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2007年1月

2007年1月29日 (月)

道楽

「道楽(どうらく)」
現代では「道楽」はあまり良い意味では使われないですね。怠け者とか、賭け事好きとか、本業そっちのけで趣味にふけることを道楽といい、そういう人を道楽者とか道楽息子と言います。
 
「道楽」の「道」は仏道を意味します。
ですから、元々「道楽」とは、仏道を歩み、人生を楽しむこと(人)です。
「楽しむ」ということも、今風の、欲望が叶って楽しいな♪的な「楽」ではありません。
人の世を生きる苦楽も、酸いも甘いも知り尽くし、「これが人生!!」と前を向いて歩けることを「楽しい」と表現するのだと思います。
 
「楽」には「願い」という意味も含まれています。
人生を願いを持って生きるという意味にも通じますし、
阿弥陀如来から「生きろ(南無阿弥陀仏と念仏申せ)」と願いをかけられている私という意味も含まれます。

「道楽」
仏道を歩み、阿弥陀如来のはたらきを受け、自身も願いを持ち歩む。
こんな贅沢はありません。
そんな贅沢から派生して、現代使われているような「道楽」という意味になったのでしょうね。
今風の「道楽」に、目の前の楽しみはあるかもしれませんが、一生を通した楽しみが果たしてあるでしょうか。
  
元々の意味の「道楽」を極めつくすことをなんと言うかご存知ですか?
「極道(ごくどう)」と言います。
仏道を極め、人生の師となる。
「極道」とは、誰からも尊敬されるべき存在なのです。

2007年1月28日 (日)

こうきょう こうこく きこう

今朝、用事があり車に乗ってました。
ラジオをつけたときに丁度聞こえてきたパーソナリティの会話…

「駅弁を買って、電車の中で食べるのって美味しいですよね」

「山の手線じゃぁ、食えないなぁ」

「騒がしいですものね」

えっとぉ…。
この会話を聞いて(読んで)、違和感はありませんか?

「騒がしいですものね」なんですね。(私が周りに対して)「迷惑ですものね」「鬱陶しいですものね」ではなくて。
電車内でお化粧や飲み食いをすることは、公共の場としては謹むべきではないかとよく話題になります。
でも、お化粧したり飲み食いしたりする人にとって、周りの人は、人であって人でないそうです(とんちのようですが)。だから、気にしない、気にならない。

「騒がしいですものね」という場合、自分を中心に置いてます。自分が過ごしやすい環境をまず整えて、それから周りを一応気にしてみる。すると、駅弁を食べるには騒がしいなぁ(食べにくいなぁ)と感じるわけです。自分を“正”においた見方です。
 
人がたくさんいる中でとる行動として、ふさわしいかどうかということを考えれば、「迷惑ですものね」「鬱陶しいですものね」「できませんよね」という羞恥心にぶち当たると思うのですが、そうでもないのでしょうか。

違和感はありませんか? と尋ねましたが、なにかお感じになられましたか?
なにも感じないという人もいるのかもしれませんね。
そういう人から見ると、私こそ鬱陶しいのでしょうね。
   

 
先日、ある住職から教えていただいたことがあります。新聞の投書です。
投書の主は、若い娘さん。電車の中でお化粧をしていたときのことを投書に書かれてました。

彼女が車中でお化粧していました。その姿を見て、あるおばあさんが「公の場でお化粧をするものではありません」と注意しようとされたそうです。でも、今どきの子、注意したら何をされるか分からない。
で、メモに「やめたほうがいいですよ」という旨を書いて、ご自分が電車から下りる間際に彼女に渡したのだそうです。
その忠告のメモを見て、彼女はハッと気付かされました。
「公の場でお化粧をすることが恥ずかしいことだと思わなかった。そういうことを注意してくれる人も私の周りにはいなかった。私のことを気にして、メモを渡してくれたおばあさんに感謝しています。下りる間際に手渡されて、お礼を言う間もなかったので、新聞の投書に書かせていただきました。ありがとうございます」
というお礼の言葉が投書には書かれていたそうです。
 

 
公の場でのマナーって、難しい。
自分に対しては甘くなってしまうことも、他人がしていたら腹が立つ。
一緒にいる友人だったら注意もしないけど、他人がしていたらどつきたくなる。
最近、車掌さんからのお願いアナウンスが増えているような気がするのは、私だけでしょうか。
 
車中でのお化粧と、お弁当を食べることは謹みたいと思います(しないって)。

2007年1月27日 (土)

私もうれしい♪

祝婚歌    吉野 弘

  二人が睦まじくいるためには
  愚かでいるほうがいい
  立派すぎないほうがいい
  立派すぎることは
  長持ちしないことだと
  気付いているほうがいい

  完璧をめざさないほうがいい
  完璧なんて不自然なことだと
  うそぶいているほうがいい

  二人のうちどちらかが
  ふざけているほうがいい
  ずっこけているほうがいい

  互いに非難することがあっても
  非難できる資格が自分にあったかどうか
  あとで疑わしくなるほうがいい

  正しいことを言うときは
  少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは
  相手を傷つけやすいものだと
  気付いているほうがいい

  立派でありたいとか
  正しくありたいとかいう
  無理な緊張には
  色目を使わず
  ゆったりゆたかに
  光をあびているほうがいい

  健康で風にふかれながら
  生きていることのなつかしさに
  ふと胸が熱くなる
  そんな日があってもいい
  そして、なぜ胸が熱くなるのか
  黙っていても
  二人にはわかるのであってほしい

  
今日は、お仲間のお寺の長女さんの仏前結婚式があります。
うちの住職が司婚者(教会でいう牧師さん)、私が司会者を頼まれました。
喜んで引き受けさせていただきました。
はりきってお役目努めて参ります。
 
なので、今日は久しぶりの祝婚歌。
「あれ!祝婚歌は前にも書いたじゃない?」と思った方は、当ブログのコアなファン。
自分でも、いつ載せたかなってさかのぼってみたら、2005年の5月4日でした。ずいぶん前ですね。早いなぁ。
それと、よく続いていること(ブログが)。

