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2006年12月

2006年12月31日 (日)

人生点描画

昨日の文章を書いてから考えていたのですが、
近づいて相手に接しようとすると、そういう接し方ばかりしてしまう。全体が見えなくなってしまうこともありますね。
みんなの中のひとり ひとりが集まってのみんな 
特定の人・物事に固執してしまってはいけないし、個を見失ってもいけない。


  
野球中継を担当していたベテランカメラマンさんが嘆いてました。
「最近のカメラマンは、ホームランの際、ボールがスタンドに入るまでアップで追い続けてしまう。それじゃぁ、ホームランって伝わらないんだよ」

野球中継のホームランボール。何気なく映像を見てしまっている。
飛んでるボールをアップで追い続けるのって、ものすごい高度な技術がいることだと思う。
状況からホームランって分かってるから、スタンドインする打球だってわかるのであって、何の説明もなく、飛んでる途中だけの映像を見せられても、それがホームランだとは分からないだろうな。
球場のお客さんの姿を下に映しながら飛んでいる打球を映しきれてこそ、本当に伝わるんだろうな。
ボールをアップで追うほうが、カメラマンとしては腕の見せ所だから、ついアップで撮ってしまう。

例え話になったのか分かりませんが、
遠くから、全体を視野に入れてこそ伝わることもある。
そんなことを言いたかったのです。

線かと思っていたら、点の集合だった。
それぞれの点を大切に見続けることも大事。いろいろな大きさ・形・色・温度の点があるのだから。

点だけをみていたら、線の中の点だった。
一歩引いて、全体を眺めてみましょう。線といっても、直線だけじゃない。曲線もあるし、立体的な線かもしれない。色もいろいろある。素晴らしい点描画が書かれているかもしれません。そのことに気付かず人生を過ごすなんて、もったいないですよ。

今年も終わりですね。
一日一日を大切に、一年全体・人生全体を見据えて、新しい年を迎えたいものです。

皆様、ありがとうございます。
よいお年を (^-^)/

2006年12月30日 (土)

お掃除のつづき

境内の掃き掃除をしていて、ちょっと先のところは落ち葉もなくてきれいに見えます。
「あっ、あっちは掃除しなくてよさそうだな」
なんて思いながら、きれいそうに見えるところに近づくと、けっこう汚れているものです。落ち葉や墓地花の散った花びらもチラホラ、タバコの吸殻やビニールなどもポツリポツリ。
「あぁ、こっちも掃除しなきゃ」
と、掃き掃き。
 
墓地にある参詣者用のトイレ掃除をするとき、立ちながら便器を眺めていると、汚れが目立ちません。
「あっ、きれいに使ってもらってるな」
なんて思いながら、しゃがんで便器を見ると、なんと汚れていることか。こんなに汚れていたら、気持ちよく用も足せないなぁ。
「水ぶき水ぶき」
と、水ぶきしたら便器がピカピカ。
 
墓参用の手桶け。一日経つと、元置いてあった場所からは移動してしまいます。
「今日もたくさんお参りにみえたなぁ」
なんて思いながら手桶けを手に取ると、使い切らなかった水が残っていたりします。空のつもりで手にして、水が入っているとビックリするものです。大量に入っていることもあるので、お参りに来た方がその手桶を手にしたとき、零してしまうことも考えられます。
「残った水は植木にかけてあげましょう」
と、植木の根元に水をかけます。
自分の汲んだ水が残ったとき、よそのお墓のお花に水をかけながら、手桶置き場まで戻ってくる門徒さんがいらっしゃいます。お花もその門徒さんもいつもニコニコしていらっしゃいます。
  
お歳暮でもらったシクラメン。正面玄関に飾らせていただいています。
掃き掃除をしながら、不意に目に入るシクラメン。木々の緑や、木造家屋の茶色が基調になっている境内で、赤や薄紫のシクラメンの鮮やかさが目に飛び込んで来ます。
「あぁ、きれいだなぁ。元気そうだな」
なんて思いながら、近づいてみると、しおれかけていたり、葉が枯れていたりします。
「ごめんね、今水をあげるからね」
と、ジョウロに水を汲んで、水をかけたり、枯れた葉や花を根っこをひねるようにしてぬきます。
数分してからシクラメンに近づくと、見違えて元気になっています。輝いています。
     

  
遠くから見ていると綺麗そう、元気そう、平気そうでも、そうではないことが多々あります。
近づいてみると、手で触れてみると、話しかけてみると、無理してたんだなぁって感じることがあります。
 
遠くから見て、客観的に見て、自己満足な安心をしないで、
近づいて、自分のこころの目で見て、喜んで手をわずらわせて欲しい。

掃除していて、こっちのこころが掃除されます。
「美しい」とやらも、近づくことから始まるんじゃないかな。遠くから眺めてないで。

2006年12月29日 (金)

暮れの儀式

大掃除に追われています。
坊守も私も掃除が好きなので、“大”をつけるほど掃除することもないのですが…でも、どんなに掃除をしても切りがありません。不思議です。

不思議といえば、普段使っていない部屋があるのですが、使ってないのに汚れているのです。
というか、使ってないからこそ汚れているのでしょうね。埃や塵で汚れているし、普段換気をしないので、部屋の空気がなんとなく重く湿ったかんじです。そういう部屋は、夜、たまに電気をつけても、くら~い空気が漂っています。
久しぶりに掃除をしたら、部屋の雰囲気が明るくなりました^^
   
