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2007年4月 4日 (水)

仏法と鉄砲

こんにちは。
2007年4月のことば」お読みいただけましたでしょうか?
春を迎え、これから新しい人生を歩みだす希望に満ちたときに、「死に支度 いたせ いたせ」なんて言われると、「エッ!!」と思われるのではないでしょうか?
でも、死ぬための支度ではなく、仏法に聞いて人生を歩んでほしいなぁという願いで、小林一茶さんの句を掲示させていただきました。
   
その文章中、「仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです」と、書きました。
そうしましたら、寺報を見た方から「副住職、これってどう違うの? なんとなく分かるけど、分かんないや」とご指摘受けました。
分かりづらいかなとは思いましたが、敢えて説明も加えずに書きました。お読みになった方 それぞれに意味を考えていただきたくて。その部分を気にしてくださるなんて、よくお読みいただいてるんだなぁって、嬉しかったです。

仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです
という表現は、以前読んだ高光 大船(たかみつ だいせん)さん〔明治期の念仏者 金沢市〕のエピソードが頭にこびりついているので、出てきた表現です。
ご紹介いたします。
  

高光さんが、ご門徒の家で行われる報恩講(ほうおんこう)に出かけ、その家のあんちゃんに声をかけた時のお話です。

(高光さん) あんちゃんも今日の報恩講に参ってくれるか。ありがとう。
(あんちゃん) おらにとって、今日は厄日や。
(高光さん) なんでや。
(あんちゃん) おら今日非番やで、これから映画でも見に行こうかと思っとったら、父ちゃんも母ちゃんも、今日は報恩講さまやで、参ってくれとあんまり頼むから、おら仕方なしに居るがや。おらにとって今日は厄日や。
(高光さん) 厄日でもなんでもよい。よう参ってくれた。ところで滅多に会わんのやから、仏法について何か聞いてみんか。
(あんちゃん) おら毎朝起きて流しに顔を洗いに出てくると、父ちゃんも母ちゃんもおらの顔を見るなり、仏法聞け、仏法聞けと言う。あの仏法て何や。難しく言われても分からんし、くどくど言われても分からん。一口で仏法て何や。教えて下さんせ。
(高光さん) 仏法はな、鉄砲の反対じゃわいの。
(あんちゃん) なんや、鉄砲の反対? 鉄砲の反対って何や。
(高光さん) 鉄砲はな、生きとる者をドスーンと殺すのが鉄砲やろが。仏法はな、「死んだ者」を生かすのが仏法や。
(あんちゃん) なんじゃ、あの棺桶に入っているのを生かすのが仏法か。
(高光さん) バカタレ。あれは死骸や。あれは「死んだ者」じゃないわい。
(あんちゃん) そんなら、どんなのを「死んだ者」と言うのや。
(高光さん) お前さんのようなのを、「死んだ者」と言うのや。
(あんちゃん) バカにするな。おらは生きとるぞ。
(高光さん) それは動いとるだけじゃ。生きとるんじゃない。お前さんの商売(国鉄の機関車の運転手)で言えば、機関車に石炭をパクーパクーと放り込んでやると、定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。あれは、動くのであって、生きとるのじゃないわいの。お前さんも、三度三度のまんまを口の中へパクーパクーと放り込んでやると、習慣という定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。それは動いてるのであって、生きとるんじゃないわいの。
    
この一言が、あんちゃんの目を覚ましました。この呼びかけのことばに出遇って自分の姿を知らせてもらい、高光さんについて仏法聴聞の生活を送られました。
〔参考『死すべき身のめざめ』松扉 哲雄(しょうひ てつお)(法蔵館)〕
  
「仏法は死んだ者を生かす」。生きているつもりが、動いているに過ぎなかった。厳しいことばです。このことはあんちゃんに限った話ではありません。この私が、仏法に出遇うことを願われたことばなのです。


   
このお話は、2004年9月の寺報で紹介させていただきました。
仏法と鉄砲の話を読んで以来、「仏法って何?」ってことを考えるとき、いつもこのことを思い出します。
仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです」とは、このお話に合わせて表現するならば、
仏法聞かなくても、動くことはできる。しかし、仏法聞けば、生きることができる」ということなのです。
 
さて、動いてるだけですか? 生きてますか?
春です。新しい歩みを、動かされるだけのものにしてしまいますか? それとも、生きていきますか?
自分の胸に、鉄砲ではなく、仏法を突きつけてみませんか!!

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コメント

胸にずしりときます。
ただ「動いている」だけの自分になってないかと。
人間として「生きている」のかなぁ。
ついつい、日常を常のままに過ごしてしまっているような。。。能動的にならなくては。
今日は天気もいいことだし、「生きて」いきます。

「仏法を聴聞しても生活は出来ません。
 仏法を聴聞すれば生きることも死ぬことも出来ます。」

・・・と。格好イイことを言ってみたいですネ。
言うは易し。聴聞は難し。

☆たかさん こんにちは
彦根に行ってました。彦根城の桜がきれいでしたよ。
東京はもう散っているのに。
同じ桜なのに、地域によって咲く時期が違う。ほんの数メートルしか離れてないのに、咲き方がまるで違うこともある。これから咲く地域もある。
咲き方は桜それぞれ、生き方も人それぞれ。あせって人生の花を咲かせることはないのです。でも、咲かせなくてもいいやと思うよりは、いつか、という想いは抱き続けていたいです。

☆やすさん こんにちは
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
正岡子規『病床六尺』

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