(ただいまぁ♪)
素敵な結婚式&披露宴でした。
新郎新婦にそそがれている家族の愛情あふれる式でした。
その片隅に居させていただいて、とてもうれしかったです。
 
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お酒も美味しくちょうだいいたしました。
おめでとうございます。お幸せに^^

2007年1月26日 (金)

分母の拡大

『悲しい記憶も、時がたてば忘れることができる』と、よく言われる。
時間は記憶の吸い取り紙だという主張だが、
私はこの説を信じていない。
むしろ、忘れたい、忘れたいと思うことに限って、
長年の風雪に耐え、
ますます頭から離れなくなるものである。
むしろ、私は、こう考える。
体験の量を増やし、記憶の分母を拡大することにより、
相対的に悲しい記憶の声量を
弱めることができるのだ、と。
どうも人間は、時間という要素を
過大評価しすぎる傾向があるように思う。

              晴山 陽一『すごい言葉』
  
 
昨日の文章で、「経験は感動するこころを無くさせる。だからこそ“いつもはだか”でいたいですね」というようなことを書きました。
でも、経験は積み重なっていくもの。捨てることはできない。どんなに忘れたい記憶も、いや、忘れたい記憶ほど私のこころに残ってしまう。忘れようとすればするほどに。
経験・体験を増やすということは、分母の拡大(今回、経験と体験の違いは気にしないでください)。経験・体験の量を増やすということは、記憶する内容を増やすということ。記憶する内容が増えれば、ひとつひとつの出来事が、私の心を占める量は少なくなる。
経験が感動するこころを薄れさせてしまう面もあるけれど、経験が悲しい記憶を、こころからの叫びの声量を弱めてくれるという面もある。
小中学生の自殺が増えている背景には、体験の量が少ない、分母が小さいということも関係しているのかもしれない(現実には男性中高年の自殺が多いのですが、マスコミの報道の仕方が偏っているので、小中学生の自殺ばかりがクローズアップされてしまう)。
例えば、“いじめ”というひとつの事象が起これば、それが自分の生活のほとんどを占めてしまう。学校以外の社会を持っていれば、他の方向に想いを向けられるけど、そうもいかないのだろう。家庭や塾が、自分の経験値を増やす場になっているとは、とうてい思えない。
ひきこもってしまっても、体験の量は増えない。

経験・体験の量を増やし、分母の拡大をすることも生きる術なのかもしれない。なんとなく思い当たります。
だからこそ、どんなに悲しい出来事があっても、生きられる。時間が解決してくれるのではないのですね。時間が解決してくれるのだとばかり思っていました。
私の想いや状況に関係なく、世の中はどんどんどんどん進んでいる。私も、その流れの中で生かされる。流れを生きるうちに、またいろいろな想いが湧いてくる。生きていれば、感動がポツリポツリと出てくる。
感動って、自分で意識することではないんだ。不意に訪れる、サプライズなんだなぁ。
昨日の文章だと、「生きていることを実感するために感動しましょう」みたいに読めてしまうけれど、「生きるということは感動の集まり」なんだなぁ。

時の経過が、物事を忘れさせるのではない。
時の経過が、人生に幅や深みを持たせてくれる。

2007年1月25日 (木)

いつもはだかで

はだか    武部 勝之進
 いつもはだか
 いつもはだか
 はだかで出発する
 尊いことだ

  
経験は財産です。でも、経験を積むと、
物事に取り掛かる前に結果を判断してしまう。
物事に取り掛かろうとする者に「無駄だ」「やめておけば」「意味ないよ」と言い放ってしまう。
こういう人は、こう対応すればいい。
こういう出来事は、この程度のことをしてればいいと、高をくくってしまう。
成功は自信にもなるけれど、慢心にもつながる。
失敗は、もう怖いものはないと勇気を与えてもくれるけれど、私を臆病にもする。
 
ちなみに、年とともに時が経つのを早く感じるのは、経験を積んでいるから。
日々の出来事、同じことの繰り返しだとしても、そこに感動があるだろうか。せっかくの出来事を、何も感じることなく過ごしてしまう。
日々の出来事、いつもと違う新しい出来事があったとしても、「こういうことかな」「こうすればいいな」と、経験に基づいて、無難にこなしてしまう。
経験を積んでいるゆえに、感動もなく、無難に過ごしてしまう。感情に、行動に何の起伏もなく過ごしているのだから、時間の流れも早く感じるのです。
 
経験も大きな財産だけれど、いつもはだかで物事に向き合えるこころを持つということも尊いことだと思う。
日々の同じことの繰り返しの中にも、毎日会う人に対しても、いつも感動がある。
はだかでいることは、感動を生む。
私は、「生きるとは感動すること」だと思っています。
ということは、はだかでいることが生きるということなのですね。

生きるとは、感動する・物事に疑問を持つ・いつも会っている人とでも、毎度毎度の出会いがいつも初めての出会いと感じる。生きるとは、そういうことではないでしょうか。
 
「いのちは大切だ」という呼びかけには、いのちを傷つけない・殺さないという意味として捉えられているような気がします。でも、呼びかけが空しく響くのは、呼びかける側にも、傷つけ・殺してしまう縁に出会った側にも、“感動”がないからではないでしょうか。

2007年1月24日 (水)

こころは見えるよ

おじいちゃんのからだは見えないけど、こころは見えるよ

火葬場にて、おじいちゃんがお骨になられて、それを見たお孫さんのひと言。
こころを通して、お孫さんに伝わるものがあったのですね。

亡き人と生きている私、そこには何か太いつながりがあるものです。
それなのに、小賢しい知識で考えて「亡くなったらすべて終わり」とか「不吉だから、これはしてはいけない」「こうしなければいけない」とか迷ってしまう私。
 
亡き人は、私を迷わせるために死んだのですか?
亡くなった人とは関係が切れてしまうものなのですか?
 
