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2006年11月

2006年11月30日 (木)

ひとりじゃない

 如来に信ぜられ
 如来に敬せられ
 如来に愛せらる
 かくて我等は
 如来を信ずることを得る

            曽我 量深

阿弥陀如来に信ぜられ、敬せられ、愛せられている私。
だからこそ私は阿弥陀如来を信じることができる。
だからこそ私は生き抜くことが出来る。
 
誰からも信じてもらえない、敬われない、愛されないと思っていても、阿弥陀如来は私のことを想っていてくださる。それ以上、何が必要なのだろうか。
阿弥陀の想いに照らされて生きている私なのに、阿弥陀の想いを忘れて生きている。
ないないと途方にくれていたが、私の周りに満ち満ちていた。
勝手に迷っていました。でも、それが私。阿弥陀如来は、そんなこと百も承知。

阿弥陀の想いを、お釈迦さまは私たちに示してくださいました。
そのお示しを受け継いできた伝統、善導ー法然ー親鸞があって、今私にまで届いている。
                               
南無阿弥陀仏を称えられるのは、阿弥陀如来の想いが私に届いているから。
ひとりじゃないんだ…よかった

2006年11月29日 (水)

宗祖を憶ふ

昔、法師あり
親鸞と名づく
殿上(でんじょう)に生れて庶民の心あり
貪道となりて高貴の性を失わず

已(すで)にして愛欲の断ち難きを知り
俗に帰れども道心を捨てず
一生凡夫にして
大涅槃の終りを期す

人間を懐かしみつつ人になじむ能わず
名利の空(くう)なるを知りて離れ得ざるを悲しむ
流浪の生涯に常楽の郷里を慕い
孤独の淋しさに萬人の悩みを思ふ

聖教を披(ひら)くも 文字を見ず
ただ言葉のひびきをきく
正法を説けども 師弟を言はず
ひとへに同朋の縁をよろこぶ

本願を仰いでは
身の善悪をかへりみず
念仏に親しんでは
自(おのず)から無碍の一道を知る

人に知られざるを憂えず
ただ世を汚さんことを恐る
己身(こしん)の罪障(ざいしょう)に徹して
一切群生の救いを願ふ

その人逝きて数世紀
長(とこし)へに死せるが如し
その人去りて七百年
いまなほ生けるが如し

その人を憶(おも)いてわれは生き
その人を忘れてわれは迷う
曠劫多生(こうごうたしょう)の縁
よろこびつくることなし
  
          
   
金子大榮師の「宗祖を憶ふ」
親鸞聖人の生き様を詠われています。

聖教を披くも、文字を見ず
ただ言葉のひびきをきく

言葉にばかり気を取られ、言葉のひびきを聞いてきただろうか。耳を澄ませてきただろうか。
親鸞聖人を抜きに言葉に出会っても、われは迷うばかりである。
そんな私が嬉しいとき、哀しいとき、いつも横にいてくれるのが親鸞聖人。
今も私と共に生きていてくださる。

2006年11月28日 (火)

もっと悩みなさい

今日は親鸞聖人のご命日
今朝、本堂でお勤めをして、お仏飯をお供えしているときに祖師前の親鸞聖人と目が合いました。

もっと悩みなさい

と、言われたような気がしました。
悩んでいないわけではないけれど、真剣に悩んでいないというか、悩みに真向かいになっていない私を見透かされているように感じました。
ちゃんと見ていてくださっているのですね。
     
  
私たちはもっともっと悩まねばなりません
人類のさまざまな問題が私たちに圧しかかってきているのです
安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることは出来ません
むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です

                     安田 理深
  
もっともっと悩む。悩んだ末に落ち着けるのではなく、まだ悩む。それが生きる姿なのかもしれません。 
 

2006年11月27日 (月)

ずるい私

私は悪人です、と言うのは
私は善人です、と言うことよりもずるい。

  坂口安吾 『私は海を抱きしめていたい』坂口安吾

2006_10070125
      2006年10月 沖縄にて
  
あらゆる煩悩を持って生きる私。そんな私を「悪人」という。救われるはずのない「悪人」である私を、阿弥陀如来は救いたいと願われている。
 
浄土真宗の教えに出会い、
「悪人」という響きに驚き、嫌悪する人もいる。
「悪人」こそが救われるなんて、おかしな教えだと非難する人もいる。

浄土真宗の教えに出会い、
「悪人」とは私のことだったんだ!! と気付く人もいる。
しかし、そこで立ち止まってしまう。「私は悪人です」という自覚が、知識としての自覚でしかない。
こころの底から「悪人」である私を自覚したとき、「私は悪人です」なんて言えないのだと思う。
「悪人」Tシャツなんて着られるわけがない(でも着てる「ずるい私」)。