使わないほうが、物は長持ちして、いつまでも綺麗そうだけど、
使わないでいると、いざというときに使い物にならなかったり、薄汚れてしまいます。
 
固定された物事も、使いやすそうで、なにも不自由なさそうだけど、
たまに動かしたり空気を入れ替えて雰囲気を変えると、もっと使いやすくなったり、よりスムーズになることもあります。

年の暮れになると大掃除をしてしまうのは、新しい年に向けて新たな気持ちで歩き出すための儀式なのかもしれませんね。
   
   
部屋を掃除した流れで、外のプレハブまで掃除してしまいました。
他にやることあるのに…(T_T)
でも、きれいに、使いやすくなりました(^▽^)

2006年12月27日 (水)

ポイ捨て…される前に

昨年、「高橋の手帳」で募集している「身近な人の名言・格言」について書きました。(こちら
もう一年経ってしまうのですね。今年の受賞作品が発表されていました。今年の大賞は神尾知子さんの作品。

おれが地球ならお前はいらんわ。

車の運転をしていた神尾さん。車からタバコをポイ捨てしたとき、助手席に乗せていたお兄さんから言われたひと言。
 「おれが地球ならお前はいらんわ」

タバコとかティッシュとか、ゴミのポイ捨てはみっともないです。
ポイ捨てするなら、ゴミを出さない。ゴミを出したら、持って帰ってから捨てる。大きなゴミじゃないんだから。

タバコやティッシュだけではない。
油を排水溝から流し捨てていませんか?
ゴミの日に、キチンと分別してゴミを出していたとしても、「それならOK」なんて言い切ることはできません。必要のないものを買って、結局ゴミにしてないだろうか。食べ物を無駄にしてないだろうか。
決まりに従ってゴミを処分していたとしても、考えなければいけないことは多い。 
   

  
時節柄、「厄落とし」とか「厄払い」という言葉をよく聞きます。
落とそうとしている、払おうとしている厄って、果たしてなんなんでしょうね?

先日、電車の中の広告に「厄払い」と書いてあったのを見て、ポツリとつぶやいてしまいました。
「人間こそ厄だよなぁ」
隣で聞いていた友人は苦笑いをしていました。

「厄落とし」「厄払い」って、自分自身を落とし、払い、清める行為なのかもしれませんね。

地球にとって、厄になっていないだろうか。
地球からポイ捨てされる前に、自分で気をつけなくてはいけません。

2006年12月26日 (火)

人生はオーケストラ

音楽を続けられることが決して当たり前でないことを、彼らは、私に思い出させてくれました。
          フランツ・シュトレーゼマン「のだめカンタービレ」より
  
「継続は力なり」と言う。
物事を続けるということはとっても難しい。たったひとつの ささいな出来事のせいで、今まで続けてきたことに、いとも簡単に幕が引かれることもある。
それだけに続けることが出来れば、自分でも気付かないうちに、私の血となり骨となり力となる。大きな財産です。
でも、でもそれだけに、続けることが当たり前のことのようになってしまったとき、油断・手抜き・自惚れ・他への批判などのこころが起きてしまう。「いつでも出来る」「こんなもんでいいか」「俺って凄いな」「なんでその程度のことができないんだ!!」って。
 ただ、続けられる何かに出会えただけなのに。
 ただ、好きなことが見つかっただけなのに。
 ただ、途中で止めてしまう出来事がなかっただけなのに。
 ただ、ほかにとりえがなかっただけなのに。
「ただ、~なだけ」な何かが、私に集まっただけのこと(この「ただ、~なだけ」の正体が阿弥陀さんかもしれないなぁ)。自分が威張ることでも、他人を責めることでもない。

続けられる何かが見つかっただけ。途中で投げ出してしまう出来事がなかっただけ。続けることが出来るって、決して当たり前ではないんだ。当たり前のことにしてしまってたなぁ。いや、続けられることに対する感謝を忘れていたなぁ。
続けることって、他人のためじゃない。自分自身のため。結果を、成果を、反応を気にして、それが伴わないからという理由で怒るのなら、サッサと止めてしまえばいい。

止めてから気付くことがある。
それが好きだから続けていたんだってことに。
自分自身が楽しいから続けられたんだってことに。
一度止めて、再び始めるためには、今まで続けてきた何倍もの想いや力が必要だってことに。
  
ここまで続けることが出来たことに、感謝です。

2006年12月24日 (日)

聖夜に想う

世間はクリスマスですね。クリスマスを「聖夜」とも書きます。

「聖」という字、「聖夜」とか「聖人君子」「神聖な」という使い方をするので、とても貴くて、清らかで、厳かな雰囲気を表わしているような気がします。
浄土真宗では宗祖 親鸞(しんらん)に「聖人(しょうにん)」と付けて呼びます。「親鸞聖人」と。お坊さんを「しょうにん」と呼ぶ場合、「上人」が一般に使われますが、親鸞しょうにんの場合は「聖人」です。

