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2007年5月 7日 (月)

ともない、はなるる

つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる
                          『歎異抄』

親鸞聖人のことばです。
“人は縁によって生かされている”という身の事実を受け止めて生きられた方のことばです。
“人は縁によって生かされている”…なかなか受け容れられないものです。でも、事実です。

ことばの表面的な意味だけとれば、「出会いがあれば別れもある」ということなのでしょう。
好きな人、大切な人との出会いは私の人生の支えとなる。しかし、出会いがあれば別れも付き物。どんなに好きな人とでも、自然と距離が離れることもあれば、意見が合わなくて喧嘩別れすることもある。大切な人との死別だってあり得る。
なぜ“別れ”というつらい出来事があるのか。それは、出会ったから。
それならば、出会わなかった方が良かったのか。いや、出会いに対する感謝・感動があるのは、別れがあるからなのかもしれない。別れのない出会いに、感謝・感動はないことでしょう。
それに、出会いが人生の支えとなったのならば、別れだって、人生の支えに成り得るはず。支えが折れてしまうわけではない。

親鸞聖人のことばに出会い、ずっとこの程度のことを考えていました。「大切な人とのご縁をいただく。その先には別れという縁も必ずある」って。
でもそれは、独りよがりな考え方でした。
私たちは、関係の中を生きています。
つまり、私が大切な人(以下Aさん)と出会ったときには、Aさんと別れている人がいるのです(「別れ」と言っても、会うことが全くなくなるというほどの意味ではなくて、精神的に離れるとか、距離的に遠くなるとか、そういう意味も含めての「別れ」です)。
Aさんが亡くなったとして、でもAさんは先立たれた人々と出会っているのかもしれない(死後の世界があるとかないとかいう話ではなくて、そう思うことによって、気持ちを落ち着かせてきた智慧があります)。

一対一の関係でしかなかったら、私とAさんの出会いと別れのストーリーでしかありません。
でも、たくさん人間がいる中での「出会いと別れ」なのです。出会いという縁の背景には別れという縁が付き物なのです。

「信じられるものは己ひとりのみ」なんて粋がっていた頃は、このような事実に気付きもしませんでした。
「自分ほど頼りにならないものはないなぁ」って思うようになり、このような事実が私の前に開かれてきました。
開かれてきたといっても、事実は事実としてずっと前からあること。ずっと前からあることに、やっと気付きました。

気付きという「出会い」は、別れがあったから。
離れる縁があるということは、つくべき縁があるということ。

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コメント

喜怒哀楽全て含めて今まで、出会った人に会えたらなって思うことがあります。
時間軸は、相手に合わせてね。
私の心にどの人も、影響がありましたし、

叶わぬ願いですが・・。
思い出が浮いてくるとき、
南無阿弥陀仏
ありがたいと思うのです。

☆教信さん こんにちは
「南無阿弥陀仏」
合わさる手の中には、思い出がいっぱい詰まっているのです。
いや、思い出が手を合わさせてくださるのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏(^人^)

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