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2007年4月18日 (水)

(-人-)

恨みが理由で人を殺せるのなら、いったい何人の人を殺せば気が済むだろう。
「これで気が済んだ」なんてことは絶対ない。
一度してしまったことは病み付きになり、次に次にと、歯止めがかからなくなる。
仮に歯止めがかかったとして、殺された側の標的となる。殺した人の何倍もの人から命を狙われる。
殺しの連鎖はとどまらない。私の中でも。人と人との関係においても。
  
長崎の伊藤一長市長が殺されました。
ご遺族の思いは計り知れません。
犠牲者は、ご本人・親族・支援者のみならず、長崎市民・長崎県民をも含む。
選挙運動中に起こったことを考えると、日本国民も犠牲者。
伊藤市長が核廃絶に一生懸命だったことを考えると、核廃絶を願う世界中の人びとも犠牲者。
 
多くの犠牲者を出した今回の事件。
暴力は許せないと人は言う。
その暴力を、暴力で封じ込めようとしてはいないだろうか。
目には目を。銃には銃を。殺しの連鎖を生むつもりだろうか。
銃を、武力を、自己防衛や暴力に対する抑止のためとは言うけれど、手にしていたら使ってしまいたくなるのが人。
暴力は許せないと政治家は言う。
暴力とは、銃や刃物、殴る蹴るだけではない。数の力で、有無を言わさず、戦争が出来る国づくりをしていることを暴力と言わずになんというのだろうか。
 
人を殺すことは許されないことなのに、なぜ戦争をしたがるのだろう。

一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数量が神聖化するのだ。
                 チャップリン「殺人狂時代」

 
このような錯覚が、起きてはいけない。
すでに錯覚してはないだろうか。

「南無阿弥陀仏」とお念仏申す。
念仏申している口からは、愚痴も罵声も発せられない。
「南無阿弥陀仏」と手を合わせる。
合掌した手に、銃は持てない。

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コメント

ニュースで知ったときには驚愕しました。
どのような形でも暴力には反対。

「恨み」って、そんなに簡単に人を殺せるものなのか。アメリカでの事件など、あまりに短絡的ではないかな。

にんげんんは、道具を作り、使う。
でも、殺戮の道具をつくるのは悲しい。

☆たかさん こんばんは
短絡的ですよねぇ。
「恨み」と「行動」の間に、教えがあれば…。
あっても同じだったのかなぁ。

刃物や銃にしろ、ダイナマイトにしろ、原子力にしろ、発明した当初は、人を殺めるためのものじゃなかったんですよね。
より生きやすくするための知恵の産物だったのに、より生きにくくしてしまう無知の結晶に成り下げてしまいました。

戦争史の本読むと大概、経済的な理由です。
満ち足りる=満足するって欲望でしょうか
私たちの命、沢山のものに支えられてます
真宗はそこに気づかせてくれる
唯識はそこの共通意識、私たちの意識って一部なんだよって
あれも足りない、これも足りない
ってのが積み重なっていつかは積み重なった物自体が暴走しだすってのが、人類での悪ではないでしょうか?
稚説ですけど・・・・・。

☆tanukiさん こんばんは
コメントありがとうございます^^

私たちの欲望、あれも足りない、これも足りない。
でも、私とは、すでに満ち足りた存在なんだと思います。だから私が私としてある。
このギャップに苦しんでいるのかもしれませんね。でも、その苦しみを抱え続けるのが生きるということかもしれません。そういう意味では、まだまだスタートラインにも立ってないのかもしれません。

戦争は
不足によって起こるのではなく
満足であるがために起こる

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