「聖人」と「上人」
先に書いたように「聖」の字に貴いイメージがあるから、浄土真宗では「親鸞上人」ではなく、「親鸞聖人」と書くのだろうと思われがちです。自分とこの宗祖だから「聖人」と。

お坊さんになるのにも資格が必要です。その資格を取ったお坊さんのことを、律令国家の名残で「上人」と言います。
だから、「親鸞上人」でも間違いではないのです。
「聖人」と言う場合、比叡山を離れ、あちらこちらを旅して回り、民衆の中に交わり、民衆に向けて仏教を広めていた僧侶を「聖人」と言います。「聖」は「ひじり」とも読みます。「ひじり」とは、そのように、民衆に向けて仏教を説き広めるお坊さんのことを指します。

20年間修行した比叡山を下りた親鸞は、法然に出遇います。法然は民衆に向けて念仏の教えを語られていました。その法然の姿に、仏教者としてあるべき姿を見た親鸞は、自身も法然の教えを受けます。
だから、「法然聖人」でも間違いではないのです。
親鸞聖人の著作では、法然は「法然聖人」と書き表されています。
 
時代を経て、「聖人」と「上人」の書き分けがされてきました。
江戸末期から明治頃に、親鸞を「聖人」、それ以外の僧侶を「上人」と書き分ける慣習となったらしいです。浄土真宗では。

「聖人」と「上人」
どっちが上とか下とか、比較するものではありません。厳密に違いがあるわけでもありません。
しかし、民衆に向けて仏教を説かれていた法然聖人と、自身も「法然聖人」と同じ歩みを踏み出そうと決意された親鸞聖人がいらっしゃらなかったら、「南無阿弥陀仏と念仏申す衆生を救う」という阿弥陀如来の教えは、私たちに届くことはなかったことでしょう。
「ひじり」の歩みが、時を越え、今の私に伝わっています。

2006年12月22日 (金)

ついで?

例えば、嫁ぎ先のご法事がお寺であったとします。
そのお寺には、嫁ぎ先のお墓だけでなく、実家のお墓もあります。
「嫁ぎ先の法事の際、実家のお墓をお参りしてはいけないのでしょうか?」
そのようなご質問を受けることがけっこうあります(「例えば」ですから、いろいろなパターンがあります)。
このように、メインのお参りがあって、その時に一緒にお参りすることを「ついで参り」と表現されます。
 
質問される方は、昔からの習慣として「ついで参り」はいけないと思っているのではないようです。親戚・友人・知人から「ついで参りはいけないこと」と聞かされて、初めてそんなことを知って不安になり、質問されるようです。
もしかしたら「ついで参り」という言葉を、ここで初めて聞いた方もいらっしゃるかもしれませんね。

その質問に対して、私はこのように答えています。
「ぜひお参りしてください。せっかくお寺にお参りに来たわけでしょう。それなのにお墓にお参りせずに帰ってしまうなんて、失礼だと思いますよ。ちゃんと手を合わせてお帰りになってください」
 
そもそも、お参りに「ついで」なんてことがあるのでしょうか? 
私の行動としては、ご法事の「ついで」なのかもしれませんが、亡き人からお参りしているあなたの姿を見たら、「ついで」ではありません。亡き人を縁にして、手を合わせることができた、立派なお参りです。

「ついで参り」はいけないと仰ってくれる方は、気を遣ってのことだとは思いますが、そのような忠告はお気になさらず、どんどんお参りしてください。
手を合わせる、南無阿弥陀仏と念仏申す縁を私がいただいているのですから。無駄にしてはもったいないですよ。
 


2006年12月21日 (木)

わたし

「みんなそう言ってますから…」

「友達の友達が言ってました…」

みんな? 

友達の友達? 

誰それ? 

自分のことじゃない?

2006年12月20日 (水)

なかよし

仲が良いとか悪いとか、わざわざ言うということは、そこに関係性があるから。
 
出会ってない人のことを、仲が良いとか悪いとか言わない。
 
特に仲良くも仲悪くもない人のことを、「あの人とは仲良くも悪くもないから」なんて言わない。
「毒にも薬にもならない」なんてことばはあるけれど。
 
「仲良し」と言うということは、本当にその人と仲良しなんだろうなぁ。
(向こうがどう思っているかは分からないけれど)

「仲が悪くて」と、わざわざ言うということは、気になる存在ということ。
本当に相容れないのなら、口に出すのも嫌だろう。
 
仲が良いとか悪いとか、わざわざいうと言うことは、
ちょっと特別な感情がはたらいているのかも。
関係の中を生きているんだなぁ。

2006年12月18日 (月)

人生地図

昨日は、ある仏教講座の会場への地図を作っていました。
地図を作るのって難しいですね。
 
自分が会場近辺の地理を多少でも知っていれば、説明を聞いただけで「あぁ、あそこね」なんて頷けるのですが、まったく知らない土地に行く場合は、地図だけが頼りです。
でも、目的地を書いて、目印になるもの・駅やバス停・道の名前などを書き込んで、どんなに詳しい地図を作っても、土地勘がない人にはなかなか伝わらない。
反対に、土地勘がある人には、道の線を数本引いて、目的地だけ「ここ!」って丸しただけの地図でも通じるから面白い。

