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2007年3月

2007年3月30日 (金)

やらなければならないこと

植木 等さんのお話をもうひとつ。

「スーダラ節」を歌うことを悩まれた植木さん。でも、父である住職のひと言で歌うことを決意された。
そして、このように述懐されています。
スーダラ節は人生というものを分からせてくれた。自分がやりたいことと、やらなければならないことは別なんだと、教えてくれました
(『この歌 この歌手』読売新聞文化部編)

やりたいことをすることも大事です。やりたいことのほうが熱心にできるということもあります。
でも、たとえ自分の想いとは違っても、“やらなければならないこと”は人生の方から突きつけられるものです。
しかも、“やらなければならないこと”は、苦しみ哀しみと共に突きつけられるものだと思います。そこから逃げようと思えば逃げられるかもしれない。でも、突きつけられた“やらなければならないこと”は、この私だからこそ突きつけられるのです。私のための“やらなければならないこと”なのです。

「やり甲斐・生き甲斐」探しが流行っているようですが、それは自分がやりたいことを探しているにすぎません。で、自分自身やりたいことが分かってないのだから、「やり甲斐・生き甲斐」も見つかるはずがありません。
それに、なにをやっても「やりたいことと違う」と言い訳して逃げてしまうことでしょう。

やらなければならないこと
「逃げようと思えば逃げられるかもしれない」と書いたけど、逃げてはいけないこと、逃げられないことなのだと思う。それに、逃げることによって“やらなければならないこと”だったということが、よりハッキリすることでしょう。
人生、いや、阿弥陀如来から私への要請なのだから。

2007年3月28日 (水)

わかっちゃいるけど

植木等さんが亡くなられました。
植木さんは真宗大谷派のお寺の生まれです。
青島幸雄さん作詞の「スーダラ節」を歌うことになったとき、植木さんは悩まれたそうです。自分のやりたい音楽の方向性と違う、と。
で、お父様である住職に相談すると、この歌詞を見て「これこそ親鸞聖人が言おうとされていたことではないか!!」と驚かれたそうです。
わかっちゃいるけど やめられない
これこそ人間の本質であると。
住職の感動を受けて、植木さんは「スーダラ節」を歌うことを決意されました。
  
  
タバコや酒、塩分の摂りすぎ、体に悪いと言われても、なかなかやめられない。悪い習慣ほど、よく身につく。
「してはいけないこと」と分かってはいるんだけど、やめられない。ましてや、周りの人がしていると、自分もやってもかまわないだろうと、開き直る。
「これで最後、これで最後」と言いながらも、いつまでもやめられないことがある。このままじゃいけないと、分かってる。本当に分かってるんだけど、そこから抜け出せない。今のままでもなんとかなってるから。気付いたときには遅かったりする。
自分が上に立って人を諭すようでは、誰も聞いてはくれません。それなのに、つい偉くあろうとする。人を正そう、人を諭そうとする。自分の姿を振り返ることもなく。
   
「わかっちゃいるけど やめられない」ことを考えていたら、どんどん出てきます。
親鸞聖人は、それら私の姿を、「いけません」「やめなさい」「ひどいですね」などと言われたのではない。
おそらく、「私もなんですよ」と、平気で言われた方だと思う。惑い、悩み、苦しまれた。その果てで阿弥陀さまに出遇われた。だからこそ、「南無阿弥陀仏」とお念仏称える者を救うという、阿弥陀如来の誓いにふれて、ただお念仏のみをされたのだと思う。「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

わかっちゃいるけどやめられない私を、阿弥陀如来は救いたいと願われたのです。

やめた方がいいこと、やめなければいけないことは なかなかやめられないのに、
しなければいけないことは まったく続かない私。
そう、「南無阿弥陀仏」というお念仏さえも。
 
植木 等さん、教え導いていただき、ありがとうございます。

2007年3月27日 (火)

岐路

人生には大きな節目や転機がある。
どの道を選ぶか。
迷う…迷う・迷う・迷う……で、また迷う
迷うのは当たり前。人生に答はないのだから。ということは、すべてが答えでもある。
どの道を選ぼうか。易い道か困難な道か。近道か遠回りか。好きな道か苦手な道か。行くか戻るか。とどまるという道もあるだろう。道なき道を新たに切り開くか。
ざっと書いてみただけでも、いろいろな道があるものですね。
さぁ、どの道を選びましょう。

