰もが持っているから、人の気持ちに身を添わせることができるんだと思う。でも、「闇を持つ私」という想いが欠けてしまっている。愛しい人を想う気持ちまで欠けてしまうのだろうか。
淋しいですTT

☆tanukiさん こんばんは
罪を犯した者を、特別な、怪物のような目で見る。
罪を犯した理由を分析し、非難する。
「知らない善良なる第三者」に、誰もが陥ってしまいます。誰もが当事者なのに。
 
自分が必要としないものを排除する「知(恵)」は豊かになったけど、
人生を生かす「智(慧)」まで排除してきてしまったようです。
余裕もなくなるはずです。

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