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2007年2月21日 (水)

阿弥陀仏国

(まだ、昨日の続き)
阿弥陀如来は、生きとし生けるものすべてを救いたいと願います。そして、「南無阿弥陀仏と念仏申す衆生を救おう」と誓いを立てられます。
 
さて、生きとし生けるものすべてを救いたいと願いながら、念仏申す衆生を救うとは、矛盾しているようにも、対象を限定しているようにも受け取られます。どういうことでしょう。
 
念仏申した衆生(生きとし生けるもの)は、阿弥陀如来の国へ生まれることが約束されます。
 では、念仏申さぬ衆生は救われないのか。
 念仏申すといっても、どのように申せばいいのか。
 阿弥陀如来の国とはどういう国なのか。
いろいろと疑問点・不審点が湧いてくることでしょう。
 
昨日、「浄土」について書きました。。
浄土とは、今私が生きているこの世界である、と。
念仏申す衆生が生まれる阿弥陀仏の国、浄土が、今私が生きているこの世界であるならば、私はすでに阿弥陀仏の国に生まれているのではないでしょうか。
そう、すでに阿弥陀如来の救いが、私の身に成就しているのです。私は既に救われているのです。 

人として生まれ育ってきた私。そうすると、人として生まれたことは当たり前のことになってしまう。なんの感慨も感動も感謝もないことでしょう。

人身(にんじん)受け難し、いますでに受く
              (三帰依文より 典拠『阿含経』)

人ととして生まれることは、とても難しいこと。はっきり言って、生まれることすら有り得ないことのに、今私は人としてのいのちをいただいている。
 
阿弥陀仏国のこの地に、人としていのちをいただいた。それは、どれだけ稀なことであろうか。
私が今ここに生きているということは、阿弥陀如来の願を受け、その願いが成就したから。

お念仏申すことに、効果や意味を求めてしまう。 
 阿弥陀如来や阿弥陀仏国の有無
 南無阿弥陀仏と念仏申したらどうなるのかという問い
 宗教なんて信じないよと言う無関心
それらの思いは、すべて私の我執の産物。
今私が生きている。そこに阿弥陀如来がいらっしゃいます。
南無阿弥陀仏と称える者のみ救おうと願われたのではない。すでに南無阿弥陀仏と称えていたから、生きとし生けるもの すべてが いのちをいただいている。
前世でお念仏称えていたと言っているのではありません(勘違いしないでくださいね)。
すでに誰もが、阿弥陀如来の救いの中を生きているということ。
阿弥陀如来が「すべての衆生を救いたい」と願われた。「念仏申す衆生を救おう」と誓われた。
矛盾でも限定でもない。
生きとし生けるものすべてが、念仏申す衆生であった。
   
  
光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨
                『観無量寿経』

阿弥陀如来の慈悲の光明は、世界中の生きとし生けるものを照らしている。「南無阿弥陀仏」と念仏申す衆生を救いとり、見捨ててしまうことはない。

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