2006年11月25日 (土)

ゆったり

畳替えをしているついでに、部屋の模様替えもしています。
その関係で、テレビの線を外しているので、テレビを見ることができません(見ようと思えば見られるのですが)。

毎月1日に寺報(お寺の新聞)を発行しています。
月末にその編集作業に取り組むので、月末の二日三日はかなりあせっています。早く取り掛かって、早く終わらせておけばいいのは分かっているんですけどね。
ところが、奇跡的に昨晩12月号が完成してしまいました(パチパチ)。

出来上がったものは住職と坊守に見てもらうのですが、毎月ギリギリに出来上がるものですから、誤字脱字を指摘してもらう程度で終わり。内容について意見を交わすということがあまりありません。

でも昨晩寺報が出来上がり、もうひとつが大きな要因、テレビが見られないものですから、住職と坊守にゆっくりと校正してもらえました。

誤字脱字を指摘してもらい、その後お茶を飲みながら内容について想いを語る。
その語り合いの中で、気付いた点・想いついた点があれば、それをまた文章に生かせる。
余裕があると、さらに余裕が生まれてくるものですね。

テレビをつけない時間・日を決めておくと、贅沢な時間が生まれます。
あっ、食事中もテレビをつけない方が、食事がより美味しくなりますよ。

12月号の文章は、12月1日にアップします。今年最後の新聞です。お楽しみに。

テレビ関係のお仕事をしている方、ごめんなさい。

2006年11月24日 (金)

決して・すべき・ではない

私は煙草を吸わない人なのですが、タバコの箱に「吸いすぎ注意」の文章が書いてあることは知っています。でも、最近はそれだけではないのですね。

けっこうヘビィなお寺さんから、
「最近、タバコにこんな紙が入ってんだよ」
って見せていただきました。
 

妊娠している方は、
決して喫煙するべき
ではありません。

「…なんか、気持ち悪い文章ですね」

「“決して”と“するべき”と“ありません”が結びつかないんだよねぇ」
 
「“吸ってはいけません”って書けばいいのに」

「売るほうとしては、そこまでは書ききれないんだろうね」

「ふ~ん」

「でも、なにか書いておかないとダメなんだよ」
 

若いときからタバコを吸い続けて、歳をとって肺癌になられた方が「こんなもの(タバコ)売りやがるから肺癌になっちまった。タバコ会社や国を訴えてやる!!」 と言っているのを聞いたことがあります。
そうなるかもしれないことを了解したうえで吸ってるんじゃないのかなぁ。自分は大丈夫と思ってたのかなぁ。
売る方は、注意書きをしておかないと反論できないんですよね。
 
タバコに限らず、最近いろいろな商品に過剰で、冷静に読むと笑える注意書きが書いてあります。
アメリカでは「洗濯機の中に入って遊ばないでください」と取扱説明書に書いてある(もちろん英語で)と聞いたことがあります。遊んで怪我した子がいるんでしょうね。
 
「決して洗濯機の中に入るべきではありません」
なんか変だ。

「決して喫煙するべき」
で改行されてるから、折り方によっては
「妊娠している方は、決して喫煙するべき」
で文章が切れてしまいますね。変な強調のようです。


2006年11月23日 (木)

私の中の黒いもの

昨日、窓が汚れていたので、窓ふきをしました。
二階の出窓だったので、はしごを上って、屋根の上に乗って窓をフキフキ。
みるみる黒くなっていく雑巾。排気ガスや砂埃で窓は真っ黒でした。
さぁ、きれいになったぞ♪
 