思い込みという壁で、亡き人からのこころをシャットアウトしてしまわずに、「こころは見えるよ」と、素直に頷きたいものです。
日がどうとか、方角がどうとか、そういうことを気にする必要がないんだということに頷けます。
迷っているのは亡き人じゃないんだ。私の方だったんだってことに気付かされます。
 
ちなみに、そのお孫さんは5歳です。
「こころは見えるよ」のひと言に、たくさんの大事なことが詰まっています。
大切なことを教えていただきました。
ありがとうございます(-人-)

2007年1月23日 (火)

黙読・音読・輪読・○○どく

読書は、贅沢な時間を与えてくれます。
行ったことがない世界へも、自分が生きていなかった過去へも、まだ見ぬ未来をも見せてくれます。自分の専門外のことも教えてくれます。
一時期、本をむさぼり読んでいた時期がありました。夜、古本屋で本を買い、ファミレスに行ってコーヒー一杯頼んで、買った本を読みつくす(嫌な客です)。そんなことを続けていました。何かを求めていたのでしょうか。
ちなみに、その時期にこころ打たれたのは、村上龍さんの『コインロッカーベイビーズ』と、遠藤周作さんの『深い河』です(仏教書にあらず^^;)。
『コインロッカーベイビーズ』からは、人間の中にある、いや自分自身の中にある深い業を感じ、こころ掻きむしる想いを抱きました。
『深い河』は、複数の登場人物が出て、複数のエピソードがあり、そのどれもが独立しているのに、すべてが結びついている。読書をしていて、本の世界を初めて立体的に感じました。自分もその中にいるような。
  

 
最近は、音読、声に出して本を読むことが勧められています。
目で追っているだけだと、大雑把に読んでしまいます。でも、声に出して読むということは、一字一字に必ず触れるわけですから、本全体を、文章全体を味わうことができます。声は響きです。私の声の響きが、私のこころに響いてきます。

そうは言っても、なかなか声に出して本は読めないものです。
でも考えてみれば、お経を声に出して読んでいるんですよね。お釈迦さまのおしえを声に出して読んでいる。
法事の際、意味がわからなくても、目を閉じて、おしえの世界に没頭することを試みてはいかがでしょうか。響いてくるものがあると思います。
で、いちばん身近で響くのは、声を出している私自身。贅沢な時間を頂戴しています。
  

  
20日(土)、白骨の会(西蓮寺仏教青年会)を開催しました。
昨年は、ひとつのテーマを参加者で語り合う形式を取っていました。今年は、輪読会にしました。
順番に本を読み、私が補足して、疑問点を言ってもらって、みんなで考える。
輪読会を開催するにあたり、「イメージが大切だ」というテーマを設けました。それぞれの学び・経験を通して表現されるイメージ。 本の内容を、みんな同じように共有するのではなく、それぞれが、どのようなイメージを抱いたか語り合う。
ひとりで読書していると、自分の価値観でしか捉えられません。いや、自分の価値観で捉えるどころか、サラッと読んでしまい、こころにもとどまらず、響きもなく読んでいるのではないでしょうか。
輪読会を開いてみて驚きと共に感じたことなのですが、本の内容が、立体的、複合的に感じました。ひとりで読んでいたときの平面的な世界観とは違って。
それぞれが抱く世界観。そのどれもが正しく、美しい。いろいろな世界が開けてきます。楽しかったです。
 
次回輪読会は3月。
まだ日にちは決まってませんが、決まり次第、トピックスブログ(右手「トピックス」をクリックしてください)に日にちを書いておきます。興味をお持ちいただけましたら、ご参加ください。お待ちしています。
 

 
とはいえ、私自身本を読むことはそんなに得意ではなく、なかなか読み進められません。
読んでいる途中の本がどれだけあることか。
買ったままで読んでない、積んであるだけの本がどれだけあることか。そういう読み方を「つんどく」と言います。

2007年1月19日 (金)

そこにあるもの

数日前の出来事です。
夜、のどが渇いたので、冷蔵庫から生茶の2リットルペットボトルを取り出し、コップについで、一気にゴクゴク。続けてもう一杯一気にゴクゴク。フーっと、ホッと一息。のどの渇きも落ち着きました。

「あー おいしかった♪」
 
少しずつ飲もうと、もう一杯コップについで、机に向かいました。
事務仕事をしながら、少しずつ飲んでいました。

少しずつ飲んではいても、やがて飲み尽くすもの。飲みながら、ふとコップの底に目をやると、コップの底の汚れが目につきました。
「なんだこれ!!」(こころの叫び)
 
そのままシンクでコップを洗うと、ほんのりリンゴのにおい。
「ゲッ、2、3日前に飲んだリンゴジュースじゃないか!?」(ボソッとつぶやき)
 
リンゴジュースを飲んだ後、コップをキチンと洗ったのですが、底がきれいに洗いきれてませんでした。
汚れたコップでお茶を飲み干した事実が、私を襲います。
「このコップでお茶3杯も飲んじゃったよ。お腹大丈夫かなぁ。なんか気持ち悪くなってきた…」(大きな独り言)
 
その晩は、事務仕事を切り上げて、ベットに横になりました。「な~んか気持ち悪いなぁ」なんて思いつつ、いつの間にか寝てしまいました。
朝、起きたときには、昨晩のことなど忘れて、気分スッキリ目覚めました。結果、なんともありませんでした。単純です。
 

 
もしコップ2杯でお茶を飲むのをやめてコップを洗っていたら、汚れには気付かなかったことでしょう。ということは、気持ちも悪くならなかったことでしょう。
でも、さんざん飲んだ後で、汚れに気がついた。その「気がついた」という事実によって、「気持ちが悪くなった」。
よほどコップが汚れていて菌が繁殖していたら、汚れに気付こうが気付くまいが、お腹は痛くなっていたことでしょう。でも現実は、お腹を痛くするほど汚れていたわけではない。ないのに、なんとなく気持ち悪くなった。
 
某お菓子メーカー(隠すこともないけれど)が、消費期限切れの牛乳を使っていた。おそらく、慢性的なことだと思う。だけど、今までお腹をこわす人や、食中毒になる人はいなかった(ですよね)。
ニュースになって、問題ありの食品を食べていたことを聞かされて、そのために「気持ちが悪くなった」人がいるんじゃないかな。
ということを、汚れてたコップ事件(大袈裟?)を通して、感じました。
 
知らなければよかった、発覚しなければよかった、報道されなければよかったなんて言ってるんじゃないんですよ。
いけないことと知りつつも、そのことを続けていた。その事実は、公となり、罰を受けなければいけないことだと思います。事件は事件として。
 
自分の身に起きたことを考えると、知ってしまったがために、具合が悪くなった、仲が悪くなった、やる気がなくなった。そういうことって、ありませんか?