思ったのですが、
私たちはどんな地図を持って、人生という旅路を歩んでいるのでしょうね。
 市街地図のように詳しい地図
 世界地図のように大雑把な地図
 まっすぐに延びたの一本線だけの地図
 道は何本もあるんだけど、目的地は同じ地図
 どこを通っていいのかわからないような複雑な地図…

手に持って広げるような地図はないけれど、「こっち、こっち」って呼んでくれるはたらきに導かれながら、今、人生を歩んでいる。どの道が正しくて、どの道が間違いなんてことはない。今私が歩んでいる道こそが、私が歩むべき道。だから生きていける。だから死んでいける。
生き急ぐ必要はないのです。師走のあわただしさの中、ホッと一息。

2006年12月16日 (土)

これから

「やりたいこと」と「やっていいこと」は違う

やりたいことが、たとえ可能なことだったとしても
やってはいけないことがある

「できるんだったら、やってもいいんじゃない?」
パンドラの箱を開けるつもりですか?

欲望のままに「やりたいこと」を「やって」しまったら
もう後戻りはできないだろう

「やりたいこと」を「やって」しまった国は
戦争への一歩を踏み出してしまった

2006年12月15日 (金)

手を合わせる

    手を合わせる   坂村 真民
  手を合わせる
  手を合わすれば
  憎む心もとけてゆき
  離れた心も結ばれる
  まるいおむすび
  まるいもち
  両手合わせて作ったものは
  人の心をまるくする
  両手合わせて拝んでゆこう
  手を合わすれば
  重い心も軽くなり
  濁った心も澄んでくる
  生かされ生きて花薫る
  楽しい世界にしてゆこう
  二度とこないこの人生を

   
  
まるいおむすび・まるいもち
まるいものが作れるのって、テクニックではなくて、私の中にまるいこころがあるから。
それなら、まるい和もつくれないかなぁ。まるい地球も作れないかなぁ。

怒りを感じたそのときに、スッと一息、手を合わせてみよう。
 「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
「南無阿弥陀仏」とお念仏称えたその後に、「テメェ、ふざけんな!!」なんてセリフは出ないから。言えないから。
私がこころ静めるのではない。自然とこころが静まる。
 
手を合わせるって、すごいこと。
合わさるはずのない私の手が、自然と合わさるのだから。
握りこぶしは合わさらないけれど、手のひらどうしは、ピタッと合わさる。
頑なな私のこころを、解き放ってくれるはたらきがある。それが阿弥陀さま。
そのはたらきの中を生かされている。だから、手が合わさる。

2006年12月14日 (木)

念ずれば花ひらく

坂村真民さんという詩人をご存知ですか?
「念ずれば花ひらく」という詩が有名です。
名前は聞いたことがある、その詩なら知っているという方もけっこういらっしゃるのではないでしょうか。
 
坂村真民さんが12月11日、老衰で亡くなられました(97歳)。
やさしい詩を読んでいると、「あぁ、坂村さんは阿弥陀さんと一緒にいらっしゃるんだなぁ」と感じます。   
  
ちょうど一年前に、坂村さんの詩「念ずれば花ひらく」に出遇わせていただいてました(「ぼうねん」と「しんねん」)。

  苦しいとき 母がいつも口にしていた このことば
  わたしもいつのころからか 唱えるようになっていた
  念ずれば 花開く
  そうして そのたび わたしの花がふしぎと
  ひとつひとつ開いていった
  念ずれば 花開く

  
昨日、吉野 弘さんの詩「生命は」を読みました。

  生命は
  自分自身だけでは完結できないように
  つくられているらしい
  花も
  めしべとおしべが揃っているだけでは
  不充分で
  虫や風が訪れて
  めしべとおしべを仲立ちする

    
花開くためには、念ずるということが始まりなわけですが、
念じただけで、そこに花開くということではない。
めしべとおしべが揃っているだけでは、花は咲かない。虫や風の訪れがあって、初めて花が開くきっかけをいただける。
念ずるこの私は、さまざまな縁が重なり合って今の私がいるんだなぁという“身の事実”を知らされる。
わたしがいるからあなたがいる。あなたがいてくれるおかげで、わたしがわたしでいられる。
私の意志で、私の選びで手を合わせるのではない、念じるのではない。
縁の重なりによって、人との出会いがあって、阿弥陀仏の慈悲の光に包まれているから、手が合わさる。念ずることができる。念じるとは、手が合わさるとは、そういうこと。
その事実に気付き、そういう身を生かされているんだなぁという頷きが、花開くということなのかな。
   
坂村 真民様
阿弥陀仏の慈悲のこころに抱かれて、これからも坂村さんの詩に導かれる人が相続することを念じております。

2006年12月13日 (水)

生命は

   生命は   吉野 弘
  生命は
  自分自身だけでは完結できないように
  つくられているらしい
  花も
  めしべとおしべが揃っているだけでは
  不充分で
  虫や風が訪れて
  めしべとおしべを仲立ちする

  生命は
  その中に欠如を抱き
  それを他者から満たしてもらうのだ

  世界は多分
  他者の総和
  しかし
  互いに
  欠如を満たすなどとは
  知りもせず
  知らされもせず
  ばらまかれている者同士
  無関心でいられる間柄
  ときに
  うとましく思うことさえも許されている間柄
  そのように
  世界がゆるやかに構成されているのは
  なぜ?