今朝、起きて先ずはカーテンを開ける。昨日窓拭きをしたし、窓から見る景色はきれいだろうなぁなんて思いつつ。
 シャッッッ
でも、ふいた割には汚れてました。
 
理由は簡単、窓の内側も汚れていたのでした。着替えて、さっそく室内から窓ふき。
うん、きれいになった。
けど、なんか汚れているなぁ。

理由は簡単、私のメガネが汚れていたのでした。さっそくメガネのレンズをフキフキ。
あぁ、やっときれいになった。
でも、すぐに汚れるんだろうなぁ。  
   
私に近づくほど、物事が見えなくなっていく。
どんなに真っ黒なことでしょう。

2006年11月22日 (水)

今も昔も

畳の張り替えをしました。
朝、畳屋さんが来て、玄関の畳を作業所へ持っていきました。
 
畳を外して、床に残った新聞紙。1999年7月の新聞でした。7年ぶりの張り替えです。
新聞を集めながら、チラホラ目に入る新聞の見出し。
・死生観揺らぐ現代
・「テポドン」瀬戸際の交渉
・先生気付けば40代 部活に支障も
(小中高校の先生の平均年齢が上がっていて、一緒に体を動かして部活指導できる先生が減っている。それに伴い学校の活気も薄れているという記事) 
 
なにか感じることはありますか?
世の中悪い方に進んでいると感じている人は多いと思いますが、新聞を見ていて、人間って そんなに変わらないんだなって思いました。
・死生観は揺らぎっぱなし。
・「テポドン」は長いこと瀬戸際のまま。
・学校に活気がないのは、今に始まったことじゃないんですね。
   
科学や医療は進歩しているけれど、人間って 簡単に変わるものではない。外的要素が変わっていくから、人間まで変わっているように感じてしまうけれど。
7年間、出来事としてはいろいろあったけど、私自身は変わってないのかもしれない。
      
  
夕方、張り替えた畳が入りました。
裏返しただけなので、い草の香りはしませんが、玄関に入ったときの雰囲気が明るくなった気がします。
次に張り替えをするとき、2006年11月の新聞記事を見て、なにを感じることでしょう。


 

2006年11月21日 (火)

はじめのいっぽ


みんなが仲良くなれる様に「ありがとう」って言葉があるんだね

坊守が買って来たポストカード
Yuko-Yoshimuraさんという方の作品です。
   
自分の想いを素直に表現することが出来たら、なにかが変わる。きっと変わる。

「自分の想い」と言ってもいろいろありますけどね。
「ありがとう」だったら、優しい雰囲気に包まれるし、
「あなた嫌い」だったら、気まずい空気が漂います。
でも、ということは、私が発する想いしだいで、世の中って変わるんだなぁってこと。
他人のせい、周りのせい、社会のせいにしないで、自分を見つめなきゃ。
社会が変わることを待たないで、自分が変わらなきゃ。

2006年11月20日 (月)

目と目で通じ合う

ボソボソっとした話し方をする私。
今朝も朝食時にいつものようにボソボソっとした話し方をしていました。
すると、いつもハキハキ坊守が

もっと口を大きく開いて、相手の目を見て、ハッキリしゃべりなさい^^

「うん」って、ボソッと応える私。

「いつも法話会の時は大きい声でハキハキしゃべってるじゃないの。あんな感じでしゃべりなさいよ」

「法話会の時はスイッチを入れてるから…」ってボソッと。

「常にONにしておきなさい!!」
      
    
そうは言うけれど…  
数日前、友人と話している時にON状態になり、いつもと違うテンションで話していたら、
「そんなの かっちゃんじゃない!!」
と言われてしまいました。ボソボソってイメージが定着しているようです。
   
   
でも、相手の目を見て話すということは大事ですね。特に、伝えたい何かがあるときは効果的です。
先日、よそのお寺さんの報恩講でお話をするご縁をいただきました。法話をするときは、出来るだけ聴衆ひとりひとりの目を見るように心がけています。
伝えたいことがちゃんと伝わっているかどうかは分かりませんが、場の共有が出来ているかなって感じます。
話すほうが一方的に話すのではなくて、聞いてる方の目を見て、「あっ、今のところ伝わらなかったかな」って思ったら また丁寧に話したり、例え話や脱線話が「つまらなそうだな」って感じたら話を元に戻したり。
向こうももしかしたら「分からない」「面白くない」って視線を送っているのかもしれませんね。

目を見て話す。
話す方も聞く方も緊張感が生まれます。

2006年11月19日 (日)