見えていないという事実が、安心を与えてくれる。
でも、この方向からは見えないだけであって、ちょっと違う角度から見ただけで、物事の見え方というのは、まったく違ってくる。今まで見ていたものは、何だったのだろう!! どっちが本当の姿なのだろう!!
 
知らないという事実が、問題意識もなく生活させてくれる。
でも、私が知らないというだけであって、出来事というのは、刻一刻と進行している。良いことも悪いことも。知ったときには、遅いのかもしれない。

気付かないという事実が、平穏に生活させてくれる。
でも、私が気付いてないというだけであって、そこにある現実に変わりはない。悪い現実に蝕まれているかもしれないし、温かい慈悲に包まれながら生きているかもしれない。気付かないという不幸を生きているのかもしれない。

見えない、知らない、気付かないで生きている方が、こころは穏やかでいられるかもしれない。
でも、見えない、知らない、気付かないだけで、私の周りには厳しい現実が渦巻いている。
 
コップの底は、見ようと思わなければ、なかなか見えるものではない。
汚れが見えたなら、その原因を知ろうとするだろう。
知ったならば、自分の身に起きている事実に気付くことだろう。
そのとき、コップを洗いますか? 汚れをそのままにしておきますか? それとも、隠してしまいますか? 

2007年1月18日 (木)

語る者こそ聞く者

お世話になっているご住職のお父様が亡くなられました。昨日、ご葬儀があり、お参りに行ってきました。
ご葬儀が終わり、ご住職より参列者に挨拶がありました。
 
「私は、自分ひとりで生きてきたつもりでいました。でも、父の死により、自分ひとりで生きてはいなかったことを痛感しています。父が、前住職がいたからこそ、今の私がいるんだなぁということを感じています」

涙ながらに語られる姿が印象的でした。
帰るとき、「今日は来てくれてありがとう」と、住職は手を差し出してくれました。ギュッと握手をして、お寺を後にしました。
 

「人はひとりでは生きていない」
「父や母がいて、私がいる」
「家族を大切に」
これらのことは、書いてしまえば当たり前のこと。
当たり前のことだけど、「大切なことですよ」「大事なことですよ」と呼びかける。このご住職も、私も、他のご住職たちだって呼びかける。
でも、呼びかけている者自身、そのことを胸に日々生きているかというと、そうでもない。大切だ、大事だと言いながら、日々忘れて生きている。
言っている者は、実は自分自身へ呼びかけているのかもしれない。
 
ご住職は、お父様の死を通して学んだことがたくさんあった。
「大切なことを忘れて生きていました。ことばだけ発信して、自分自身にその想いがあるのかということを、あらためて自身に問うています」と。
  
ご葬儀の帰り道、同じ電車で帰るご住職(お父様を亡くされたご住職とは別のご住職)が話してくださいました。
「俺の親父が死んだときも、同じことを感じたなぁ。俺も、自分で頑張ってきたつもりでいたけど、親父が死んだときに、風呂敷の結びが全部ほどけてしまったような気がしたんだ。親父がいてくれたから、好き勝手出来て、頑張れたんだよなぁ」
 
どんなに大事にしているつもりでも、ここまですればいいということはない。
こんなに大事にしてるんだからって、自慢・自負・満足してしまってはいけない。
たとえ満足できるほど大事にしていたとしても、亡くしたときには後悔の想いが湧く。
 
親に限った話ではなく、人を想う気持ちがあるからこそ、亡くしてから、つらく・淋しく・悲しくなるんだなぁ。大事にしてたから、大切に想っていたからこそ、つらく・淋しく・悲しくなるんだなぁ。大事にしてこなかったから、つらく・淋しく・悲しくなるのではないんだ。
 

 
今の私はどうだろうかと、自身を見つめながら雨の中帰ってきました。
 
「おかえり」
風邪気味で、咳をしながら迎えてくれた住職(父)の姿に、胸が痛みました。

2007年1月17日 (水)

砂上の楼閣

1月17日は阪神淡路大震災の日。12年経ちます。
自分は京都であの震災を経験しました。明け方、今までに経験したことがない揺れを感じ、目を覚ましました。
揺れが止まり、窓の外を見ても、普段と同じ風景。揺れは凄かったけど、被害はなさそうだなと思いながら、しばらく横になりました。一時間ほどして目を覚まし、テレビをつけて驚きました。神戸の様子が映されていました。高速道路が倒れた絵でした。見た記憶がある方も多いと思います。
午後、いつも通り大学に行きました。
「朝の地震凄かったね」「神戸では大変なことになっている」という話題で持ちきりでしたが、「えっ、今朝そんな地震あったの!!」などと呑気な友人もいました。
 

 
今朝テレビで、神戸で被災した方のインタビューを放送していました。
その方は運送業をしていらっしゃいます。震災直後、荷物の配達に出かけて留守の家があると、隣の家の人が出てきて、「○○さんは出かけられて留守だから、うちで荷物を預かりますよ」と言ってくださる方がたくさんいたそうです。震災から12年経って、隣人を気にかける人もいなくなり、そう声をかけてくださる方もいなくなり、配達した荷物を持って帰ることが多くなったそうです。「お互いのことを気にかけ、助け合う。その気持ちはなくしたくないですね」と話されていました。
 
自分のことだけでも大変なときに、でも、そんな時だからこそ、お互いのことを気にかけ、助け合っていた。
そういう関係が築かれていたのに、時と共にお互いに無関心になってしまう。
お互いのことを気にかけ、助け合う関係になるには、かなりの時間がかかります。或いは、大変な出来事があって初めて助け合えるようになります。
人とのつながりを持つには、大変な時間やきっかけを要するものですね。しかし、つながりを断つのはほんの一瞬。物事を築いていくのは大変だけど、壊すのはあっという間ですね。
 
先日ブログで、地球の環境破壊は人間のせいかもしれないけれど、環境の変化は地球本来の活動でもあるのかもしれないと書きました。でも、地球本来の活動だとしても、その活動を悪い方向に早めてしまったのは人間なのかもしれない。
長い年月をかけて住みやすい環境を作ってきたつもりが、環境の悪化を招いてしまった。その悪化の速度は、作り上げてきた時間の何倍も早い。

築き上げてきたもの、形あるものが壊れゆくのは、自然の成り行き。そのことは逆らえない。
でも、自ら壊す必要はないのではないだろうか。

2007年1月15日 (月)

失敗は成功の…

「しっぱい」ってなんだろう?
 
