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2007年4月

2007年4月26日 (木)

つよよわい

4月になり、学校・仕事、新たな一歩を踏み出した皆さん、いかがお過ごしですか? もう慣れましたか?

新たな一歩を踏み出した方に限らないですが、生きているといろいろなことが起こります。いろいろな人がいます。
そこを我慢して、努力して、気にしないで、うまく対処して乗り越えていく人もいます。
そこでつまづいて、挫折して、気持ちが萎えて、どうしようもなくなってしまう人もいます。
どっちが良くて、どっちが悪いという話をしようというのではありません。
物事を乗り越えた人をこころの強い人、挫折してしまう人をこころの弱い人と分類する人がいます。果たしてそうなのでしょうか?
  
強い弱いって、なにが基準なんでしょうか。
頑張れたら強くて、へばってしまったら弱いのでしょうか。
 
なぜ「強い弱い」について書こうと思ったのかというと、「自殺する人はこころが弱いからだよね」って面と向かって言われたのです。生きてる者からすれば、そういう見方をする人もいることでしょう。でも、強かったら何があっても生き、弱かったら壁にぶち当たったときに自ら死を選ぶのでしょうか。
  
仮に「強い弱い」という表現を使わせてもらうと、
強いからこそ、壁にぶつかったときに、こころがポキッって折れてしまうことがあります。
自分の弱さを知るからこそ、どのように対処したらいいのか考え、慎重に物事を乗り越えることもできます。
「自分はこころが強いから」という意識で、「なぜ自殺するんだろう。それはこころが弱いからだ」と言い放ってしまう方、ポキッと折れないようにご注意を。 
自殺しない人を強い人というのではない。自分の弱さを知る者を強い人というのではないだろうか。弱さ知るゆえに、どのように生きたらいいか考え、どのように生きたらいいか考えるがゆえに、自分の選んだ道を突き進む。その道の中には、死という道もあるのかもしれない。

確かに、先進国と言われる国の中でも、日本の年間自殺者数は群を抜いています。その理由を探り、対処法を考えなければいけない現実はあります。
でも、こころの強い弱いが問題なのではないのです。もっと言うならば、人間はこころ弱い生き物なのです。それゆえ誰かを必要とし、誰かと一緒に歩み、時には大事な誰かをも傷つけてしまう。

「自殺した人と、してない人の違いはなんだと思いますか? それは、自殺したか しなかったかの違いでしかないんです。強い弱いの問題じゃないんです!!!!」
珍しく喝破してしまったじゃないですか。失礼しました。

2007年4月25日 (水)

愛憎会苦 

「好き」を口にするのは、こころの底からの叫びなのでしょうが、
「嫌い」を口にするのは、どういう心境かな?
わざわざ言わなくてもいいと思うのです。

この人は好き あの人は嫌い
このチームは好き あのチームは嫌い
このお店は好き あのお店は嫌い
この食べ物は好き あの食べ物は嫌い

まぁ、時と場合によりますね。
面白いなぁって感じたのは、好きも嫌いも「意識している」ってことだなぁって思ったのです。
意識している。関心がある。無視はできない。
好きも嫌いも、根っこは同じなのかもしれないですね。
  
マザー・テレサは言いました。
愛の反対は憎しみではありません。無関心です」と。
好きの反対も嫌いではなく、やはり無関心。
「意識している・関心がある・無視はできない」という意味では、嫌いな○○も、「好きではない」ということではないようです。
 
それに、「これは好き あれは嫌い」という書き方をしましたが、
「これは好きだったけど 今は嫌い」
「あれは嫌いだったけど 今は好き」という、こころの変化は人間には日常茶飯事。
好きな対象をずっと好きで、嫌いな対象をずっと嫌い続けるとも限らない。
好きなものが嫌いにもなるし、嫌いなものが好きにもなる。それは、関心を持っているから。
関心がある対象は、好き嫌い、つまり感情のすべてを導入して接しているのかもしれません。
 

 
仏教では、苦を「八苦」で代表される。
生苦・老苦・病苦・死苦の四苦と、
愛別離苦(愛する者とも別れる苦)
〔あい・べつ・り・く〕
怨憎会苦(憎い者とも出会わなければならない苦)
〔おん・ぞう・え・く〕
求不得苦(求めるものが得られない苦)
〔ぐ・ふ・とく・く〕
五蘊盛苦(存在にそなわっている苦)
〔ご・うん・じょう・く〕