  花が咲いている
  すぐ近くまで
  虻(あぶ)の姿をした他者が
  光をまとって飛んできている

  私も  あるとき
  誰かのための虻だったろう

  あなたも  あるとき
  私のための風だったかもしれない
    
      
      
   
私も あるとき 誰かのための虻だったろう
誰かのために生きている私。
自分では気がついていないだけ。
役に立たない人間・生きてる意味がない人間なんていない。
私がいるだけで、生きる力をもらっている人がいる。 

あなたも あるとき 私のための風だったかもしれない
あなたがいてくれるおかげで、生きる喜びをもらっている私。
自分では気がついていないだけ。
なにもしなくても、会ったことも話したこともなくたって、
あなたの存在が、私に生命の風となってとどいている。

人は、見えないところでつながっている。

2006年12月11日 (月)

今、いのちがわたしを生きている

仏陀の教えを伝えたい。その一心で仏教を学んでいた僧侶がいます。名を曇鸞〔どんらん…今から千五百年ほど前の中国の僧〕と言います。

曇鸞は、仏教を広めるために、インドの言葉を中国語に訳す翻訳の仕事に取り掛かります。
曇鸞は数ある経典の中から『大集経(だいじっきょう)』を選び、翻訳を始めました。しかし、お仕事も半ばにさしかかった頃、病気にかかってしまいます。このままでは翻訳を完成させることが出来ません。
そこで曇鸞は、不老長寿の教えが説かれている道教(中国の教え)の経典である「仙教」を手に入れます。「これで長命を保ち、経典の翻訳を全うできる」と、曇鸞は喜びました。
その喜びを、インド出身の菩提流支(ぼだいるし)に伝え、そして言います。
「仙経ほど優れた、不老長寿について書かれた経典は、インドにもないことでしょう」
菩提流支は言います。
「不老長寿の教えなど、どこにもあるわけはない。自身が長生きするためだけの教えを頼りとしたところで、結局は煩悩に振り回されながら長生きするだけのこと。そのようにして仏教を学んだところで、さとりを得るということはないであろう」
そう言うと、『観無量寿経』という経典を曇鸞に授けられました。『観無量寿経』には、「かぎりないいのち」の教えが説かれています。個人の肉体としてのいのちが限りないというのではありません。たとえ肉体は滅びても、教えを聞いて生きる人がいる限り、教えが受け継がれていく。そのような意味での限りないいのちです。私に届いている教えは、限りないいのちを通してのものです。

菩提琉支の言葉を聞いた曇鸞は、自分の思い違いに気付かされ、苦労して手に入れられた「仙経」を焼き捨てられました。
その後曇鸞は、菩提流支が翻訳されたばかりの『浄土論』という書物に注釈をつけるお仕事を始められます。『浄土論』には、誰もが実践できる教え、念仏往生の教えが説かれています。念仏往生の教えに出会えた喜びを胸に、注釈を書かれたことでしょう。

仏教に出会い、その感動を、その教えを人々に伝えたいと志を立てた人でさえも、不老長寿という誘惑に飲み込まれてしまいます。
感動をみんなに伝えたい。初めは一心にその想いだけだったことでしょう。
それが、続けていくうちに「もっとみんなに伝えたい」「どうしてみんなに感動が伝わらないんだろう」「みんなもっと仏教に興味を持って欲しい」「やらなければいけないことが沢山あるのに、時間が足りなすぎる」と思ってしまう。
まっすぐな想いゆえ、挫折やあせりを感じ、切なくなり、愚痴も出る。誘惑に飲み込まれた曇鸞を誰が笑うことができましょう。

浄土真宗のお勤め「正信偈」も、親鸞聖人が南無阿弥陀仏の教えに出会えた感動を書き綴ったものです。
仏教に、念仏の教えに、念仏の教えを伝えてくださった先達方に出会えた感動でいっぱいです。
そこには、教化しようという計算はありません。ただひたすら感動を、喜びを表現されました。

「正信偈」は毎日のお勤めなので、暗記しています。なので、本を見ずに読んでしまいます。でも、最近「正信偈」を読むとき、本を見るようにしています。親鸞聖人が書き記されたものを見ながらお勤めをしていると、聖人の喜びが伝わってくるような気がするのです。
出会ったときの感動をいつまでも忘れずにいたいものです。

2006年12月10日 (日)

主人公

     主人公 (作詞/作曲 さだまさし)
「或いは」「もしも」だなんて
あなたは嫌ったけど
時を遡る切符があれば欲しくなる時がある
あそこの別れ道で選びなおせるならって……
勿論 今の私を悲しむつもりはない
確かに自分で選んだ以上精一杯生きる
そうでなきゃ あなたにとても とてもはずかしいから