うまくいかないこと?

「うまくいく」ってどういうことだろう?
 
「しっぱい」も「うまくいく」も、誰かの予想・予定・計画が前提になる。
予想通り・予定通り・計画通りなら「うまく」いった。
予想通り・予定通り・計画通りいかなかったら「しっぱい」。
果たしてそうなのだろうか?
 
「失敗は成功の母」と言う。
仮に、成功とされる結果になれた場合、「失敗は成功の母」とホッとできるだろう。
仮に、失敗とされる結果が続いた場合、「失敗は成功の母」と言って踏ん張れるだろうか。
 
「災い転じて福と為す」と言う。
仮に、福とされる状態になれた場合、「災い転じて福となす」と笑顔で言えるだろう。
仮に、災いとされる状態が続いた場合、「災い転じて福となす」と前向きになれるだろうか。
 
あとで振り返る余裕ができたとき、
「失敗だったな」「災いだったな」「山あり谷ありだったな」と口にすることができるのかもしれない。他人が判断するのではなく、自分自身のこころの底から。
でも、「失敗だったな」「災いだったな」「山あり谷ありだったな」って述懐できるようになったとき、その失敗や災いや山・谷は、失敗・災い・山・谷ではなくなる。

はたから見たら失敗かもしれないけれど、私にとっては失敗なんかじゃない。
同じ結果・状態を目にしているのに、評価は正反対。
 
「しっぱい」ってなんだろう?
「うまくいく」ってどういうことだろう?
 
人によって物事の見え方・感じ方・次の一歩の踏み出し方は様々。
「しっぱい」なんてないし、
「うまくいく」ってことも、今の状態を、そう思いたいだけなのかもしれない。

人間には、人生を失敗する権利がある。
                     映画「アメリ」より
 

 
過日「失敗は許されない」という表現を耳にし、「?」と思ったので、いろいろと考えてしまいました。
書いていて思ったのですが、「失敗は成功の母」なのでしょうか、「失敗は成功の元」なのでしょうか。
ちなみに、長嶋さんは「失敗は成功のマザー」と言ったとか言わなかったとか^^

2007年1月13日 (土)

人生24時間

地球が誕生してから現在までを24時間に換算してみると、人類の誕生は何時頃のことだと思いますか?
 

 
答は、23時59分50秒を過ぎたところだそうです。
手にとる資料によって多少数字が違うのですが、50秒は過ぎているようです。つまり、地球誕生から現在までを24時間で換算すると、人類の歴史は10秒にも満たないのです。
  
今年の冬は暖冬と言われています。スキー場のある地域は、雪が降らないで困っています。
地球規模でみても、異常気象のようです。ニューヨークでも雪が降らないというニュースを耳にしました。 
 
昨今耳にする環境破壊・環境汚染・環境の変化・地球温暖化ということばの数々。
その原因は、人間にあるのでしょう。化石燃料の無駄遣い・二酸化炭素の垂れ流し・海洋汚染・オゾン層の破壊という自分で自分の首を絞める行為の数々。
 
環境の悪化に歯止めをかけようと、「地球にやさしい」活動を呼びかける声が高らかに叫ばれています。
クールビズ・ウォームビズ・リサイクル・資源の無駄遣いをやめよう・二酸化炭素の排出を抑えようという、地球にやさしい行為の数々。出来ることがたくさんあるということは、それだけしてこなかったということ。やってはいけないことを、してきたということ。
これだけのことをしたら大丈夫♪なのではない。
こうなってしまうだけのことをしてきてしまったツケ。
こうなってしまうまでなにもしてこなかったバツ。
 
地球に居させてもらえるはずのない私が、まだ住まわせてもらっていることへの感謝・かたじけなさを感じることなく「地球にやさしい」なんて言っても、そんなの嘘・傲慢・形だけ。
 
やらなければいけないこと、やってはいけないこと、たくさんたくさんあります。
   

さて、確かに人間が犯してきた罪・負わなければいけない罰・償わなければいけないことは山のようにありますが、地球の歴史で考えてみると、他の見方が見えてきます。
人類誕生から300万年(諸説紛々)。そもそも、人間のように環境適応能力がさほど高くない生き物が300万年も生きていられることの方が稀なこと・不思議なこと・神秘的なこと。
地球の環境は、地球誕生からめまぐるしく変化してきました。氷河期もあれば、ものすごく熱くなっている時期もある。雨ばかりのときもあれば、カラッカラに干上がっているときもある。地殻変動が起きる時もあれば、水面の高さが著しく変わるときもある。 
  
1℃2℃の気温の変化・降水量の変化・地震・津波で大騒ぎしているけれど、私たちが生きていられるような状態で地球の環境が安定してきたことは、本来ありえない話らしいのです。地球の環境が変化しているというけれど、地球本来の活動からすると、そんなの当たり前のことなのです。つまり、今までの安定した状態の方が異常だったのかもしれません。
環境の変化は、人間の責任だという。確かにそうかもしれないけれど、地球が、地球本来の活動をしているだけのことかもしれない。
 
「地球にやさしく」と考えることも、「地球の環境変化は人類の責任だ」と反省することも、謙虚・殊勝なことのようだけど、やはり傲慢。どちらにしても、自分(人間)を中心にした発想です。

自分の姿を省みることなく、「地球にやさしく」と言っても、どこか白々しい。
地球の姿を知ることもなく、「地球環境が変化している」なんて騒いでも、どこか無責任。
 
たとえ白々しくても、地球にはやさしくあるべきです。
環境の変化が、地球の当然の活動だとしても、だからといって人類の営みが今のままでいいわけはありません。
  
やらなければいけないこと、考えなければいけないことはたくさんあります。
でも、人間が考え、行うことです。結局は人類を中心にした発想になってしまいます。
他の生物の生命に対する畏敬の念・地球に対する敬意を忘れてはいけない。
只今23時59分50数秒… この時間が、少しでもさかのぼるように。
  
