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2007年1月 9日 (火)

生まれて、生きる

昨日、「成人の日」という題で文章を書きました。
すると、友人が「自分の解釈も含めてなんだけど…」と、成人の日の由来について教えてくれました。
  

 
昔は、今ほど幼少期の生存率が高くありませんでした。幼くして死んでしまう子供がたくさんいました。
ここまで育ったらあとは順調に成長していくだろうという年齢になった頃、元服をしていたわけです。
歴史ものの小説やドラマを見てると、まだ幼いと思われるときに元服していますが、それは「ここまで育ってくれたのだから、もう大丈夫」というところまで育った証なわけです。
人として生まれてきたけれど、人として生きられるめどがついたから「成人」と言うんです。
生存率が高くなかったのは、病気や栄養不足という理由もありますが、家族が生きるために「間引く」ということも行われていたからです。生きるために、泣く泣く間引かざるを得なかったのです。そのつらい想いの落ち着かせ方として、「神さまからお預かりした赤ちゃんだけど、また神さまにお返しします」という考え方をしていたのです。だから、ある程度の年まで育てて、元服をする、成人するというのは、人間として一人前になるという意味ではなく、神の子から人間の子に成るという意味があるのです。「成人」には、そういう意味があるのです。
(私の受け取りが含まれているので、友人が言わんとしていたことをちゃんと受け止めてるのか、書きながら自信がなくなってきましたが、こういう話を教えてくれました)

ちなみに、その時に「コケシ」の話もしてくれました。皆さんご存知の、木で出来た人形ですね。
「コケシ」は、亡くした子供を表わしています。亡くした子、消した子の。そう、「子消し」という意味です。
コケシを民芸品・お土産品としてしか見てなかったので、その話を聞いたときはビックリしました。
(注:説のひとつです)
  

こんにち成人というと、酒やタバコがOKで、選挙権が与えられて、罪を犯すと名前が出て(20歳でしたっけ?)など、自分の責任の元、社会の一員として活動することを意味します。
でも、元服と言われてた頃は、「ここまで育てたのだから、あとは自分の力で育っていけ」という意味合いがあったのではないでしょうか。突き放した意味ではなく、「よく育ってくれた」という感謝と安心の意味を込めて。
 
成人ということが、自身の行動に責任を持って生きるということのようですが、責任と言っても、与えられた責任のような気がします。「これとこれとこれを守っていればいいんだからね」って感じ。
元服するということは、残りの自分の人生を、自分で考え、自分で切り開き、自分の足で歩み、自分で幕を引く。まさに自分の全人生を命がけで生きていく決意の表明のようです。

今日私が書いたことは、特に裏づけがあるわけではないので、間違い・誤解もあるかもしれません。間違い・誤解がありましたら、お詫びします。申し訳ありません。
成人や元服の由来をネットで調べると、いろいろな人が教えてくださっています。どれかが正しくて、どれかが間違っているということではないと思います。どれもが正しく、どれもが嘘ではないのでしょう。
言いたいことは、成人・人に成るということがどういうことなのか、一人ひとりが考えることが大事なのではないかなと思うのです。つまり、自身を振り返るということ。「成人の日」の意義って、そういうことかもしれません(そんなこと言ったら、すべての「○○の日」がそうなりますが^^;)。
昨日も各地の成人式会場でいろいろなことが起きたようですが、「最近の若者は」と愚痴ったり、「そんな奴ら、成人ではない」と嘆くだけでとどまるのではなく、「自分はどうだろうか」「これからの私はどうあるべきか」ということを考えてみませんか。

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コメント

残りの自分の人生を、自分で考え、自分で切り開き、自分の足で歩み、自分で幕を引く。まさに自分の全人生を命がけで生きていく・・・

私の長男は大学に入学し、もう安心して見ていられるくらい自分の足で歩き始め、
夢をひとつひとつ実現させようとがんばっていました。
そして二十歳の誕生日を迎え、それからひと月半後、大学で所属していた部の合宿中の事故であっけなく人生の幕を引いてしまいました。
成人式にも参加しないまま。一年半前の夏のことです。

8日は去年の悔しかった日のことを思い出したり、夕張市の新成人たちがお金集めから始めて成人式を作り上げたことに感動したり、様々な思いで一日を過ごしました。

くりかえされる季節の出来事の中に、想いが揺れ動いて、それでもこうして日々生きている私がいます。

親鸞しょうにんという言葉を検索するとこちらにたどりつきました。もとさがしていた言葉はさておき文章をいくつか読ませていただきまして・・・とういうより今の私の心境に響くお話ばかりで読んでいました。これも何かのご縁と思います。これからも読ませていただきます。

☆manatsuさん こんばんは
年が暮れ、そして新しい年を迎える。
一日一日は、どれも同じ一日。
それなのに、大晦日から元日になって次の一日が始まるだけなのに、なぜこころ新たになるんだろう? いや、こころ新たにしてしまうのだろう。

こころ新たにする日がなければ、人生は直線になってしまう。
こころ新たにすることで、一年が循環していく。
一年毎に、こころあらたにするということは、循環した繰り返しの人生を歩むということは、過去を忘れないための知恵なのかもしれない。
直線の人生では、哀しみも感動も、忘却のかなたに追いやってしまう。
循環の人生は、哀しみも感動も、ふと蘇る。循環していると思ったけれど、少しずつ成長している私がいる。ひとつの輪のように思ってた人生だけど、らせん階段を一歩一歩のぼっている人生だった。同じ景色が見えてくるけれど、でも、見えるたびに見え方が違ってくる。
哀しみや感動が、私を成長させているから。私に一歩を踏み出させているから。

☆akkoさん こんばんは
はじめまして。コメントありがとうございます。
日々(休んでる日もありますが)思いついたことを書き綴っています。
こんなブログでよかったら、これからも遊びに来て、くつろいでいってください。
よろしくお願いします。

あぁ、そうだったのですね。
直線の人生ならば、哀しみも感動も忘れていってしまうのですね。
季節を繰り返していく人生は、哀しみも感動も季節が廻ってくるたびに、ふと蘇る。
そしてそこには、少しずつ成長している私がいるかもしれない。
去年の新年も今年もこころをあらたにすることができずにいました。
過去を忘れないために季節が廻ってくるのですね。

☆manatsuさん こんばんは
想いをお話してくださってありがとうございます。
立ち止まっているようだけど、でも、それも成長の過程。
季節の方が、廻ってきてくれるんですね。

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