そのうちの「愛別離苦」と「怨憎会苦」について一言
先日なぜか頭の中で「愛憎会苦」という言葉に置き換わってしまいました(単なる記憶違いなのですが)。
  〔「愛別離苦」・「怨憎会苦」→「愛憎会苦」〕

「憎い者と会う苦しみは説明つくけど、愛する者と会うことも苦しみだなんて、お釈迦さまも感傷的な方だったんだなぁ」って、自分の記憶違いを棚に上げて思ってました。

でも、「愛憎会苦」…
「愛する者と会う苦しみ、憎い者と会う苦しみ」と分けて考えるのではなく、
「愛憎する者と出会う苦しみ」と解釈できるなぁ、なんて勝手に味わってました。

人生に愛する者と憎しむ者とが、別々にいるのではなく、
出会う者のすべてが、愛憎含めた対象であるということ。
その「苦」は、現代的な「苦しみ」という意味での「苦」ではなく、「事実」という意味での「苦」なのです。

2007年4月24日 (火)

スパイス

失敗ってなに? 成功ってどんなん?
 
一応、自分の中で失敗・成功はあるだろうし、世間的にみた失敗・成功もある。

その行為だけを見れば、失敗・成功という評価・結果はできる。

でも、失敗(と言われる結果)があったからこそ成功(と評価されること)へと導かれることがある。
成功(と言われる結果)があって、そこで満足したり、傲慢になったり、安心したがために失敗(と評価されること)に転ずることもある。

単発の行為だけを見るのではなく、一連の経緯・これからの歴史という長~い目でを見ると、失敗が成功に、成功が失敗に転ずることもある。
結果だけ見られちゃうと、前者は成功、後者は失敗と判断されてしまうのだろうけど。
 
人生の営みは、さまざまな行為の連続。
その断片だけ、一部だけを見て失敗・成功と決め付ける見方が、自分をどんどん追い詰めている。

もちろん、失敗したら反省すべきだし、成功したからと言って気を抜いてはいけない。他者を軽んじてもいけない。

失敗は成功につながっているし、成功は失敗につながっている。
(う~ん、失敗・成功って表現がちょっと嫌だなぁ)
 
失敗も成功も、人生のスパイス。
そういう結果があったから、人生の隠し味となる。
そういう結果がなかったら、味気ない人生になっていることでしょう。
今までの出来事があって、今の私となりました。
 
私の人生において、失敗も成功も、今のわたし。
どっちが良くて どっちが悪いなんて、分けて考えられるものではありません。

2007年4月23日 (月)

世界中の悪がなくなったとき、悪がはびこることでしょう

悪をなくせば 善になるのだろうか

そもそも「悪をなくす」という発想に善はあるのだろうか

その発想の主に善はあるのだろうか

善はあるんだな

「自分こそ善だ」という善が

「自分こそ善だ」という善は 悪かもしれないよ

自身の悪に気付かぬ善がある

自身の悪に気付かぬ善が たとえ(他人の)悪を払拭しても

自身の悪に気付かぬ善 という悪がいつまでも残る

善と悪はあい反するものではなく

善と悪は中身は同じ

見る人・見る時・見る角度で、善にもなるし悪にもなる

2007年4月18日 (水)

(-人-)

恨みが理由で人を殺せるのなら、いったい何人の人を殺せば気が済むだろう。
「これで気が済んだ」なんてことは絶対ない。
一度してしまったことは病み付きになり、次に次にと、歯止めがかからなくなる。
仮に歯止めがかかったとして、殺された側の標的となる。殺した人の何倍もの人から命を狙われる。
殺しの連鎖はとどまらない。私の中でも。人と人との関係においても。
  
長崎の伊藤一長市長が殺されました。
ご遺族の思いは計り知れません。
犠牲者は、ご本人・親族・支援者のみならず、長崎市民・長崎県民をも含む。
選挙運動中に起こったことを考えると、日本国民も犠牲者。
伊藤市長が核廃絶に一生懸命だったことを考えると、核廃絶を願う世界中の人びとも犠牲者。
 
多くの犠牲者を出した今回の事件。
暴力は許せないと人は言う。
その暴力を、暴力で封じ込めようとしてはいないだろうか。
目には目を。銃には銃を。殺しの連鎖を生むつもりだろうか。
銃を、武力を、自己防衛や暴力に対する抑止のためとは言うけれど、手にしていたら使ってしまいたくなるのが人。
暴力は許せないと政治家は言う。
暴力とは、銃や刃物、殴る蹴るだけではない。数の力で、有無を言わさず、戦争が出来る国づくりをしていることを暴力と言わずになんというのだろうか。
 
