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2006年12月 1日 (金)

2006年12月のことば

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     ありがとうの
       想いを忘れて生きることのかなしさ

「ありがとう」。優しく、温かい響きを持つことば。このことばが日常にあるだけで、どれだけ世界は変わることでしょう。
その、「ありがとう」というひと言でさえも、枯れて消えかかろうとしています。口には出さずとも、こころの中で「ありがとう」の気持ちが溢れている人はいることでしょう。しかし、その想いのほんの一部でも口に出すことが出来たなら、世界はもっと変わるはずです。
私ひとりの想いは小さいけれど、小さい想いの集まりが、どれほど大きな力を生み出すことでしょう。「ありがとう」を求める前に、私から口に出して生きたいものです。

しかし、掲示したことばの「ありがとう」は、お礼や感謝のことばとしての「ありがとう」という意味だけではありません。有ることが難いいのちを生きている。その身の事実を「ありがたい」と表現しました。
私が人として生き、仏法に触れるご縁をいただいている。当たり前のことのように思っている、いや、なにも感じることもなく過ごしていることでしょう。しかし、今の私となるまでに、どれだけのご縁が、どれだけのいのちが、どれだけの法があったことでしょう。有ることが難い、はたらきとしての「ありがとう」が私を私として生かしているのです。そのような想いを抱くことなく生きることは、どんなにかなしいことでしょう。

  人の信のなきことを思し召せば、
   身をきりさくようにかなしきよ

              (蓮如上人御一代記聞書 112)
 
無宗教・無信仰・無信心などと言うけれど、神や仏・菩薩・如来を、私が信じる対象として考えているから。対象物を設定して、それを信じることが信仰ならば、たとえ「信じている」と思えても、それは勝手な思い込みであり、とてもあやふやな信心です。我が身や身近な人々に何か不幸なことや不都合があったとき、「信じていたのに」「もう信じない」という不満の声が出るのですから。
こんなに身勝手な私なのに、こんなにつらい世の中なのに、生きていくことが出来るのは、有り難いいのちをいただいているから。
生きていくことが出来ることが有り難いのではありません。いただいているいのちが、有ること難しなのです。
「生きていくことが出来ることが有り難い」のなら、死は忌避するものに成り下がってしまいます。
「有り難いいのちをいただいている」。その有り難いいのちとは、死をも含むいのちなのです。死をも含めた、無常で有限で有り難い「いのち」をいただいている。どれほど稀(まれ)なことでしょう。どれだけの偶然の積み重ねによって今の私があることでしょう。どんなに不思議ないのちを生かされていることでしょう。有り難いいのちの気付き。それが信仰ということだと思います。
 
お礼や感謝のことばとしての「ありがとう」は、とても大切な響きがあります。しかし、私が発する「ありがとう」は限定されています。誰々に対して、ある行為に対して、言って満足、内心は気持ちすらない、など。
でも、私に発せられている「ありがとう」は無限です。誰であろうと、なにをしようと、いつも私に発せられている「ありがとう」があります。発している主は阿弥陀如来です。その温かくて、優しい響きの中を生きているからこそ「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことができるのです。
私の口から「南無阿弥陀仏」とお念仏が出る。その事実は、どれだけ有り難いことでしょう。

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コメント

いま「悩んだり」「苦しんだり」。そんな状況も有り難い「いのち」があるからこそなんですね。
もちろん「楽しく」「幸せ」なのも。

考えてみれば、今ここでパソコンを打てる。
当たり前に過ごしている「いのち」。
大切に生きていかなくては。

☆たかさん こんにちは
パソコンを打っている今も、いのちを生きている!! そうですね。
「いのちは大切」「有り難いいのちを生かされている」なんて私が思っても思わなくても、いのちは生きていてくださるんですね。

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