やらなければならないこと
植木 等さんのお話をもうひとつ。
「スーダラ節」を歌うことを悩まれた植木さん。でも、父である住職のひと言で歌うことを決意された。
そして、このように述懐されています。
「スーダラ節は人生というものを分からせてくれた。自分がやりたいことと、やらなければならないことは別なんだと、教えてくれました」
(『この歌 この歌手』読売新聞文化部編)
やりたいことをすることも大事です。やりたいことのほうが熱心にできるということもあります。
でも、たとえ自分の想いとは違っても、“やらなければならないこと”は人生の方から突きつけられるものです。
しかも、“やらなければならないこと”は、苦しみ哀しみと共に突きつけられるものだと思います。そこから逃げようと思えば逃げられるかもしれない。でも、突きつけられた“やらなければならないこと”は、この私だからこそ突きつけられるのです。私のための“やらなければならないこと”なのです。
「やり甲斐・生き甲斐」探しが流行っているようですが、それは自分がやりたいことを探しているにすぎません。で、自分自身やりたいことが分かってないのだから、「やり甲斐・生き甲斐」も見つかるはずがありません。
それに、なにをやっても「やりたいことと違う」と言い訳して逃げてしまうことでしょう。
“やらなければならないこと”
「逃げようと思えば逃げられるかもしれない」と書いたけど、逃げてはいけないこと、逃げられないことなのだと思う。それに、逃げることによって“やらなければならないこと”だったということが、よりハッキリすることでしょう。
人生、いや、阿弥陀如来から私への要請なのだから。





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