人を殺すことは許されないことなのに、なぜ戦争をしたがるのだろう。

一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数量が神聖化するのだ。
                 チャップリン「殺人狂時代」

 
このような錯覚が、起きてはいけない。
すでに錯覚してはないだろうか。

「南無阿弥陀仏」とお念仏申す。
念仏申している口からは、愚痴も罵声も発せられない。
「南無阿弥陀仏」と手を合わせる。
合掌した手に、銃は持てない。

2007年4月17日 (火)

いっぽ にほ さんぽ

4月17日(火)
以前ある法座で知り合った方にお声掛けいただき、烏山寺町の散歩会にご一緒させていただきました。
10数名のお仲間と都内のお寺めぐりをされているそうで、今回は烏山の寺町めぐり。
 
京王線千歳烏山駅で待ち合わせて、12名の参加者の皆様と顔合わせ。
駅から、先ずは「西沢つつじ園」に行きました。
まだ早いかなぁとは思ったのですが、つつじがけっこう咲き始めていました。
「西沢つつじ園」。思い返してみれば、小学校の写生会以来でした(26、7年前…)。
写真のつつじは、名前を「摩耶夫人(まやふじん)」と言います。お釈迦さまのお母さん!? と思って、思わず写真を撮ってしまいました。




つつじ園を後にして、西蓮寺へ。
寺の本堂で、ご参加の皆さんと一緒に『仏説阿弥陀経』を読誦。初めて読んだと仰ってましたが、とても上手でした。
その後、法話の時間。
私に声をかけてくださった方が、「2007年3月のことば」を気に入ってくださっていて、お仲間にプリントして配られたとのことだったので、『仏説阿弥陀経』と「三帰依文」の内容についてお話して、「2007年3月のことば」を書いたときの想いなどをお話させていただきました。
ご参加の方々にも「2007年3月のことば」を喜んでいただけて、話している私自身、嬉しかったです。ありがとうございます。
法話が終わって、ちょうど12時。お座敷でお昼の時間です。
 
お昼が終わって、寺町散歩。
本当はここからが本番。ご一緒する予定だったのですが、午後に用事が出来てしまい、ここで皆さんとお別れ。集合写真を撮ってもらい、手を振ってお別れしました。その後、雨が降ってきてしまいましたが、烏山寺町散歩はいかがだったでしょうか?
皆さんの楽しそうな笑顔が印象的でした。またお出かけください。
ご縁に感謝の一日でした。
   
(おまけ)  
3月のお彼岸中に今回のお話をいただいたので、前もって寺町散歩をしてみました。
よそのお寺に入ることって滅多にないので、新しい発見の連続でした。建物のつくりとか、生えてる植物とか、墓地の手桶置き場の様子とか(スパイ!?)。
寺町の、しかもお寺に住んでいながら、知らないことっていっぱいあるんだなぁって、強く感じました。
それだけに、皆さんと一緒に寺町散歩したかったなぁ。一参加者として。

2007年4月15日 (日)

映画「ツォツィ」鑑賞会

4月14日(土) 西蓮寺仏教青年会「白骨の会」開催
奇数月は、寺で輪読会
偶数月は、寺を出て、書を捨てて街に出る会。

今回は「ツォツィ」という映画の鑑賞会。
2006年アカデミー賞外国語映画賞受賞作。

今、日本では、この作品について話題になっていることがあります。
映倫規定により、「R-15」指定を受けました。暴力シーンがあるのが理由のようですが、内容的には15歳以下の子にも観てもらいたいものであるとして、日活は試写会を開催しました。
(結局、「R-15」指定の再審査は却下されてしまいました)
  
内容について書くと、ネタバレになってしまうので書きませんが、個人的には映画館に観に行ってよかったと思いました。
なぜ「R-15」指定なのか? よく分かりませんでした。暴力シーンや人を殺すシーンがあったので、だから指定がかかったと説明されれば、「そうですか」と納得するしかありませんが、この作品の、この内容で指定を受けるのならば、テレビはもっと厳しく審査しなければいけないんじゃないの? と思いました。
でも、「R-15」指定が適切か否かよりも、まずいものは見せなければいい、隠せばいいという風潮はどうにかならないものでしょうか。暴力シーンが暴力を生むと思われているけれど、人の中に暴力性というものは元々備わっていると思うのです。誰にでも。元々備わっているからこそ、その自覚を通して、自ら抑える理性がはたらく。元々備わっているのに、そういうものを隠そう無くそうとするから、一度弾けたときに、暴発する、抑えが効かない。
  