智慧の光明

今日のご法事で門徒さんが、
「ご住職、お経に“智慧の光明”のお歌を入れていただけますか」
「はい^^」
  
“智慧の光明”のお歌とは、親鸞聖人のご和讃です。
  
  智慧の光明はかりなし
  有量の諸相(うりょう の しょそう)ことごとく
  光暁(こうきょう)かふらぬものはなし
  真実明(しんじつみょう)に帰命せよ

 
阿弥陀如来の分別を超えた光明は無限です(誰は救って、誰は救わないという分別がありません)。限りあるいのちを生きる、すべての生きとし生けるものが阿弥陀如来の光明に照らされています。その阿弥陀さまの真実のお導きを頼りとして生きましょう。
 
門徒さんがなぜこのご和讃を求めたか。それは、このご和讃の中に亡くなられた奥様のお名前が入っているから。
普段、ご法事では勤めることがないご和讃。でも、そのご和讃に差し換えてお勤めさせていただきました。
お経中、背中から聞こえてくる「南無阿弥陀仏」の声。
亡くなられた奥様を通して、阿弥陀さまの智慧の光が、シッカリとご主人に届いている。
奥様が自分の死を通して、ご主人を光に、教えに出遇わせてくださいました。
     
   
こんにち、亡き人やご遺体を指して「仏さま」と言いますが、「仏さま」とは「目覚めた人」という意味。
私に先立って亡くなられた大切な方は、「目覚めた人」という本来の意味での「仏さま」として、私を光に教えに出遇わそうとしてくださっています。
   
亡き人は、眼は閉じてしまったけれど、真実に目覚められました。
私は、起きて目は開いてはいるけれど、真実が何も見えていない。
 
仏さまの声、智慧の光に包まれて、今私は生きている。

2006年11月17日 (金)

カマキリ

今朝、境内の掃き掃除をしていました。
落ち葉を掃き集めて、チリトリで取ります。
チリトリに手をかけようとした時、いつもと違う何かを感じました。

で、よ~く見たら、チリトリの取っ手にカマキリが!!
危うく握りつぶしてしまうところでした。
気付いてよかったです。

  
上から見た写真。
シッカリとしがみ付いています^^
丁重に引き離し、植木に放してあげました。

今年はたくさんカマキリに出会います。なぜでしょうか。
ちなみに、このチリトリ、「鉄道チリトリ」と言います。
私の大切な相棒です。

2006年11月16日 (木)

仏法聞き難し

今朝のお勤めで読んだ親鸞聖人のご和讃

 七宝の宮殿にうまれては 
 五百歳のとしをへて 
 三宝を見聞せざるゆえ 
 有情利益はさらになし

自分の周りに欲しい物が満ち足りている生活。たとえそんな生活を500年送れたとしても、教えに出会うことがなければ、ただ虚しいだけの人生である。
このご和讃歌を読んだとき、境内に掲示してある ことば が思い浮かびました。

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教えに遇わねば 酒、カラオケでも又長生きしても むなしさだけが残る

人間の姿は、今も昔も同じですね。


2006年11月15日 (水)

周りの人間って、私のこと

周りの人間がどう接するかで、大竹さんの可能性はどんどん広がっていくんだね。
                  動物園の古賀さん (ドラマ「僕の歩く道」より)
  
自閉症の青年(大竹 輝明さん)を描いたドラマ。
自身も自閉症のお子さんを持つ古賀さんは、大竹さんが動物園で働けるはずがないと思っていました。しかし、動物園で働くことになってからの大竹さんの成長していく姿に驚くのでした。
 
無知・偏見・誤解ゆえ「自閉症の人は行動が制限される」と思われているけれど、周りの人間の接し方しだいで、人は変わることが出来る。
一人ではなにも出来ないけれど、助けがあればどんどん成長していく。
でもそれって、自閉症の青年を取り上げてはいるけれど、誰もがそう。
誰もが「周りの人間」でもあるし、誰もが「大竹さん」である。
そこに人がいる。その意識を持つだけで、態度に表われる。人の可能性はどんどん広がる。自分自身も成長する。
     
  
「苦しいことがあるなら話してほしい」と言うけれど、声を待っていては、声は聞こえてこない。
「私にはこんなことがあってさ」って、自分から発していかないと、なにも応って(かえって)来ない。
子ども自身・子どもにのみ変化を求めるのではなくて、先ず周りの人間・大人が接し方を変えなければ、声は聞こえてはこない。