☆ 
 
「地球と人類」を、「私と誰かさん」とに置き換えてみてはいかがでしょう。
 
一緒にいるとウザイ・鬱陶しい・邪魔・殺したいと思ってしまったとしても、
私の生涯を24時間に換算してみると、ほんの数分しか一緒にいない人かもしれない。そんな人のことで、気分を曇らせてないで、24時間全体を、大切に彩ってほしい。
 
一生を共に歩む人との出会い。
私の生涯を24時間に換算してみると、大半の時間を一緒に過ごすことになるのかもしれない。たくさん人がいる中で、その人とかなりの時間を一緒に過ごす。なんて凄いことでしょう。地球の気候が安定していること以上に素晴らしい出来事ですね。
 
私の生涯で、たくさんの人との出会いがあります。
私の生涯を24時間に換算してみると、ほんの数秒だけしか交流・接触・会話のない人もいることでしょう。もしかしたら、一秒にも満たないかも。たくさん人がいる中から、せっかく出会えたのに…。人との出会い、大切にしたい。

2007年1月11日 (木)

空過(くうか)

   一日の空過は
    やがて一生の空過となる

                 金子 大榮

今年のお寺の年賀状で書かせていただいたことばです。
「一日の空過は、やがて一生の空過となる」
けっこう耳にすることばなので、年賀状に注も付けませんでした。しかし、「空過」の意味について教えてくださいと、年賀状が届いた門徒さんからメールをいただきました。

「空過」とは、「空(むな)しく過ぎる」「無駄に過ごす」というような意味です。
「一日を無駄に過ごしていると、やがて一生を無駄に過ごしてしまうことになる」
「いつか手をつけようなどと思っていると、いつまでも実行せずに時が過ぎてしまう」
という意味が込められたことばだと了解しています。

気持ち新たに新年を迎えた方もたくさんいらっしゃると思いますが、そろそろ元の日常に戻ってませんか?
もし何か目標を立てたり、今までの自分じゃダメだって気持ちを入れ替えた方がいらしたら、そういう気持ちは持ち続けていてほしいものです。紙に書いて目に付くところに置いておくだけでも、気持ちが継続しますよ。無理する必要もないですけどね。

一日一日を大切に、とは思うのですが、それがなかなか難しいですね。
育児や仕事に追われたり、せっかくの休みも寝て過ごしてしまったり、何もやる気が起きずにボッーと過ごしてしまったり…。
あれ!! でも、空過でない過ごし方ってどんなんでしょうね?
空過でない過ごし方が、果たして育児・仕事・趣味などに没頭して充実した日々を過ごすことでしょうか? 「充実した日々=空過でない日々」というわけではないと思います。

空過かそうでないかは、お念仏の有無が問われているのではないでしょうか。
たとえ育児や仕事に追われたり、せっかくの休みも寝て過ごしてしまったり、何もやる気が起きずにボッーと過ごしてしまったとしても、そこに南無阿弥陀仏のお念仏称える生活をしている者は、空過ではない。
たとえ、育児・仕事・趣味などに生き甲斐を感じながら生活していたとしても、そこに念仏がなかったら、どこか空しいものである。
人生を阿弥陀さんと共に歩んでいるか。そのことが空過かそうでないかの分かれ目なのかもしれません。
   
  本願力にあひぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし

              親鸞聖人「天親和讃」

阿弥陀さまの「衆生をすくいたい」という願いを胸に生きるものは、空しく過ごす人はいない。
阿弥陀さまの慈悲のこころが海のように満ち満ちて、煩悩で汚れ濁った私のようなものまでも隔てることなく、すくいとってくださいます。
 
  
「空過」ということば、特に仏教語だという意識もなく、普通に使われることばと思っていたので、注が必要だとも思いつきませんでした。辞書で調べても載ってないのですね。初めて知りました。
せっかくのことばが、伝わらなかったかもしれません。メールをくださった門徒さん以外にも、「?」と思った門徒さんがいらっしゃるかもしれませんね。申し訳ありませんでした。

2007年1月10日 (水)

のぼりざか・くだりざか・○さか

こんな年賀状をいただきました。
 
 山あり谷ありの人生を歩まれているかっちゃん
 今年はいいことがありますよ!!
 
フム、私の人生、山あり谷あり…そう見えるんだぁ。
いや、ここで書いたからって怒ってるとか、気にしてるっていうんじゃないんです。
山あり谷ありってことで、またいろいろと考えていたのです。
  
実際に山を登るときは、目で見て、上り坂下り坂が認識できます。険しい山になれば、地図で確認したうえで、コンパス片手に山に入ります。上り下り、山・谷って分かったうえで歩きます。

でも人生って、「これから上り坂だ下り坂だ」「これから山だ谷だ平地だ」などと思いながら歩んではいません。
最近のトーク番組なんかでは、自分の人生をプラス時とマイナス時をグラフにして話を膨らませる番組もあります。でも、まさにその時に「今プラスだ♪」とか「今マイナスだなぁ」なんて思ってはないことでしょう。
あとで振り返ったときに、「あのときはしんどかったけど、今は少し楽になった」「あのとき頑張ったから今があるんだなぁ」「今考えればたいしたことじゃなかったな」「あのときは良かったなぁ」「楽しいときって続かないもんだなぁ」などと思えるのであって、その時その瞬間はひたすら歩くしかない。
たとえ山でも、たとえ谷でも、歩いているその時その瞬間は平らな道。
地図のない人生、この道をいざ歩かん。
 
横から、傍から、客観的に見てれば、いや、見てるからこそ山あり谷ありに見えるんでしょうね。自分じゃ分からないんだよなぁ(鈍いのかなぁ)。
   

結婚式のスピーチや、法話でたまに聞く話…

「人生には三つの坂があります。のぼりざか・くだりざか…もうひとつは何でしょう?
“まさか”という坂です。
人生、上り坂もあれば、下り坂もある。そして、“まさか”と思う出来事もあるものです。
どうぞ二人で力を合わせ、まさかという坂を乗り切ってください」

人生、まさかの連続です。

2007年1月 9日 (火)