映画鑑賞後、参加者4人で感想を語る会。他の人も、「R-15」指定については首を傾げていました。映画の内容についてよりも、そのことについて盛り上がりました。
でも、入った居酒屋がまずかった。JAZZをガンガンに鳴らしているお店で、集中して語り合う雰囲気ではありませんでした。お店の選択も重要だなと、痛感いたしました。

次回「白骨の会」は
5月12日(土) 午後5時~8時頃 西蓮寺にて
先ずは、奇数月の輪読会にご参加ください。
お待ちしています。

2007年4月14日 (土)

法の流れに身をまかせ

昨日、湯島にあるお寺に、広瀬杲先生のお話を聞きに行きました。
20年近くに亘り、法然上人の『選択本願念仏集』のお話をしてくださってます。でも昨日は、「みなさんのご了解をいただけるならば、『恵信尼消息』のお話をさせていただきたいのですが」と断られたうえで、『恵信尼消息』のお話をされました。
親鸞聖人の七百五十回御遠忌を控え、「宗祖としての親鸞に会う」ということが言われているが、“宗祖”親鸞に会っていない者が、どうして“宗祖”親鸞を語れようかと忠告(警告?)され、“宗祖”としての親鸞に出会い、書面を残されたのは、唯一親鸞聖人の妻である恵信尼だけではないだろうか、というところに立ってお話してくださいました。
あ~ぁ、そうだなぁ!!って、目からウロコでした。
気のせいか、いつもより楽しそうに話されているように思いました。
  
先生は京都にお住まいです。年3回、東京へご出講いただいてます。その3回の法座をいつも楽しみにしているのですが、昨日の私は起きたときに調子が悪く、一瞬「休もうかな」って考えてしまいました。でも、先生はその日の朝に京都から来られて、お話が終わったらそのまま帰られるのです。そのご苦労を思えば、一瞬とはいえ「休もうかな」と思った自分が恥ずかしく思いました。
先生を東京駅までお送りして、お見送りするとき、握手してもらいました。とても嬉しかったです。

お話中、お話している広瀬先生の背後に、フッと曽我量深先生を感じました(霊とかそんな意味ではないですよ)。広瀬先生は、曽我先生のお話を聞いて真宗を学ばれました。
つまり、法の伝統を感じたのです。人から人へ受け継がれていく法の伝統。
「親鸞聖人の七百五十回御遠忌」と書きましたが、普通に考えれば個人の七百五十回忌なんて勤まるはずがないと思うのです。
だけど、七百五十回忌が勤まる。それは、親鸞聖人から一足飛びに現代に生きる我々が親鸞聖人を崇め奉って勤めるのではないのです。親鸞聖人が生きておられた頃から、今に至るまで、法が受け継がれてきたからこそ、七百五十回忌を勤められるのです。
親鸞聖人…恵心尼…いろいろな伝統がありますが、曽我量深先生…広瀬杲先生という伝統を感じることが出来ました。その流れの中に、ご一緒させていただいた幸せ。
法座に参加して、良かったです。

先生を見送った後、一緒に参加していた後輩と、飲みに行って語り合いました。後輩も、何かしら喜びを感じていました(で、ちょっと飲みすぎてしまいました)。

仏法聴聞して、よい人間になるとか、心の平穏を望むとか、苦から解放されるとか、いろいろなことを期待する人もいることと思いますが、こちらが期待することではないのです。
法の伝統の中に身を置ける。その中を生きている(生かされている)。そういう場に、私が誘われているのです。聞いて何かが変わるのではなく、今のままの私でも聴聞できるのです。有り難いことだなぁって思うのです。

2007年4月13日 (金)

川の流れのように♪






川の流れのよ〜に〜♪

生きていると、いろいろありますよね。

流れに身を任せればいいのに、つい逆らってしまう。だから苦しいのかな。

でも逆らってしまうのが人間。

そうでしょ!?って言われたのが親鸞聖人じゃないかな。

加茂川を見ながら、なにを思われたことでしょう。



写真は、飯田橋駅前の喫茶店から。



2007年4月11日 (水)