2006年11月14日 (火)

しあわせ

「俺はさぁ、あんたに幸せになってもらいたいんだよ」
「ありがとう。僕は幸せだよ^^」
   
   
目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。
                              アンドレ・ジッド
   
生きている人間は、生きているという幸福を知らずにいる。

2006年11月13日 (月)

せ○がやく き○からすやま

昨日、中庭に太った物体がウロウロしていました。
いつものネコと思い、その後姿に声をかけました。

「久しぶりだねぇ。最近見なかったじゃん。どこ行ってたの? ちょっと太ったんじゃない。あれ!! ちょっと顔変わった? タヌキみたいだよ!!」

それを聞いていた坊守が、ウロウロしているものを見て、

「ちょっと、タヌキ“みたい”じゃなくて、タヌキよ!!」

「えっ Σ( ̄ロ ̄lll)」

正面からお顔を拝見したら、確かにタヌキさんでした。なんでこんなところにタヌキが。毛が抜けて肌が見えていて、かわいそうでした。こういう場合、どうしたらいいんでしょう?
  
Pict0369 

ご法事で寺に来ていた門徒さんもタヌキの存在に気付き「飼ってるんですか?」
「いえ、飼ってません」

Pict0371
 
よそのお寺さんに「タヌキがいたんですよ」と話したら、「兄の嫁さんもタヌキを見たって言ってたよ」とのこと。
烏山寺町界隈を縄張りにしているのかなぁ。
 
Pict0372

今日は姿が見えません。
どこから来たんだろう。どこに居るんだろう。どこに行くんだろう。
無事だといいなぁ(体つきからいって、お腹が空いているということはなさそうだけど。都内では食べ物に困るということはないのかもしれませんね)。

2006年11月12日 (日)

昨日の文章(「成功」)を読まれた方から教えていただきました。
以前テレビで放送していたそうなのですが、急成長した掃除会社社長の話です。
  
掃除をしていれば、物を壊してしまうことがあります。
そうしたら、社長が真っ先に駆けつけて依頼主に謝るのです。「申し訳ありません」。
そして、壊した物と同じ物を、日本中探し回ってでも見つけるのだそうです。
当然のことのようだけど、それが難しい。

で、ミスをした従業員に対して社長はこう言うのです。
「物を動かして、ちゃんと掃除をしてくれたんだね。ご苦労さま」って。
「なにやってんだ」「気をつけなきゃダメじゃないか」「弁償だからな」なんて言わない、言わない。
ミスした際に、真っ先に防波堤になってくれる。そんな社長さんだから、従業員もミスをした時に正直に報告してくれるのだそうです。そうすると、現場で何が起こったのか常に把握できるし、ミスがあった際の対応も迅速にできる。好循環です。
依頼主にペコペコ、従業員にガミガミでは言いたいことも言いたくありません(言えません)。
    
お客様のクレームこそ会社の宝です
その社長のおことばだそうです。
社長さん、従業員のことも自分の宝物のように思っているのだと思います。

2006年11月11日 (土)

成功

失敗は、誰にだってあること。
 どんなに一生懸命でも
 どんなに誠心誠意尽くしても 失敗することはある

失敗した後、どうするか。そこが大事。
 形だけ謝っているのか
 心底謝っているのか 相手には伝わる
  
 
「すみません」「ありがとう」「はい」…この ことば を言えるだけで、人生はガラッと変わる。

2006年11月10日 (金)

私に満ち満ちていること

要するに人ごとじゃないんだっていいたい。幼児虐待だって、いじめだって、あなたやあなたの子供がやるかもしれない。人ごとと思ってるから何も解決しないんだ。              
                     馳 星周 (11月8日読売新聞夕刊より)

なぜに人ごとなのか、犯人探しなのか、責任の押し付けなのか。
幼児虐待・いじめ、履修科目の未履修・飲酒運転・組織ぐるみの裏金作り…
あたかも最近の出来事で、ポッと出てきた問題・事件のように取り上げられる。マスコミがまとめて取り上げるから、「最近同じような事件が続きますねぇ」という、会話の枕詞になる。
でも、はるか昔から続いてきたこと。「ばれなければいい」「自分さえよければいい」「みんながやっている」そんな気持ちが溢れ出たもの。誰の意識下にも脈々と流れている。