私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。
            岡本 太郎

岡本太郎さん、格好いいです。私もかくありたい。
だけど、他人(ひと)に困難な道を勧めるのは無責任。一緒に付き合うっていうなら兎も角。
それに、「易い道か困難な道か。近道か遠回りか。好きな道か苦手な道か」って書いたけど、予めそんなことが分かっていたら、迷わないし、苦労もしない。歩き出してみたら、易いことも困難なこともあり、近道だったり遠回りだったりするわけで、歩みだす前にそんなことは分かりはしない。

人生の節目や転機、迷った末に歩き出したこの道だけど、いつかフト考えてしまう。
「あの時あっちの道を選んでいたらどうなっていただろう…」「あの時あぁしてたら…」「あの時あんなことしなければ…」
さて、どうなっていたことでしょう。多分、同じようなセリフを吐いていることでしょう。
どの道を歩んでいても、別の道を歩いた場合のことを考えてしまう。でも、別の道なんてないんです。
わが人生はひとつしかない。今私が歩いている道しか。

この道より、われを生かす道なし。この道を歩く。
                        武者小路 実篤

人生に分岐点があるわけではない。
人生という道は一本道なのだと思う。
ただ、道は凸凹しているのだと思う。迷いという穴に落ちたり、困難という石につまづいたり、人生を振り替えさせるための大きな切り株があったりするんだろうな。

2007年3月26日 (月)

同じ一日でも…

お彼岸も終わり、今日は境内の大掃除をしてました。
昨日強い雨が降ったため、玄関や歩道の敷石が泥で汚れてしまいました。
ブラシ掛けをして、庭に出していたベンチが泥ハネで汚れていたので拭いて、芝生に枯れ芝がたまっていたので熊手で集めて、なぜか木の剪定を始めて、塀の外に流れ出た落ち葉の掃き掃除をしてました。
午前中には終えるつもりで始めたのですが、気付いたら午後5時。いつのまにか時間が経ってました。
 
掃除だけならもっと早く終わったと思うのですが、今日はたくさんの方がお寺にみえました。
 
烏山寺町では毎年花まつりを開催しています。今日から西蓮寺にてお稚児さんの受付が始まりました。で、申込のお母さんとお子さんが数組いらっしゃいました。お子さんがお稚児さんの格好をすることが、お母さんとしては楽しみなのでしょうね。嬉しそうな顔でお寺にいらっしゃいます。お子さんは「なに?」って雰囲気ですが。
 
それから、お寺には外人さんがよく立ち入られます。掃除中、山門をくぐってきたご夫婦がいたので、
 「Hallo Sightseeing?」と尋ねたら、
 「Yes」と応えられたので、
境内と本堂の中を案内してあげました。英語はしゃべれないけれど、なんとかなるものです(内心ドキドキ)。
 
午後5時に掃除が終わって、普段なら一息つくところですが、そのまま買い物に出かけました。掃除道具を買いに。掃除が趣味みたいなものです。

今日は陽気もよくて、からだがよく動きました。
いろんな人に会えて、楽しい一日でした。

人生は退屈すれば長く、充実すれば短い。
                         シラー

人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。
                         中島敦

2007年3月23日 (金)

私が私のままに

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 佛法にふれたなら
 ムダなことが何もない
 生きることに満足がある

人の生き死にに関して、迷信がはびこる、不安に包まれる、恐れを抱くのは、人生に教えがないから。
では、教えに、仏法にふれたなら、迷信も不安も恐れもなくなるのか。
そうではない。
迷信・不安・恐れの元が、私自身にあることに気付かされる。
人の生き死にに関する迷いの原因は、病や死、病む人や亡き人にあるのではない。
迷いの原因を他に押し付けているけれど、私が迷っているだけのこと。
亡き人がどうこう、霊がどうこう、亡き人・見えないものにのせいにしてはいけない。
 
仏法にふれたなら、私の姿が映し出される。
それが嫌な人もいることでしょう。なにかのせいにして生きていれば楽だから。自分の中に迷いの原因があるなんて、聞きたくもないことでしょう。
でも、「迷ってるのは私だったんだ!!」という気付きは、なにものをもムダにしない。なにがあっても、満足がある。
 
満足とは、「円満具足」の略。満ち足りているということ。なにが満ち足りているのか。 自分の欲望のままに物事が満ち足りているという意味ではない。阿弥陀の慈悲が満ち足りているということ。
自分の姿を見せつけられて哀しいはずなのに、逃げ出したいはずなのに、でも、ありのままの私の姿で生きていられる。それは、人生において何もムダではないと頷けたから。阿弥陀の慈悲が、満ち足りているから。
 
「ムダなことが何もない」
「満足がある」
私が、そのように思える人間になれる ということではない。
それだと、また何か挫折があったとき、なにかのせいにしてしまう。