いただきもの

私が頑張らなきゃ

私がなんとかしなきゃ

私だけが耐えていれば

私だけが苦しみを引き受けていれば

淋しいのは私だけでいい

悲しむのは私だけでいい

私だけ

私だけ

私だけ…
   
   
     
あなたが…いてくれたのですね
 
 
 
私が 私が と思っていたけど
全部あなたからのいただきものでした

2007年4月 4日 (水)

仏法と鉄砲

こんにちは。
2007年4月のことば」お読みいただけましたでしょうか?
春を迎え、これから新しい人生を歩みだす希望に満ちたときに、「死に支度 いたせ いたせ」なんて言われると、「エッ!!」と思われるのではないでしょうか?
でも、死ぬための支度ではなく、仏法に聞いて人生を歩んでほしいなぁという願いで、小林一茶さんの句を掲示させていただきました。
   
その文章中、「仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです」と、書きました。
そうしましたら、寺報を見た方から「副住職、これってどう違うの? なんとなく分かるけど、分かんないや」とご指摘受けました。
分かりづらいかなとは思いましたが、敢えて説明も加えずに書きました。お読みになった方 それぞれに意味を考えていただきたくて。その部分を気にしてくださるなんて、よくお読みいただいてるんだなぁって、嬉しかったです。

仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです
という表現は、以前読んだ高光 大船(たかみつ だいせん)さん〔明治期の念仏者 金沢市〕のエピソードが頭にこびりついているので、出てきた表現です。
ご紹介いたします。
  

高光さんが、ご門徒の家で行われる報恩講(ほうおんこう)に出かけ、その家のあんちゃんに声をかけた時のお話です。

(高光さん) あんちゃんも今日の報恩講に参ってくれるか。ありがとう。
(あんちゃん) おらにとって、今日は厄日や。
(高光さん) なんでや。
(あんちゃん) おら今日非番やで、これから映画でも見に行こうかと思っとったら、父ちゃんも母ちゃんも、今日は報恩講さまやで、参ってくれとあんまり頼むから、おら仕方なしに居るがや。おらにとって今日は厄日や。
(高光さん) 厄日でもなんでもよい。よう参ってくれた。ところで滅多に会わんのやから、仏法について何か聞いてみんか。
(あんちゃん) おら毎朝起きて流しに顔を洗いに出てくると、父ちゃんも母ちゃんもおらの顔を見るなり、仏法聞け、仏法聞けと言う。あの仏法て何や。難しく言われても分からんし、くどくど言われても分からん。一口で仏法て何や。教えて下さんせ。
(高光さん) 仏法はな、鉄砲の反対じゃわいの。
(あんちゃん) なんや、鉄砲の反対? 鉄砲の反対って何や。
(高光さん) 鉄砲はな、生きとる者をドスーンと殺すのが鉄砲やろが。仏法はな、「死んだ者」を生かすのが仏法や。
(あんちゃん) なんじゃ、あの棺桶に入っているのを生かすのが仏法か。
(高光さん) バカタレ。あれは死骸や。あれは「死んだ者」じゃないわい。
(あんちゃん) そんなら、どんなのを「死んだ者」と言うのや。
(高光さん) お前さんのようなのを、「死んだ者」と言うのや。
(あんちゃん) バカにするな。おらは生きとるぞ。
(高光さん) それは動いとるだけじゃ。生きとるんじゃない。お前さんの商売(国鉄の機関車の運転手)で言えば、機関車に石炭をパクーパクーと放り込んでやると、定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。あれは、動くのであって、生きとるのじゃないわいの。お前さんも、三度三度のまんまを口の中へパクーパクーと放り込んでやると、習慣という定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。それは動いてるのであって、生きとるんじゃないわいの。
    
この一言が、あんちゃんの目を覚ましました。この呼びかけのことばに出遇って自分の姿を知らせてもらい、高光さんについて仏法聴聞の生活を送られました。
〔参考『死すべき身のめざめ』松扉 哲雄(しょうひ てつお)(法蔵館)〕
  
「仏法は死んだ者を生かす」。生きているつもりが、動いているに過ぎなかった。厳しいことばです。このことはあんちゃんに限った話ではありません。この私が、仏法に出遇うことを願われたことばなのです。


   
このお話は、2004年9月の寺報で紹介させていただきました。
仏法と鉄砲の話を読んで以来、「仏法って何?」ってことを考えるとき、いつもこのことを思い出します。
仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです」とは、このお話に合わせて表現するならば、
仏法聞かなくても、動くことはできる。しかし、仏法聞けば、生きることができる」ということなのです。
 
さて、動いてるだけですか? 生きてますか?
春です。新しい歩みを、動かされるだけのものにしてしまいますか? それとも、生きていきますか?
自分の胸に、鉄砲ではなく、仏法を突きつけてみませんか!!