虐待・いじめ・不正・疑惑をなくそうとするけれど、なくなることはないだろう。
虐待・いじめ・不正・疑惑は起こり得る。人の数だけ起こり得る。今もどこかで起きている。
絶望的なことを言っているように聞こえるでしょうか? でも、なくなる前提で考えるのではなく、起こり続ける前提で考えるべきこと。

なくなったと思っても、見えていないだけ。
人が起こすことではない、私だって起こし得る。

なくなることが「解決」ではない。
人ごとじゃないんだって、誰もが思うことが「解決」なんだと思う。

人ごとじゃないんだ。
何かをやらかしてしまう衝動は、私に満ち満ちていることなんだから。

2006年11月 9日 (木)

私に欠けていること

コミュニケーションをとることが大事だって言うけれど、
コミュニケーションをとって、分かり合うことが大切なのではない。
だって、究極的には分かり合えないもの。
   
    
「話してくれなければ分からない」と言うけれど、話し合っても分からないことは分からない。
「言わなくても通じている」と言うけれど、大切なことって ことばに出さないと伝わらない。
「話してくれなければ分からない」も「言わなくても通じている」も、自分がそう思っているだけ。
「話してくれなければ分からない」と言うとき、「話してくれたからには理解しよう」という想いが込められているだろうか。
「言わなくても通じている」と言うとき、「相手は何もことばに出さないけれど、今何を想っているだろうか」という心遣いをしているだろうか。 
「自分がそう思っているだけ」では、コミュニケーションはとれない。たとえ会話を重ね、食事を共にし、そばにいたとしても。
       
      
「話しても分かってもらえない」と言うけれど、話さないことには始まらない。
「言わなくても、分かってくれているよね」と言うけれど、言ってくれなきゃ伝わらない。
「話しても分かってもらえない」も「言わなくても、分かってくれているよね」も、そう言って逃げてないだろうか。
「話しても分かってもらえない」って決め付けないで。理解しようとしてくれる人は必ずいるから。
「言わなくても、分かってくれているよね」って押し付けないで。どんなに気にかけてくれている人でも、すべてを分かることなんてできないのだから。その人自身、自分のことでいっぱいっぱいかもしれないのだから。
「逃げて」ばかりいては、コミュニケーションはとれない。たとえ付き合いの深い人であっても、伝えよう伝えたいという想いが私になければ、相手には伝わらない。
    
    
コミュニケーションをとることが大事だって言うけれど、
コミュニケーションをとって、分かり合うことが大切なのではない。
 受け取ろう受け取ろうとすること。
  相手が何を想い、何を考え、何を伝えようとしているのか。
 伝えよう伝えようとすること。
  私が何を想い、何もを考え、何を分かって欲しいのか。
想いを受け取ろう、想いを伝えよう、そう想い続けることがコミュニケーション

2006年11月 8日 (水)

バランス

親・先生・上司・知事・政治家などなど、上に立つ人の意見・支持・考えは絶対だった。逆らえないものだった。
そのことが持つ恐ろしさはある。
そのことがいいことだとは言い切れない。
しかし、上に立つ者の意見が絶対ということは、上に立つ者は自分の発言・考え・行動に責任を持つということになる。

今、人が上に立つことが許されない。
肩書き上、上に立つ人はいるけれど、その人の発言は絶対視されない。
人は皆平等だから?
同じ地平に立って、みなが責任を持とうというのならまだしも、責任の分散化・曖昧化・押し付け合い。
結果、上に立つ人間に、上に立つだけの責任感が湧かなくしているから、意見も考えも行動も曖昧化。
何かあったときだけ、あなた先生でしょ、親でしょ、上司でしょ。
 
普段から敬い奉らないでいて、行動に責任感が伴うわけがない。
「敬い奉る」…恐ろしい表現ですね。今まで、敬い奉られる立場にあった人々が、その立場にふんぞり返っていたから、今日の状況・状態になったのですが。
 
敬い奉る方は、心底頼りにしている。信じている。だから、手伝う。後からついていく。
敬い奉られる方は、その想いに応えるべく行動する。どうすれば最善かを常に考える。プロデュースする。
   