「ムダなことが何もない」
「満足がある」
そのような人生を歩ませていただいているということ。今までも、今現在も、これからも。
そのことに気付きもしなかった。仏法にふれたなら、そういう気付きが芽生える。
何かが変わるのではない。私が変わる。私が私のままに。

2007年3月22日 (木)

愛を育む

自分の過去に対しては、
そこに自分のしてきたことに対する痛みを知る。
あるいは自分のしてきたことによって周りの人が受けている、
あるいは、
受けたであろう苦しみや悲しみに対して痛みをもつ。
そして、そのことに責任を感ずる。

 
過去についてまなぶということは、
人間として痛むという感覚と、
人間としての責任を受け止めるという姿勢を学ぶこと。

自分の未来に対しては、
人間としての祈りと
人間としての愛を育むことだ。
 
               平野 修

今日、平野 修先生の選集が届きました。
難しいし、選集は厚いので、つい“つんどく”になってしまうのですが、珍しく読んでいます。
 
直接にお会いしたことがないのだけど、会いたかった。お話したかった。
「人間としての祈りと人間としての愛を育むことだ」って書いてしまうと、真宗を、机上でしか学んでない人には「キリスト教か?」なんて言われてしまいそうだけど、そうじゃない。
平野先生の本を読んでいると、人に対する愛情にあふれているような気がする。それが、本を読んでいて伝わってくる。
お話に、血が通っているように思える。
それだけに、自分の感想を述べるだけの法話をすることに対して、とても厳しい。
今日の話はよかったとか、面白かったとか、自分の思いに合わせて聞法する姿勢に対しても厳しい。

感想的なところを打ち破って、真宗の世界を明らかにしなければいけないと、つねに願われていた。

愛を育むとは、自分の力だけで生きているのではないということを知ること。
「愛してますよ」と押し売りしたり、「愛されている」と阿弥陀の慈悲を愛に置き換えるのではない。
自分の限界を知るということ。そのことは、誰もが愛を求め、誰もが愛に安らぐ同じ人間だということを知ること。
そういう意味での、愛を育むということを大切にされている。

その思いは、今も続いています。
 

2007年3月20日 (火)

堂々と死ぬ(ルビ…いきる)

最近西蓮寺に墓地を求められた方がお参りにいらっしゃいました。
その方のお家は、まだどなたも亡くなられていないのですが、生前からお寺とお付き合いしておきたいという想いがあって、墓地を求められました。そういう意味では、急いで墓地が必要というわけではありません。

その方が半分悲しそうに、半分呆れた感じで言われました。
『副住職、友達に墓地を買ったって言ったんです。そうしたら、なんて言ったと思います? 「まだ誰も死んでないのに墓地なんて買ったら、あの世から呼ばれるわよ!! やめなさい」ですって。そんなことないですよねぇ』

はい、そんなことないです。
それを証明する術はないけれど、墓地を求めることと寿命の長短に関係性はまったくありません。
仮に、墓地を求めた直後に亡くなられても、それはその人の寿命だっただけのこと。墓地を求めてからも長生きしたとしても、それも、関係はないこと。
 
お墓とか、法事とか、生き物の生き死にに関することって、どうして「あれはダメ、これはダメ」っていうことが言われるのだろう。
粗末にしてはいけないことだけど、「あれをしたから、こうなった」「あれをしなかったから、こうなった」って言っても、まったく関係性のないこと。
そういうことがまことしやかに言われるのは、そういうことを言われて不安に思うのは、
「いのち」あるものは、いつか「いのち」終えるという、当たり前のことを当たり前のこととして生きていないから。
死に向かって歩いている。怖いですか?不安ですか?自分には関係ないことですか? でも、誰にも平等に訪れる真実です。
真実から目を逸らしていると、「○○をしたらすぐ死ぬ」とか「○○をしなかったから死んだ」とか、なんの根拠もないことに惑わされてしまいます。
 
自分の中で迷信に縛られているだけなら仕方ないけど、他人にまで「お墓買ったら呼ばれるよ」なんて言うのは、いかがなものかと思います(さて、何に呼ばれるというのでしょう?)。
 
さぁ、堂々と、死に向かって生きてください。

2007年3月17日 (土)

らしさ

 男らしさ
 女らしさ
 自分らしさ

「らしさ」を求めるのは、
そのままの私を受け止めてくれる人がいないから。
私自身も含めて。
 

2007年3月15日 (木)

はたらいているから生きている

働くことは生きること
  ドラマ「ハケンの品格」より
 
ドラマを見ていて、主人公のセリフが耳の底に残ってしまいました。
働くということは、お金を稼ぐことであったり、なにかしら社会のためになるものを生産することを指すのだろう。そういうことが生きることならば、稼げない状態、生産性のない状態は、生きるに値しないことになりかねない。
 
