« 砂上の楼閣 | トップページ | そこにあるもの »

2007年1月18日 (木)

語る者こそ聞く者

お世話になっているご住職のお父様が亡くなられました。昨日、ご葬儀があり、お参りに行ってきました。
ご葬儀が終わり、ご住職より参列者に挨拶がありました。
 
「私は、自分ひとりで生きてきたつもりでいました。でも、父の死により、自分ひとりで生きてはいなかったことを痛感しています。父が、前住職がいたからこそ、今の私がいるんだなぁということを感じています」

涙ながらに語られる姿が印象的でした。
帰るとき、「今日は来てくれてありがとう」と、住職は手を差し出してくれました。ギュッと握手をして、お寺を後にしました。
 

「人はひとりでは生きていない」
「父や母がいて、私がいる」
「家族を大切に」
これらのことは、書いてしまえば当たり前のこと。
当たり前のことだけど、「大切なことですよ」「大事なことですよ」と呼びかける。このご住職も、私も、他のご住職たちだって呼びかける。
でも、呼びかけている者自身、そのことを胸に日々生きているかというと、そうでもない。大切だ、大事だと言いながら、日々忘れて生きている。
言っている者は、実は自分自身へ呼びかけているのかもしれない。
 
ご住職は、お父様の死を通して学んだことがたくさんあった。
「大切なことを忘れて生きていました。ことばだけ発信して、自分自身にその想いがあるのかということを、あらためて自身に問うています」と。
  
ご葬儀の帰り道、同じ電車で帰るご住職(お父様を亡くされたご住職とは別のご住職)が話してくださいました。
「俺の親父が死んだときも、同じことを感じたなぁ。俺も、自分で頑張ってきたつもりでいたけど、親父が死んだときに、風呂敷の結びが全部ほどけてしまったような気がしたんだ。親父がいてくれたから、好き勝手出来て、頑張れたんだよなぁ」
 
どんなに大事にしているつもりでも、ここまですればいいということはない。
こんなに大事にしてるんだからって、自慢・自負・満足してしまってはいけない。
たとえ満足できるほど大事にしていたとしても、亡くしたときには後悔の想いが湧く。
 
親に限った話ではなく、人を想う気持ちがあるからこそ、亡くしてから、つらく・淋しく・悲しくなるんだなぁ。大事にしてたから、大切に想っていたからこそ、つらく・淋しく・悲しくなるんだなぁ。大事にしてこなかったから、つらく・淋しく・悲しくなるのではないんだ。
 

 
今の私はどうだろうかと、自身を見つめながら雨の中帰ってきました。
 
「おかえり」
風邪気味で、咳をしながら迎えてくれた住職(父)の姿に、胸が痛みました。

« 砂上の楼閣 | トップページ | そこにあるもの »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 砂上の楼閣 | トップページ | そこにあるもの »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