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2006年12月 8日 (金)

人と成る

12月8日は成道会(じょうどうえ)。お釈迦さまがさとりを開かれた日です。
お釈迦さまは、「すべての事柄は縁によって起こる」ということをさとられました。

「縁によって起こる」
そのように言ってしまえば、身も蓋もない、当たり前のこと。
それをさとったと言うの?と思われるかもしれませんね。
頭で理解することと、そのことを受け容れることは違います。頭では理解していても、受け容れることは難しい、出来ないのです。お釈迦さまは受け容れたところから人生を再出発されたのだと思います。
  
お釈迦さまは「人生皆苦」であるとも言われました。
「人生はみな苦である」
そんなこと言われると、「生きてるのが辛くなる!!」「じゃぁなんで生きなければいけないの?」って反論したくなります。

お釈迦さまは、落胆させるために「人生皆苦」と言われたわけではありません。
「苦」というと、苦しみ・苦痛のことばかりに思いがいってしまいます。
でも、その苦しみの背景には「人はひとりでは生きていない」ということがあるのです。
人との関係性があるから、助けられることもあれば、苦しめられることもある。人との出会いは縁による。自分の意思で、自分に都合のいい人間とだけ会えるのなら、“縁”とは言わないでしょう。
「どうしてあんな人に会ってしまったのだろう」…そんな愚痴が出ることもあるでしょう。愚痴が出ることが、「すべての事柄は縁によって起こる」ということを頭では理解できても、受け容れられない私たちの姿なのです。でも、それがいけないことであったり、直さなければいけないことではないと思うのです。そうやってしか生きられないのです。いや、だからこそ生きられるのです。


 
苦しみを四苦八苦と言います。四苦は「生・老・病・死」(八苦は、四苦+「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」を言います。こちらの説明はまた別の機会に)。
 
「生苦」は「生きること」というよりも「生まれたこと」を指します。
「生まれたこと」が苦だなんて、これも身も蓋もない話ですが、事実ですよね。
私がたまに「自分が生まれたいと思ったから生まれることができたんだ」って書きますよね。それは、「生まれたこと」に責任を持ちたいからなんです。誰かのせいにしたくない。何かがあったときに逃げたくない。
人生、何が起こってもそれは縁による。だからといって、何事も縁のせいにしてしまうのではなく、縁によって引き起こされる物事の場に“私”がいるという責任があると思うのです。そういう想いを含めて、「自分が生まれたいと思ったから生まれることができたんだ」って言うのです。 
私の想いと、両親の縁によって、生をいただくことが出来たのです。

「老苦・病苦」…老いること、病むこと。
これが“苦”なのは頷けると思います。
   
「死苦」…死ぬこと。
「死」に対する恐怖という苦しみはありますが、自身の死に対する苦しみよりも、大切な人・身近な人の死によって受ける悲しみ苦しみを「死苦」というのだと思います。「どうして私を置いて」「早すぎるよ」「もっといろいろ話しておけばよかった」「今までありがとう」
人の死から様々な想いがよぎります。
そのように考えると、「老苦」や「病苦」も、自身の苦しみというよりも、人の苦しみを受けて感じる苦なのかもしれませんね。「出来ることなら私が変わってあげたい」って思ったことはありませんか?(ない?)
 
「生・老・病・死」
そのどれを考えても、私ひとりの苦しみではないのです。
先に《「苦」というと、苦しみ・苦痛のことばかりに思いがいってしまいます》と書きました。個人的な苦しみだけを指すのではなく、そういう「私ひとりの苦しみではない」苦しみを「人生皆苦」と言われたのではないでしょうか。
関係の中を生きるから、悲しいこと、つらいこと、苦しいことが起こる。でも、そればかりじゃない。楽しいことだってある。だからといって、「人生皆楽」なんて表現してはマズイなってお釈迦さまも思ったのでは^^
それに、自分の思い通りになる楽しい世界・楽な世界があったとして、そこに落ち着けるものではありません。より理想を追求するし、快楽を求めるし、退屈になってしまう。わがままななのです。「楽」も結局「苦」なのですね。

縁によって起こる
人生皆苦
 
お釈迦さまのさとりとは、これだけのことなのかもしれません。
でも、書き表すとたったこれだけのことなのに、そこに落ち着けないのです。悩むのです。ユラユラするのです。つらいのです。それが生きているということなのです。 

☆ 

昨晩、
ワーキングプア
父と養護学校の娘2人心中
ということばが目に飛び込んできました。
一生懸命生きよう生きようとしている人たちが苦しんでいる。なにか出来ることがないだろうか。どうしたらいいのだろうか。
お釈迦さまならどうされるだろう。なんて ことば をかけられるのだろう。
「そんなことを思うのは、思い上がりだ」と言われるかもしれない。でも、いろいろと考えてしまうのです。
   
「いまのままでいいんだよ」
「個性の尊重」
「私は、わたしひとり」
「世界に一つだけの花♪」
ことばは、人を安心させることもあれば、傷つけることもある。
多くの人がホッとすることばでも、傷つく人はいる。
誰もが傷つくことばでも、気持ちを奮い立たされる人もいることでしょう。
ひとつのことばが、すべての生きとし生けるものを救うことはできない。

お経、お釈迦さまの教えは、八万四千あると言われています。それだけたくさんあるということ。つまり、人の数だけあるということだと思う。
お釈迦さまは、一人ひとりに対して教えを説かれました(対機説法)。
伝えたいことは「縁によって起こる」「人生皆苦」ですべてなのだと思います。でも、それをそのまんま言ったのでは、安心する人よりも傷つく人の方が多いことでしょう。「ふざけるな!!」って怒られてしまいます。
一人ひとりの状況・境遇・環境に想いを致して、その人に合った話・ことばを説かれたのだと思います。
 
そのようなことが出来るのは、「縁によって起こる」「人生皆苦」という、「ふざけるな!!」って思ってしまいそうなことを、真正面から受け止められたから。そして仏と成った。
 
そういう人がいるということ。
お釈迦さまのようになることが目的ではない。
お釈迦さまの教えに聞くご縁をいただいている。そのことだけで、生まれてきた目的が達成されているのかもしれない。あとは、責任を尽くして人生を歩む。
(-人-)

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コメント

風邪でも引かれて寝込んでいらっしゃるのかと心配していましたが、「走って」いらっしゃると知り安心しました。

「無常」と言われると愁い・不安を生じる人も多いのでしょうが、かつさんのように「相変わらずという変化」でワクワクする人もいる。常に新しい「即生」でないと生きていけない面を感じていたいと思っています。

「皆苦」はやはり「自分の思い通りにならない」との「宿業」を感じます。でも全体が一つで、一瞬一瞬が完成していると感じると、あるがままの安心も感じます。

「縁によって起こる」
ほんと、このブログに出会ったのもほんの偶然。
でも、その偶然は起こるべきしてなった縁なのかもしれません。

聖人様の教えを身近に感じることができる。
これは自分にとってとても大切な出会いでした。

せっかく頂いたご縁。
毎日を真剣に「苦」を真剣に、いのちを生きたいです。

☆やすさん おはようございます
ご心配おかけしました。元気に過ごしております。

常に新しい「即生」を「無常」と言うのかもしれないですね。
 
「一瞬一瞬が完成」
いいことばだなぁと思いました。
一瞬一瞬が、常に新しく、常に無常。
なにも焦ることはないですね。

☆たかさん おはようございます
たかさんに出遇えたのも偶然。
でも、遇うべくして遇えたんですね。
お会いできる日が楽しみです^^
 
「苦」を真剣に生きるとは、
「縁」を大切に生きるということなのかなって思います。


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