でも、「働く」と言っても、稼いだり、なにかしら生産することばかりではないですよね。
物事を考えることを「頭を働かせる」とも言うし、ボーッとしていても、実は働いている。
どんな状態でも、人間常に働いてるんだなぁ。常に生きている。でもそれだと、「生きてることは生きてること」って言ってることになっちゃうなぁ。でも、それでいいのか。
 
さて、働きの主は誰でしょう。たいてい「自分」を考えるけど、別の考え方もある。
阿弥陀如来の救い・願いを、「阿弥陀如来の“はたらき”」と表現します。
阿弥陀如来のはたらきによって、今、私が生かされている。
「はたらきによって生かされている」
じゃぁ、死んだら阿弥陀如来から見放されたってことか?
いえいえ、そのような発想は、人間の知恵。
人間の知恵からすれば、生きてる状態・死んだ状態分かれるのだろうが、
仏の智慧からすれば、生きてるも死んでるも別け隔てない。
阿弥陀のはたらきは、すべての生きとし生けるものに届いている。
人知からすれば死んでるのかもしれないけれど、阿弥陀的には すべて生きてる。
ゆえに、「阿弥陀のはたらきの中を、今、生かされている」

あっ、そんなこむずかしいこと考えながらドラマを見ていたわけではないですよ。
ドラマは、楽しく見させていただきました。マグロさばいて、空飛んで、トラック運転して…見ていて、気分爽快のドラマでした。

(余談)
ドラマの主人公の大前春子さんは、時間ピッタリに行動します。
決まった時間に仕事を始め、決まった時間にシッカリ休憩を取り、決まった時間ピッタリに仕事を終えます。
「就業時間は決まっていても、時間内に仕事が終わらないこともあるだろう。時間の融通を利かせて仕事しようよ」なんて、ドラマを見ていて感じた人はいませんか?
でも、時間の使い方が下手な私は思ったのです。
時間を決めて行動していたら、仕事って片付くんじゃないかって。
すこし残業しよう、もうすこし休もう、すこしくらい遅れてもいいか…。その「すこし」の考え方が、ズルズルダラダラを生み出しているようです。

2007年3月14日 (水)

「いのち」への感性

自分の手、足と相談してみてください

今日は西蓮寺の聞法会
朝日新聞連載の「いじめられている君へ」の作家の高 史明さんからのメッセージを手がかりに、お話をさせていただきました。

息子さんを自死により亡くされた高さん。息子さんが書きためていた詩を『ぼくは12歳』と詩集としてまとめられます。読者から多くの手紙が寄せられ、中には高さんを訪ねて来られる方もいます。
ある日、女子中学生が訪ねられ、「死にたい」とうったえます。
高さんは尋ねます。「君のどこが死にたいって言ってるの? 頭?」
女子中学生は、「そうです」と頷きます。
「君が死ねば頭だけではなく、手も足も、ぜんぶ死ぬんだよ。君の手は死にたいって言ってるのかい? 君の足は死にたいって言ってるのかい? 手をひらいて相談しなきゃ。足の裏をよくあらって相談してごらん」

数ヵ月後、その女子中学生から手紙が届きます。
「足の裏の声が聞こえてくるまで、私は歩み続けることにしました」
 
自分のいのちは自分のものと思っている。だから、傷つけようが、死のうが、自分の勝手だと思い上がってしまう。この体のどこが私なのだろうか。どこが死にたいと言っているのだろうか。手も足も、実は頭だって「死にたい」なんて思ってはいない。
自分の思いで、生きようとしている想いを殺してしまっていいのだろうか。
 
実際に、手や足がもの言うわけではないけれど、手や足は私にメッセージを送っている。
「南無阿弥陀仏」と念仏申すとき、自然と手が合わさる。助かるはずのない私を、助けたいと願っている阿弥陀如来。そんな私は、この手から溢れんばかりの罪業を背負っている。合わさるはずのない手が合わさっている。ありえないことが、今、私の身に起きている。
私の足は、大地にしっかり立っている。大地を通して、人と人とがつながっている。

「いのち」とは、生き物個々のものではない。
この身があるのは、代々受け継いできた血があるから。
この身を保てるのは、他のいのちを頂戴しているから。
阿弥陀如来の願いがあるから、私の手が合わさる。「南無阿弥陀仏」と、念仏申せる。
大地を通して、人と、他の生き物とつながっている。
 
「いのち」への感性が薄れている。
なんで生きているんだろう。どうして生きなければいけないんだろう。死にたい、生きているのが嫌だ。
そのように思うのは、それだけつらいことがあったから。その想いを否定はしない。
でも、「いのち」への感性も合わせ持ってほしい。自分の手を、足の裏を見つめてほしい。そこに、自分の思いを越えた、「生きたい!!」という呼びかけがあるはずだから。


2007年3月 8日 (木)

幸せって、なんだっけ、なんだっけ?

