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2007年2月20日 (火)

浄土

(前の文章の続きです)
なんてことを書いたけど、環境・境遇を愚痴りたくなるのは、仕方がないこと。なにかしら言いたくなるものです。
愚痴を無理に押し殺すよりは、吐き出してしまった方がいいですよ。吐き出せるお友達、いますか? 友達がなにか吐き出したそうにしているとき、「一緒にご飯でもたべようか」って誘える私ですか?
 
さて、愚痴も出て、文句も言いたくなるこの世ですが、果たして愚痴や文句の正体ってなんでしょう?
前の文章でも書きましたが、愚痴や文句の正体・根拠は、実は私なのかもしれません。
じゃぁ、私が身を律すればいいのか。私が行いを正せば環境・境遇は良くなるのか。
そこに徹底できればいいけれど、出来ないのです。「私がこれだけやってるのに」「やっぱり、どうにもならないや」と、また愚痴が出てくることでしょう。
環境・境遇のせいにしていては、何も変わらないのです。
 
愚痴・不平不満のない世界を求めます。
そういう世界を浄土と言います。言いますが、私たちが求めているのは理想郷です。浄土や極楽を、自分の欲望が成就した国を想いがちですが、そんな世界は浄土とは言いません。
自分の欲が見えずに愚痴をこぼしている私が、愚痴の出ない世界を求めても、その世界が叶わないとまた愚痴をこぼし、願いが叶ったところで、またその世界で愚痴をこぼすことでしょう。
 
経典には、様々な形で浄土や極楽世界が描かれています。ひと言で浄土と言っても、その描写はいくつもあります。
そんなに勉強しているわけではないので、様々な浄土の様子を語ることも出来ませんが、浄土の説明を聞いたときに、私が「ぜったいその世界に違いない!!」と、目からウロコの話があります。
 
浄土…今私たちが住んでいる世界のことです。
今私達が住んでいるこの世界が、この世界のままで浄土となるのです。でも、唯一違うのは、私のこころ。
「愚痴・不平不満のこころが、もったいないと想えるこころになる」
足りないと愚痴っていたけれど、“ある”だけでも有り難いこと。
食べ物も着る物も足りない、それを足りない足りないと言い続けるのか、足りなくても人に譲れるのか。
不思議なもので、「足りない足りない」と言ってるうちはいくらあっても足りないのです。あること自体を有り難いことと喜べれば、「足りない」という愚痴は出てこないものです。

今の世界となんら変わらないのだけど、
「足りない」と愚痴るのか、
「どうぞ どうぞ」と譲り合えるのか。
それだけのことで、今の世界が、そのまま浄土となるのです。
 
そんなふうに「浄土」の説明をしていただいたとき、感動したことを覚えています。
「浄土」って、死んでから往く世界でも、どこか遠くにある理想郷でも、お経の中だけの物語でもありません。
今のこの世なのです。 
 
そんな浄土じゃご不満ですか?
それこそ浄土と喜べますか?

(余談)
「お前さぁ、人間を良い物と思いすぎだよね」なんて言われことがありますが、こんな浄土観が私の中にあるからなのかもしれません^^

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