2007年4月 1日 (日)

2007年4月のことば

  Dscf0244
    死に支度
       いたせいたせと
          桜かな

            小林 一茶

桜以外にも、姿美しい花は数多くあるのに、桜はどうしてこんなにも人々のこころを魅了するのでしょう。
花開くまでが待ち遠しく、一輪一輪の蕾が花開けば、その美しさが集まって、私を包み込む。咲いたかと思えば、春の風雨とともに、潔く舞い散る。風に舞い散る花びらも美しい。この儚さに、人は、桜と人生を重ね合わせる。

散る桜 残る桜も 散る桜
             良寛
良寛さんの辞世の句と言われています。 散らずに残っている桜も、やがては散ってしまいます。いのちあるもの、いつか必ずいのち尽きる。諸行無常を詠んでいます。
「死に支度」と掲示してあって、どのように感じられましたか?「死ぬための支度」と受け止めた人は、嫌な気分がしたことでしょう。
諸行無常とは、うつろいゆくこと。うつろいゆくいのちを、どのように生きるのか。 「死に支度」とは、「あなた、どのように生きますか?」という問いかけなのです。

あすありと思う心のあだ桜
夜半に嵐のふかぬものかは

               親鸞
親鸞聖人が詠まれたと言い伝えられています。聖人9歳のとき、得度(出家)のため京都青蓮院を訪ねます。青蓮院の慈円和尚は言います。
「出家の意思は見上げたものです。しかし、9歳で出家はまだ早い。もう数年経って、気持ちに変わりがなければ、そのときに出家しても遅くはないであろう」
そのときに聖人は先の句を詠まれました。
「今は美しく咲き誇っている桜も、この夜半に嵐が吹いてしまえば、瞬く間に散ってしまいます(明日があると思っていては、人生を無駄にしてしまいます)」と。
聖人の想いを受け止めた慈円和尚は、その日のうちに得度式を執り行いました。
「明日がある」「まだ早い」「いつでも出来る」。そのように思って、きちんと物事を成したことはありますか? いつの間にか時間が過ぎてしまったこと、時間の余裕があるときにやっておけばよかったと後悔したことはありませんか?
日々の生活、忙しさに流されています。しかし、「忙しい」とは、何もしていないことの裏返し。今、なにか私に残っていますか?
忙しさの中、仏法に聴聞しましょう。仏さまのお話に耳を傾ける。そして仏法聴聞の仲間と、人生をともに歩む。

今年は暖冬だったため、桜の開花が例年より早まると予想されていました。しかし、開花はほぼ例年通りでした。
早まると予想された開花がなぜ遅れたのか。桜は、暖かさのみによって開花するのではありません。咲く前に厳しい寒さが必要なのです。厳しい寒さがあるからこそ、そこに開花という目覚めがあるのです。
仏法聴聞もそうです。「いい話だった」「分かりやすい話だった」「面白い話だった」なんてものではないのです。仏法は、私を映し出す鏡。見たくないのです。つらいのです。厳しいのです。出来ることなら、ふれられたくないところを突いてくるのです。でも、突かれることによって、この私が目覚めるのです。
桜が寒さによって咲くように、私も仏法によって目覚めるのです。
仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです。
桜が人のこころを打つのは、美しさと儚さのためだけではありません。厳しい寒さを経た、目覚めの姿だからなのです。
誰にでも哀しさ・つらさ・悩み・苦しみがあります。そして、そこから逃げようとしてしまいます。なかったことにしようとしてしまいます。
逃げてもいい。なかったことにしようとしてもかまわない。でも、苦しみも含めて私なのです。仏法は、苦しみを消してくれるのではありません。私の歩みを、すべて照らし出してくださるのです。
私の歩みが照らし出されることがない人生は、誰も見向きもしない名もなき花のようなもの。仏法聴聞し、桜のように人生に花開く。
「死に支度」とは、「仏法聴聞」ということ。
 
Dscf0245 Dscf0246

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