幸福とは幸福を問題にしない時をいう
                   芥川龍之介

最近、数人の人から「“幸せ”ってなんだろうね?」と尋ねられました。(その問いが流行っているのだろうか?)
その問いに答えられるのなら、私は“幸せ”になっていることでしょう。
 
いや、既に“幸せ”なのさ。誰しも。
それに気がついてないから、“幸せ”探しをしてしまう。

今、手にしていないものを求め、それが手に入ることを“幸せ”というのなら。一生満足することはないだろう。
今、手にしているものを、この身で感じることが“幸せ”なのではないだろうか。すでに我が身に満ち満ちている。

“うつくしい”を求め、ますます遠のく うつくしさ(とやら)。
こんなに“うつくしい”のに、それを実感できない もったいなさ。

2007年3月 6日 (火)

北風と太陽

北風ピューピュー
旅人は、コートで身を包みました。
北風はもっと強く吹きました。
旅人はもっと強く身を包みました。

北風がやみ、太陽がサンサンと照り始めました。
旅人は、コートを脱ぎました。
 
北風が、旅人を苦しめる象徴のようだけど、
旅をしてれば風が吹くこともある。
雨が降ることだってあるだろう。
風や雨が旅人を苦しめるのではない。
旅をしていれば、避けては通れない、当然の出来事。
その当然の出来事に、“苦しめられている”と勘違いしてしまう。
私を苦しめるのは、自我・我執・煩悩。
コートやレインコートや傘が、それらの象徴。
旅の途中での、避けては通れぬ出来事に、コートや傘で身を守る。
避けては出来ぬ出来事が、強大ならば強大なほど、強く固く身を守る。自我や我執で自分を守る。

そんな私に照り続ける太陽は、仏の慈悲。
雨が降っていようが、風が吹いていようが、その間も太陽は私を照らし続けている。
 ずっと旅人を見ている。
 ずっと旅人を照らしてる。
 ずっと旅人を守っている。

雨もやみ、風もやみ、心地よい陽ざしに、こころは踊る。
さぁ、苦から解放された…かといえば、私の手にはコートや傘が。手放せないんだなぁ。
 
人生という旅路を歩む、私の姿。

2007年3月 1日 (木)

2007年3月のことば

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     三月の風と
     四月のにわか雨とが
     五月の花をもたらす

          イギリスの諺
  
からだ突き刺す風
こころ湿らす雨
たとえ私の人生に立ちはだかっても
風と雨とが花をもたらす
風と雨がなければ
花は咲かない

こんなはずじゃないのに
どうして分かってくれないんだ
たとえ私の歩みがとまっても
つらい想いは生きる力に変わる
つらい想いがなければ
私はどこまで思い上がることだろう

追い風
慈悲の雨
一人で生きていると思っていても
知らぬところで支えられている
支えがなければ
私はなにひとつできやしない

風雨に耐えることがなかったならば
花が色鮮やかに咲くことはない
風や雨がない人生に
いのち輝く瞬(と)間(き)はない
快晴ばかりでは
身もこころも枯れてしまう
   
   
いのち終えるとき
思い巡らすわが人生
たとえ心残りがあっても
後の人はあなたを慕(おも)う
私が生きた証(あかし)は
後の人が見出す

大切な人との別離(わかれ)
亡き人を慕い 流す涙
哀しみに押しつぶされて
こころに刻まれる亡き人の面影
先行く人が作った道すじ
咲き往く人の道すじを 私は訪(とぶら)う
 
死は 誰にでも訪れる
 死から
 先の人を慕い
 後の人を導くことがなかったならば
 人の死は 私の死
 生きながらに死んでいる私

 死が
 先の人を慕い
 後の人を導くからこそ
 人の死は 私を生かす
 人生に花を咲かせる

どんな花を咲かせているんだろう
どんな花が咲くんだろう
   

 
March winds and April showers bring forth May flowers

(付記)
3月14日、西蓮寺聞法会がありました。
その席で、門徒のおばあちゃんが
「副住職、今月のことば好きだわぁ。でも、詩も素敵ねぇ。よく見つけてきたわねぇ」
「あの…自作なんです」
「えぇっっっっっ Σ( ̄ロ ̄lll) 」
そんなに驚かなくても^^;

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