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2007年3月14日 (水)

「いのち」への感性

自分の手、足と相談してみてください

今日は西蓮寺の聞法会
朝日新聞連載の「いじめられている君へ」の作家の高 史明さんからのメッセージを手がかりに、お話をさせていただきました。

息子さんを自死により亡くされた高さん。息子さんが書きためていた詩を『ぼくは12歳』と詩集としてまとめられます。読者から多くの手紙が寄せられ、中には高さんを訪ねて来られる方もいます。
ある日、女子中学生が訪ねられ、「死にたい」とうったえます。
高さんは尋ねます。「君のどこが死にたいって言ってるの? 頭?」
女子中学生は、「そうです」と頷きます。
「君が死ねば頭だけではなく、手も足も、ぜんぶ死ぬんだよ。君の手は死にたいって言ってるのかい? 君の足は死にたいって言ってるのかい? 手をひらいて相談しなきゃ。足の裏をよくあらって相談してごらん」

数ヵ月後、その女子中学生から手紙が届きます。
「足の裏の声が聞こえてくるまで、私は歩み続けることにしました」
 
自分のいのちは自分のものと思っている。だから、傷つけようが、死のうが、自分の勝手だと思い上がってしまう。この体のどこが私なのだろうか。どこが死にたいと言っているのだろうか。手も足も、実は頭だって「死にたい」なんて思ってはいない。
自分の思いで、生きようとしている想いを殺してしまっていいのだろうか。
 
実際に、手や足がもの言うわけではないけれど、手や足は私にメッセージを送っている。
「南無阿弥陀仏」と念仏申すとき、自然と手が合わさる。助かるはずのない私を、助けたいと願っている阿弥陀如来。そんな私は、この手から溢れんばかりの罪業を背負っている。合わさるはずのない手が合わさっている。ありえないことが、今、私の身に起きている。
私の足は、大地にしっかり立っている。大地を通して、人と人とがつながっている。

「いのち」とは、生き物個々のものではない。
この身があるのは、代々受け継いできた血があるから。
この身を保てるのは、他のいのちを頂戴しているから。
阿弥陀如来の願いがあるから、私の手が合わさる。「南無阿弥陀仏」と、念仏申せる。
大地を通して、人と、他の生き物とつながっている。
 
「いのち」への感性が薄れている。
なんで生きているんだろう。どうして生きなければいけないんだろう。死にたい、生きているのが嫌だ。
そのように思うのは、それだけつらいことがあったから。その想いを否定はしない。
でも、「いのち」への感性も合わせ持ってほしい。自分の手を、足の裏を見つめてほしい。そこに、自分の思いを越えた、「生きたい!!」という呼びかけがあるはずだから。


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