あなたは教えてくれた 
小さな物語でも
自分の人生の中では 
誰もがみな主人公
時折思い出の中で 
あなたは支えてください
私の人生の中では 
私が主人公だと

   
   
「りんごが主人公」という文章を書いて、さだまさしさんの「主人公」を思い出すのも安易ですが、歌詞を読み返してみると、いいなぁって思います。

「相手を主人公として見る」ということを昨日は書きましたが、ということは、自身も主人公として見られることがあるということ。
そう、阿弥陀さまから見れば、生きとし生けるものすべてがみな主人公。

阿弥陀さまの他力の中を生かされている私。
でありながら、自力を頼りとして生きている私。 
自力を捨て、他力を生きようというのではない(そんなことはできない)。
他力の中を生きながら、自力を精一杯生きる。
他力が無い中で自力を尽くすことは悲しいけれど、
他力の中を生きているからこそ、自力を尽くせる。

阿弥陀さまに支えられている 
私の人生の中では 
私が主人公

私は 私を生きる
私は 私になる
  

2006年12月 9日 (土)

りんごが主人公

12月7日放送のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」を見ました。
この回のプロは、りんご農家・木村 秋則さん。
 
木村さんご夫婦は、りんご栽培の農薬で皮膚がかぶれ、農薬や肥料を使わないりんご栽培に挑戦されます。
しかし、りんごの栽培はうまくいかず、始めて6年目には生活も成り立たなく成り、自殺を試み岩木山に入ります。そこで、山々の木々には害虫も病気も少ないことに気付きます。疑問に思った木村さんは土を掘り返してみます。すると、手で掘り返せるほど土が柔らかかったのです。
この土を再現することが出来れば、農薬や肥料を使わないでも、りんごが栽培できるのではないかと思った木村さんは、栽培を続けます。
そして無農薬栽培を始めて8年目の春、りんごの花が咲きました。それは、りんごの実りを約束するものでした。
   
番組中、木村さんの笑顔が絶えません。
私はりんごを育ててないんです。りんごが育つ手助けしているだけです
私の仕事はりんご手伝い業です
主人公はりんごです
笑顔でりんごのことを語る木村さん。でも、目は真剣でした。
木村さんは、りんごを愛しているんだなぁというのが、伝わってきました。
  
りんご栽培に限らず、「自分が主になってやっているんだ!!」という思いは、相手もしんどいし、自分自身もしんどくなる。子育ても、人材育成も、仕事も、人間関係を保つことも…。
自分が相対する相手が主人公。自分はその手伝いをするだけ。
自分ひとりで背負い込まないで。結果ばかりを気にしないで。
 
かといって、楽していいと言うことではない。
こころが無ければ続きません
手抜きをすれば、それはすぐに現われます
主人公は相手と言うことは、自分は脇役に徹すると言うこと。楽なようでいて、それもつらいし、寂しいこともあることでしょう。
脇役に徹するとは、主人公以上に“こころ”が必要なのかもしれませんね。
 
りんごを愛するこころを持って接すると、りんごだけでなく、自分自身をも含めた、いのち全体を育てるのですね。

2006年12月 8日 (金)

人と成る

12月8日は成道会(じょうどうえ)。お釈迦さまがさとりを開かれた日です。
お釈迦さまは、「すべての事柄は縁によって起こる」ということをさとられました。

「縁によって起こる」
そのように言ってしまえば、身も蓋もない、当たり前のこと。
それをさとったと言うの?と思われるかもしれませんね。
頭で理解することと、そのことを受け容れることは違います。頭では理解していても、受け容れることは難しい、出来ないのです。お釈迦さまは受け容れたところから人生を再出発されたのだと思います。
  
お釈迦さまは「人生皆苦」であるとも言われました。
「人生はみな苦である」
そんなこと言われると、「生きてるのが辛くなる!!」「じゃぁなんで生きなければいけないの?」って反論したくなります。

お釈迦さまは、落胆させるために「人生皆苦」と言われたわけではありません。
「苦」というと、苦しみ・苦痛のことばかりに思いがいってしまいます。
でも、その苦しみの背景には「人はひとりでは生きていない」ということがあるのです。
人との関係性があるから、助けられることもあれば、苦しめられることもある。人との出会いは縁による。自分の意思で、自分に都合のいい人間とだけ会えるのなら、“縁”とは言わないでしょう。
「どうしてあんな人に会ってしまったのだろう」…そんな愚痴が出ることもあるでしょう。愚痴が出ることが、「すべての事柄は縁によって起こる」ということを頭では理解できても、受け容れられない私たちの姿なのです。でも、それがいけないことであったり、直さなければいけないことではないと思うのです。そうやってしか生きられないのです。いや、だからこそ生きられるのです。


 
苦しみを四苦八苦と言います。四苦は「生・老・病・死」(八苦は、四苦+「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」を言います。こちらの説明はまた別の機会に)。
 
