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2007年3月23日 (金)

私が私のままに

Dscf0235
 佛法にふれたなら
 ムダなことが何もない
 生きることに満足がある

人の生き死にに関して、迷信がはびこる、不安に包まれる、恐れを抱くのは、人生に教えがないから。
では、教えに、仏法にふれたなら、迷信も不安も恐れもなくなるのか。
そうではない。
迷信・不安・恐れの元が、私自身にあることに気付かされる。
人の生き死にに関する迷いの原因は、病や死、病む人や亡き人にあるのではない。
迷いの原因を他に押し付けているけれど、私が迷っているだけのこと。
亡き人がどうこう、霊がどうこう、亡き人・見えないものにのせいにしてはいけない。
 
仏法にふれたなら、私の姿が映し出される。
それが嫌な人もいることでしょう。なにかのせいにして生きていれば楽だから。自分の中に迷いの原因があるなんて、聞きたくもないことでしょう。
でも、「迷ってるのは私だったんだ!!」という気付きは、なにものをもムダにしない。なにがあっても、満足がある。
 
満足とは、「円満具足」の略。満ち足りているということ。なにが満ち足りているのか。 自分の欲望のままに物事が満ち足りているという意味ではない。阿弥陀の慈悲が満ち足りているということ。
自分の姿を見せつけられて哀しいはずなのに、逃げ出したいはずなのに、でも、ありのままの私の姿で生きていられる。それは、人生において何もムダではないと頷けたから。阿弥陀の慈悲が、満ち足りているから。
 
「ムダなことが何もない」
「満足がある」
私が、そのように思える人間になれる ということではない。
それだと、また何か挫折があったとき、なにかのせいにしてしまう。

「ムダなことが何もない」
「満足がある」
そのような人生を歩ませていただいているということ。今までも、今現在も、これからも。
そのことに気付きもしなかった。仏法にふれたなら、そういう気付きが芽生える。
何かが変わるのではない。私が変わる。私が私のままに。

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コメント

安田理深先生に「念仏の外に人生を立てるから無駄になる。無駄に喜び、無駄に腹を立てる。念仏には一切無駄がない。」という言葉があります。「ナルホド!」とは思うのですが、念仏の外に人生を立ててばかりいる私です。

☆やすさん こんばんは
人生に合わせて仏法を聞くから分からなくなる。
仏法の中を生かされているのに。
結局、法を意巧で聞いてしまうのですよね。
ムダなことはない人生なのだけど、
自ら無駄にしてしまっている私です。


すべては「わたし」次第なんですね。
自分が眼前の現象を、その場だけの判断で受け取ってはいけないように思いました。
常に、自分のなかに生きている阿弥陀様。遠回りも実は、満足に近い道のりかもしれませんね。

☆たかさん こんばんは
遠回りは、自分がそう思っているだけで、
何が遠回りで何が近道か分からないものです。
そのときは、遠回りしちゃったなって思っても、
その遠回りこそが近道であったり、
遠回りによっていろんなことを獲られることもある。
遠回りもムダじゃない。

「眼前の現象」に振り回されてるだけなら、
無駄な遠回りだけれど。

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