生まれて、生きる

昨日、「成人の日」という題で文章を書きました。
すると、友人が「自分の解釈も含めてなんだけど…」と、成人の日の由来について教えてくれました。
  

 
昔は、今ほど幼少期の生存率が高くありませんでした。幼くして死んでしまう子供がたくさんいました。
ここまで育ったらあとは順調に成長していくだろうという年齢になった頃、元服をしていたわけです。
歴史ものの小説やドラマを見てると、まだ幼いと思われるときに元服していますが、それは「ここまで育ってくれたのだから、もう大丈夫」というところまで育った証なわけです。
人として生まれてきたけれど、人として生きられるめどがついたから「成人」と言うんです。
生存率が高くなかったのは、病気や栄養不足という理由もありますが、家族が生きるために「間引く」ということも行われていたからです。生きるために、泣く泣く間引かざるを得なかったのです。そのつらい想いの落ち着かせ方として、「神さまからお預かりした赤ちゃんだけど、また神さまにお返しします」という考え方をしていたのです。だから、ある程度の年まで育てて、元服をする、成人するというのは、人間として一人前になるという意味ではなく、神の子から人間の子に成るという意味があるのです。「成人」には、そういう意味があるのです。
(私の受け取りが含まれているので、友人が言わんとしていたことをちゃんと受け止めてるのか、書きながら自信がなくなってきましたが、こういう話を教えてくれました)

ちなみに、その時に「コケシ」の話もしてくれました。皆さんご存知の、木で出来た人形ですね。
「コケシ」は、亡くした子供を表わしています。亡くした子、消した子の。そう、「子消し」という意味です。
コケシを民芸品・お土産品としてしか見てなかったので、その話を聞いたときはビックリしました。
(注:説のひとつです)
  

こんにち成人というと、酒やタバコがOKで、選挙権が与えられて、罪を犯すと名前が出て(20歳でしたっけ?)など、自分の責任の元、社会の一員として活動することを意味します。
でも、元服と言われてた頃は、「ここまで育てたのだから、あとは自分の力で育っていけ」という意味合いがあったのではないでしょうか。突き放した意味ではなく、「よく育ってくれた」という感謝と安心の意味を込めて。
 
成人ということが、自身の行動に責任を持って生きるということのようですが、責任と言っても、与えられた責任のような気がします。「これとこれとこれを守っていればいいんだからね」って感じ。
元服するということは、残りの自分の人生を、自分で考え、自分で切り開き、自分の足で歩み、自分で幕を引く。まさに自分の全人生を命がけで生きていく決意の表明のようです。

今日私が書いたことは、特に裏づけがあるわけではないので、間違い・誤解もあるかもしれません。間違い・誤解がありましたら、お詫びします。申し訳ありません。
成人や元服の由来をネットで調べると、いろいろな人が教えてくださっています。どれかが正しくて、どれかが間違っているということではないと思います。どれもが正しく、どれもが嘘ではないのでしょう。
言いたいことは、成人・人に成るということがどういうことなのか、一人ひとりが考えることが大事なのではないかなと思うのです。つまり、自身を振り返るということ。「成人の日」の意義って、そういうことかもしれません(そんなこと言ったら、すべての「○○の日」がそうなりますが^^;)。
昨日も各地の成人式会場でいろいろなことが起きたようですが、「最近の若者は」と愚痴ったり、「そんな奴ら、成人ではない」と嘆くだけでとどまるのではなく、「自分はどうだろうか」「これからの私はどうあるべきか」ということを考えてみませんか。

2007年1月 8日 (月)

成人の日

今日は「成人の日」なのですね。
すっかり忘れて、区民会館のような建物の前を通ったら、成人の集い参加者の路駐で道路が混んでました。危うく約束の時間に遅れるところでした。
 

 
成人の日
 
人に成る日
 
人に成るって、どういうことでしょう?
 
果たして、どれだけ人に成った人がいることでしょう。
 
人間という場合の「間」には、「関係を生きる」という意味があります。
「人と人との関係の中を生きる」のが人間。
 
人をワザと「ヒト」と表記することがあります。その場合、皮肉な意味を込めて動物としての人間を指します。
 
「成人の日」を機縁に、「成人間」として生きますか? 「成ヒト」となりますか?

今年成人の若人に限った話ではなく、すべての生きとし生けるものの話です。

2007年1月 7日 (日)

あったか~い(昨日のつづき)

体がなかなか温まらないのは、外的要因だけでなく、内(自分自身)にもありました。
   
前の晩、食欲がなかったので、そんなに夕飯を食べませんでした。朝、胃はカラッポ状態だったのではないでしょうか(実際には何時間で胃がカラッポになるのかは知りませんが)。
朝食をとってから、震えていた体も少しづつ温かくなってきました。
    
部屋がどんなに温かくても、体が震えることがあります。風邪かもしれないし、空腹によって体が冷えきっているのかもしれない。 
あつ~いお風呂に入ることによって、自分の体の冷たさを強く感じることもあります。熱い湯に浸かっているのに、ブルブル震えてることってありませんか?(ない?) 

周りがどんなにあったか~くても、私自身が冷え切っていたら、温かさは伝わりません。
いや、周りが温かいからこそ、自身の冷えに気付けるのかもしれません。
 
自身の愚かさに、人間の闇に、社会的不安に震えている衆生に、慈悲の温もりを与えてくれている仏さま。
衆生を温めるためではなくて、その震えの原因に目を向けさせるための温もりなのかもしれません。
慈悲の温もりを知れば知るほど温かくなるのではなく、知れば知るほど身震いが激しくなる。そんな私にとっての朝食が、「南無阿弥陀仏」というお念仏なのかもしれません。 
  
 
寒さに震えながら、そんなことを感じました。  
それから、朝食をキチンと食べることって大切だなぁと、あらためて思いました。
朝、お内仏(お仏壇)の前で手を合わせ、朝食をキチンと食べましょうね。今年の目標ですよ。

2007年1月 6日 (土)

あったか~い

今日は朝から雨。しかも雨足が弱まりませんね。勢いが弱まらずにこれだけ降り続くのも珍しい気がします。当然のことながら、とても寒いです。
  
昨日、住職と坊守は京都の本山にお参りに行きました。私はお留守番。
で、今朝は私が寺の門や玄関を開けたりといった作業をしなければなりません(普段は坊守がしてくれてます)。