「生苦」は「生きること」というよりも「生まれたこと」を指します。
「生まれたこと」が苦だなんて、これも身も蓋もない話ですが、事実ですよね。
私がたまに「自分が生まれたいと思ったから生まれることができたんだ」って書きますよね。それは、「生まれたこと」に責任を持ちたいからなんです。誰かのせいにしたくない。何かがあったときに逃げたくない。
人生、何が起こってもそれは縁による。だからといって、何事も縁のせいにしてしまうのではなく、縁によって引き起こされる物事の場に“私”がいるという責任があると思うのです。そういう想いを含めて、「自分が生まれたいと思ったから生まれることができたんだ」って言うのです。 
私の想いと、両親の縁によって、生をいただくことが出来たのです。

「老苦・病苦」…老いること、病むこと。
これが“苦”なのは頷けると思います。
   
「死苦」…死ぬこと。
「死」に対する恐怖という苦しみはありますが、自身の死に対する苦しみよりも、大切な人・身近な人の死によって受ける悲しみ苦しみを「死苦」というのだと思います。「どうして私を置いて」「早すぎるよ」「もっといろいろ話しておけばよかった」「今までありがとう」
人の死から様々な想いがよぎります。
そのように考えると、「老苦」や「病苦」も、自身の苦しみというよりも、人の苦しみを受けて感じる苦なのかもしれませんね。「出来ることなら私が変わってあげたい」って思ったことはありませんか?(ない?)
 
「生・老・病・死」
そのどれを考えても、私ひとりの苦しみではないのです。
先に《「苦」というと、苦しみ・苦痛のことばかりに思いがいってしまいます》と書きました。個人的な苦しみだけを指すのではなく、そういう「私ひとりの苦しみではない」苦しみを「人生皆苦」と言われたのではないでしょうか。
関係の中を生きるから、悲しいこと、つらいこと、苦しいことが起こる。でも、そればかりじゃない。楽しいことだってある。だからといって、「人生皆楽」なんて表現してはマズイなってお釈迦さまも思ったのでは^^
それに、自分の思い通りになる楽しい世界・楽な世界があったとして、そこに落ち着けるものではありません。より理想を追求するし、快楽を求めるし、退屈になってしまう。わがままななのです。「楽」も結局「苦」なのですね。

縁によって起こる
人生皆苦
 
お釈迦さまのさとりとは、これだけのことなのかもしれません。
でも、書き表すとたったこれだけのことなのに、そこに落ち着けないのです。悩むのです。ユラユラするのです。つらいのです。それが生きているということなのです。 

☆ 

昨晩、
ワーキングプア
父と養護学校の娘2人心中
ということばが目に飛び込んできました。
一生懸命生きよう生きようとしている人たちが苦しんでいる。なにか出来ることがないだろうか。どうしたらいいのだろうか。
お釈迦さまならどうされるだろう。なんて ことば をかけられるのだろう。
「そんなことを思うのは、思い上がりだ」と言われるかもしれない。でも、いろいろと考えてしまうのです。
   
「いまのままでいいんだよ」
「個性の尊重」
「私は、わたしひとり」
「世界に一つだけの花♪」
ことばは、人を安心させることもあれば、傷つけることもある。
多くの人がホッとすることばでも、傷つく人はいる。
誰もが傷つくことばでも、気持ちを奮い立たされる人もいることでしょう。
ひとつのことばが、すべての生きとし生けるものを救うことはできない。

お経、お釈迦さまの教えは、八万四千あると言われています。それだけたくさんあるということ。つまり、人の数だけあるということだと思う。
お釈迦さまは、一人ひとりに対して教えを説かれました(対機説法)。
伝えたいことは「縁によって起こる」「人生皆苦」ですべてなのだと思います。でも、それをそのまんま言ったのでは、安心する人よりも傷つく人の方が多いことでしょう。「ふざけるな!!」って怒られてしまいます。
一人ひとりの状況・境遇・環境に想いを致して、その人に合った話・ことばを説かれたのだと思います。
 
そのようなことが出来るのは、「縁によって起こる」「人生皆苦」という、「ふざけるな!!」って思ってしまいそうなことを、真正面から受け止められたから。そして仏と成った。
 
そういう人がいるということ。
お釈迦さまのようになることが目的ではない。
お釈迦さまの教えに聞くご縁をいただいている。そのことだけで、生まれてきた目的が達成されているのかもしれない。あとは、責任を尽くして人生を歩む。
(-人-)

2006年12月 7日 (木)

相変わらずという変化

前回の文章で、  
今年もあと一ヶ月、「今年最初の」出来事があるかもしれない。
センチメンタルになるよりも、ワクワクしながら12月を過ごしたいものです。

と、書きました。
書いてからいろいろと考えていました。
   

    
今年まだ、人生でもまだ経験したことがないような「今年最初の」出来事があるかもしれない。
そういう意味での“最初”もあるけれど、でも何事も常に“最初”なんだなぁって思います。
  
ご飯を食べることも、お茶することも、通勤・通学も、掃除・洗濯・炊事も、お風呂に入ることも、用を足すことも、毎日必ずすることであっても、その度に“最初”。
決まったことだから、毎日のことだから、習慣だからって惰性でこなしているかもしれないけれど、毎回毎回新しい出来事。
味も分からず食べ物を口に運ぶよりも、目で見て・よく噛み・よく味わって、誰かと一緒なら感想を言いながら食事する。毎回毎回新たな感動がある。
通勤・通学の風景。いつも通る同じ道、いつも乗る同じ電車、でも毎回どこか違うはず。春夏秋冬移りゆくように、同じに見える風景も少しずつ変わっている。電車の乗っている人の顔つきも違うはず。
  
