« 阿弥陀仏国 | トップページ | 大悲無倦常照我 »

2007年2月22日 (木)

願いは叶う 願うからこそ叶う

(まだ続きます)
「今生きていることが、阿弥陀如来の救いです」と、書きました。
そのように書いてしまうと、お腹の中で生きている子・既に亡くなられた人は救いから外れた者なのかという疑問を持たれてしまうかもしれない。
でも、ちょっと待ってください。そこには、確かにいのちがあるのです。「あった」ではなく、「ある」です。
現代は「生と死」を分けて考える癖がついているので、先のような疑問につながってしまうけれど、「生と死」はひとつです。生の果てに死があったり、生をいただけなかったことを死と言うのではありません。「生死一如」です。
「生と死」を別物として考えるから、「人間死んだらゴミと一緒だ」と言う人がいたり、亡き人があの世で迷っているという想いに囚われてしまう。
医学的・社会的に、どこかで「生と死」をハッキリ分けなければいけないのでしょうが、“いのち”は区切って考えられるものではないのです。
お腹の中で生きていたとしても、何歳で亡くなろうとも、すでに亡くなっていようとも、そこには“いのち”が連綿と受け継がれ、この阿弥陀仏国にあるのです。
発想の飛躍と思われるかもしれませんが、お子様に恵まれないご夫婦の元にも、子どもがいるのです。だからこそ「授からない」「生まれない」という慕い(おもい)が湧いてくるのです。そこに、実体はなくても、“いのち”があるのです。
 
「いのちを大切にする」ということが、「人(自分も含む)を傷つけない・殺さない」ということだけになってはいないでしょうか。
先に述べた、誰もが阿弥陀仏国を生きているという事実を見つめることが、「いのちを大切にする」ということではないでしょうか。
 

   
阿弥陀如来が救いたいと願ったのは、人間ではなく、衆生。「衆生」とは、「生きとし生けるもの」のこと。すべての生きとし生けるもの。人も、動物(便宜上分けました)も、植物も、もっと言えば天候や天体など自然界すべてひっくるめて衆生なのでしょう。
人間だけでも生きて生けないし、犬やネコだけでも、牛や豚や鳥だけでも生きて生けない。特定の生物だけでは生きてはいけない。みんながいるから私がいる。私がいるからみんながいる。
もし阿弥陀如来の救いの対象が、特定の生き物だけならば、それは、はじめから叶わぬことを意味する。
 
ありとあらゆる生き物がいるのに、人間は生物の長だから救われるという人がいる。
「南無阿弥陀仏」と称えることができるのは人間だけだから、衆生とは人を指すという人がいる。
赤ん坊は「南無阿弥陀仏」と称えることができないから救われないという人もいる。
ありとあらゆる生き物に、すでに阿弥陀如来の救いが成就しているのに。
もし阿弥陀如来の救いの対象が、特定の生き物だけならば、それは、そのように言ってあげなければ気付いてもらえないから(言っても気付いてもらえないか)ではないだろうか。


 
阿弥陀如来という大きい存在があって、阿弥陀さんの救いの対象として衆生がいるように想像してしまいます。
阿弥陀如来の作った救いの国に生まれているかのように書いていました。
 
阿弥陀さんと私(衆生)を分けて考えていました。
阿弥陀さんが私の“いのち”なのですね。
阿弥陀仏国とは、“いのち”をいただいている私そのものだったのです。

« 阿弥陀仏国 | トップページ | 大悲無倦常照我 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 阿弥陀仏国 | トップページ | 大悲無倦常照我 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