今朝は特に寒かったですね。起きて、居間の暖房をスイッチオン。それから門やガレージや扉開けなどの作業に取り掛かります。ところが、ひと通り作業を終えてから居間に戻っても、部屋が暖かくないのです。
いつもは、朝起きて居間に来ると、熱いほどに部屋が暖めてあって、「温度上げすぎじゃない?」なんて思うのですが、設定温度を変えてもいないのに、寒い寒い。今朝、暖房が効かないほど寒かったのでもなく、暖房が壊れたわけでもありません。
 
で、思ったのです。
普段、私は既に暖められた居間に、寝ぼけ眼で入ってくるわけです。布団から出てそんなに時間も経っておらず、体も温いのです。だから、熱いほどに暖かく感じるわけです。
でも今朝は、寒い中ひと通り毎朝の作業をこなして、冷えた体で暖まり中の居間に戻ってきたわけです。
暖房を同じ温度に設定してあっても、たとえいつもと同じ温度に部屋が暖まっていたとしても、寒いわけです。
毎朝坊守はそんな思いをして作業をしてくれてたんだなぁ。感謝感謝です。
 
同じ温もりの中にいても、「寒い」と感じたり、「熱い」と感じたり…。
 
人は、誰もが阿弥陀仏の慈悲に包まれて生きています。でも、その中にいると、慈悲のぬくもりを忘れたり、慈悲の温もりに気付くことなく過ごしてしまいます。
かといって、温もりの外に出ることも出来ません。阿弥陀仏は、誰であろうと、いついかなる時であろうと、私を包んでいてくださるのですから、その外に出ることは出来ないのです。
それに、「一度出てみよう」なんて思えるということは、すでに慈悲の温もりを感じている人が出来ることですから。
   


2007年1月 4日 (木)

光寿無量

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光寿無量
阿弥陀さまの、はかり知れない光と寿(いのち)に包まれて、生かされている私。
南無阿弥陀仏(-人-)
   
   
ブログに偶然たどり着かれた皆様、本年もよろしくお願いいたします。
偶然という名の必然に感謝です。


2007年1月 1日 (月)

2007年1月のことば

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       如来の本願は、
       風のように身に添い、
       地下水の如くに流れ続ける

                    平野 修

今、このように文章を書けることを、ありがたく思っています。ずっと続けていることは、いつのまにか当たり前になってしまいます。しかも、「自分が」書いているつもりになっているから感謝の気持ちも起きません。
昨年暮れ、「ことば こころのはな」(お寺の新聞。以下、寺報)を書き続けてきたことを振り返り、いろいろなことを思い起こしていました。元気なときばかりではありません。病気にもなりました。書くことが楽しいときもあれば、つらいときもあった。寺報を通して、たくさんの人に出会いました。寺報にお礼を言われることもあれば、苦言もあります。寺報を毎号集めてくれている人もいれば、捨てられていたこともあります。
本・新聞・テレビ・ネット・人との会話。触れるすべての事柄への接し方も変わったし、深まった。「ネタ探しをしているみたいで嫌だな」なんて思うこともあったけど、それはそれでいいこと。物事の見方が変わること、接し方が深まること、それらはすべて自分のため、自分の楽しみ。自分の人生で「やりたいことをやる」「楽しむ」って、このようなことかもしれない。贅沢なことです。
続けることができるのは、そういう縁の積み重ねがあったから。続けられなかったとしても、それは続ける縁がなかったのではない。続けられない縁があったということ。
いろいろなことがあった。その「いろいろ」があって、今の私がいる。今の物事の考え方が生まれた。今の文章が書ける。今の私を生きている。
今、文章を書いている。なんて不思議なことだろう。なんて稀なことだろう。なんて素敵なことだろう。

     如来の本願は、
     風のように身に添い、
     地下水の如くに流れ続ける

「如来の本願」とは、阿弥陀如来の願いのこと。あなたに「生きてほしい」という願い。
「死にたい」と思う人もいます。そう思ってしまうことは仕方がないことです。そう思わざるをえないことがあったのだから。でも、死んではいけない。「死にたい」と思ったなら、思いを止めてはいけない。思いにフタをしてはいけない。思い続けることで、気持ちを整理するのだから。思い続けることで、新しい想いが湧いてくるのだから。「生きよう」という新たな思いが。 
「生きよう」という想いが湧いてくるのは、この私を包み込むように、温かい風が吹いているから。この私に生命の水を流し込む清浄な地下水があるから。

生きることは、無理をすることではない。
生きることは、自分を偽ることではない。
生きることは、頑張りすぎることではない。

つらく、気持ちが沈んだときは、そのままでいい。いつか上昇気流という風が吹いて、また歩みだせる。
哀しくて泣きたいときは、思いっきり泣いていい。あふれた涙が流れ込む地下水があるのだから。つらいことがあって泣く。泣いて、泣いて、これ以上泣けないというくらい泣いたのに、まだ涙が出てくる。不思議だと思いませんか。それは、地下水からまた私に水が戻ってくるから。だから、涙はきれいで、涙流せる私のこころも清浄のまま。
上昇気流という風も、私に流れ込む地下水も、すべて阿弥陀如来の本願。「生きろ」という願い。その願いがあるからこそ、私は生きていける。
私の身に起こるいろいろな出来事が、今の私をつくっている。私の身体を、私の想いを、この私自身をつくりあげている。

     自身を生き尽そう。
     人生は信頼に値する意義がある。

                    平野 修

平野 修師(1943~1995)
石川県生まれ。真宗大谷派明證寺住職・九州大谷短期大学教授をされていました。
病気の身でありながら、命がけで親鸞聖人の教えを伝えられていました。
 
平野さんは、住職の大谷大学時代の同級生でした。同級生の死は、大きなショックを与えました。遺された者は、哀しみでとどまらず、そこから受け継いでいかねばなりません。
 
「なぜ生きなければいけないの?」
「なぜ死んではいけないの?」
その問いは、方向が違うのです。
「生きてほしい」
「自ら死を選んではいけない」
そういう呼びかけが、如来の本願が、私に届いているのですから。
 
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