そういう違いに気を遣いながら生活していると、なんか楽しい。
今日は何が起こるかな。今日は誰に逢えるかな。
何事もなかったとしても、誰に逢わなかったとしても、相変わらずという変化の中を生きているんだと思う。
ワクワクしようと思わなくても、自然とワクワクしてきます。

2006年12月 2日 (土)

師走

今年の流行語大賞が「イナバウアー」に決まりました。
“イナバウアー”ということばが巷を賑わせたのも ずいぶん昔の話のようですが、今年のことなんですね。
 
12月になったばかりだというのに、
“今年の”流行語大賞決定!!
“2006年の”ヒット商品番付も発表されました。
音楽や文学などの分野でも、“今年の”ヒット作が表彰され始めます。

クリスマスは12月25日なのに、
街では 11月の頭頃からクリスマスの雰囲気が漂っています。
 
2006年もあと一ヶ月残っているというのに、もう今年の総括なのですね。
あぁ12月(TT) って感じです。

大相撲九州場所千秋楽(最終日)、テレビのアナウンサーが取り組みの度に
「さぁ、○○関 □□関にとって今年最後の一番です」
と言ってるのが、ちょっと耳障りでした。
確かにどの関取にとっても“今年最後の取り組み”ですけどね。
「今年最後かぁ…。これから自分が関わっていることのあらゆることが“今年最後の”“今年最後の”になるんだなぁ」なんて感傷に浸ってしまいました。
 
でも、今年もあと一ヶ月という今、“今年最初の”出来事があるかもしれない。
センチメンタルになるよりも、ワクワクしながら12月を過ごしたいものです。

2006年12月 1日 (金)

2006年12月のことば

  Pict0001
     ありがとうの
       想いを忘れて生きることのかなしさ

「ありがとう」。優しく、温かい響きを持つことば。このことばが日常にあるだけで、どれだけ世界は変わることでしょう。
その、「ありがとう」というひと言でさえも、枯れて消えかかろうとしています。口には出さずとも、こころの中で「ありがとう」の気持ちが溢れている人はいることでしょう。しかし、その想いのほんの一部でも口に出すことが出来たなら、世界はもっと変わるはずです。
私ひとりの想いは小さいけれど、小さい想いの集まりが、どれほど大きな力を生み出すことでしょう。「ありがとう」を求める前に、私から口に出して生きたいものです。

しかし、掲示したことばの「ありがとう」は、お礼や感謝のことばとしての「ありがとう」という意味だけではありません。有ることが難いいのちを生きている。その身の事実を「ありがたい」と表現しました。
私が人として生き、仏法に触れるご縁をいただいている。当たり前のことのように思っている、いや、なにも感じることもなく過ごしていることでしょう。しかし、今の私となるまでに、どれだけのご縁が、どれだけのいのちが、どれだけの法があったことでしょう。有ることが難い、はたらきとしての「ありがとう」が私を私として生かしているのです。そのような想いを抱くことなく生きることは、どんなにかなしいことでしょう。

  人の信のなきことを思し召せば、
   身をきりさくようにかなしきよ

              (蓮如上人御一代記聞書 112)
 
無宗教・無信仰・無信心などと言うけれど、神や仏・菩薩・如来を、私が信じる対象として考えているから。対象物を設定して、それを信じることが信仰ならば、たとえ「信じている」と思えても、それは勝手な思い込みであり、とてもあやふやな信心です。我が身や身近な人々に何か不幸なことや不都合があったとき、「信じていたのに」「もう信じない」という不満の声が出るのですから。
こんなに身勝手な私なのに、こんなにつらい世の中なのに、生きていくことが出来るのは、有り難いいのちをいただいているから。
生きていくことが出来ることが有り難いのではありません。いただいているいのちが、有ること難しなのです。
「生きていくことが出来ることが有り難い」のなら、死は忌避するものに成り下がってしまいます。
「有り難いいのちをいただいている」。その有り難いいのちとは、死をも含むいのちなのです。死をも含めた、無常で有限で有り難い「いのち」をいただいている。どれほど稀(まれ)なことでしょう。どれだけの偶然の積み重ねによって今の私があることでしょう。どんなに不思議ないのちを生かされていることでしょう。有り難いいのちの気付き。それが信仰ということだと思います。
 
お礼や感謝のことばとしての「ありがとう」は、とても大切な響きがあります。しかし、私が発する「ありがとう」は限定されています。誰々に対して、ある行為に対して、言って満足、内心は気持ちすらない、など。
でも、私に発せられている「ありがとう」は無限です。誰であろうと、なにをしようと、いつも私に発せられている「ありがとう」があります。発している主は阿弥陀如来です。その温かくて、優しい響きの中を生きているからこそ「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことができるのです。
私の口から「南無阿弥陀仏」とお念仏が出る。その事実は、どれだけ有り難いことでしょう。

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