自分の上に人が立つことを許さない。今風に言えば「平等」。
「平等」はバランスが取れているようだけど、今の「平等」は、天秤の真ん中部分にみんなが集まったようなもの。バランスがとれているとかいないとか言う以前の問題。
上に立つ人間とその他の人間、双方が天秤の両方のお皿に乗っていて、それでいてバランスが取れてこそ「平等」。
上に立つ人間の驕りで重たくなってもいけない。下にいる人間の数の多さで重たくなってもいけない。
上に立つ人間は、数は少ないけれど、大きな責任感・行動力・思いやりを持つ。片方の天秤のお皿に乗っている、人々の期待に応えるだけの。
その他の人間は、力は弱いけれど、信じる・任せる・ついていく信念を持つ。片方の天秤のお皿に乗っている、上に立つ人間が命がけで物事を為そうという力が出るほどの。

そのバランスが、今、大きく崩れている。
  
でも、天秤のバランスが取れている唯一の関係が阿弥陀さまと十方衆生。

2006年11月 7日 (火)

知事

「知事」というと、現在では都道府県の行政の長の名称として使われています。「東京都知事」とか、「和歌山県知事」「福島県知事」など(今、いろいろとお騒がせ)。

本来は、寺院の庶務をつかさどる役職を「知事」と言います。

中国で唐代中ごろに以後に禅宗が発達すると、寺院の事務を担う人が必要となり(組織が大きくなると、自身の修行だけしていればいいというわけにはいかないのですね)、「知事」という役職が置かれました。
事務担当の都寺(つうす)・監(かんす)・副寺(ふうす)、綱紀粛正を担う維那(いな)、食事を管理する典座(てんぞ)、建物の修理担当の直歳(しつすい)。
このような知事制度が日本の禅宗寺院にも伝えられます。
その後、中国では宋代に、日本では明治維新の際に、地方の行政の長を「知事」と呼ぶようになりました。
 
「知事」という言葉の出どころは『大宝積経(だいほうしゃっきょう)』という経典にあります。
「知事」とは、寺の中における事務(寺務)を処理し、寺の什物を守ることを役目とするとともに、「善く是の如き諸人の心相(しんそう)をとるべし」と述べられています。

「善く是の如き諸人の心相をとるべし」
寺にいて学問すること、山で修行すること、村里で乞食(こつじき)すること、説法すること…僧侶にもいろいろとすることがあります。多くの僧侶が寺院にいる中で、それぞれの心相(心の状態)を理解し、それぞれの心相に合った役割を与えることが「知事」の仕事なのです。
今風に言えばプロデューサー。
  
都道府県民それぞれの心相を理解することはさすがに出来ませんが、民衆が生き生きと生活できる環境を整える。そのような願いが「知事」という言葉には込められているのです。
仲間内の懐具合という心相のみを気をかけるんじゃなくてね。

2006年11月 5日 (日)

西蓮寺報恩講

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2006年11月5日(日) 西蓮寺報恩講をお勤めいたしました。

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午前11時過ぎ。報恩講の盛り上がりの前の静けさ

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坊守が生けたお花たち   
   
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いただいた手作りの作品。本堂の渡り廊下に展示させていただきました。
左のケーキは長石 都様 右のワンちゃんは山口 和枝様の作品
ありがとうございます。
「(ケーキ)美味しそう!」「かわいい!!」「欲しい!!!」
みなさん、楽しそうにご覧になってました。
私は不器用なので、このような作品を作れる方をうらやましく思います。
ちなみに、ワンちゃんは何の布で出来てるか分かりますか? 一目見て分かった方は、かなりの本願寺ファン!!
そう、本山の瓦懇志のお礼の風呂敷です。ちゃんと模様の向きを考えて作られています。
  
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本堂。参詣のご門徒を待つイス。今年は70名のご門徒がお集まりくださいました。

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12時よりお斎(おとき=お食事)。只今支度中です。しばらくお待ちください。
かわいい看板があったので、100円ショップで買ってきました。500円しましたが。

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西蓮寺蓮心会館にてお斎。イス席もあります。
数年前まで、寺で煮物を作って、銘々にお膳に盛ってお斎を出していましたが、人手不足の折、お弁当に切り替えさせていただきました。
秋をイメージしたお弁当を用意いたしました。写真を撮っておけばよかったですね。食べてから気付きました。
お弁当に切り替えた年、お膳のお斎を楽しみにしていた方からは「残念ですね」の声も聞こえました。でも、片付けの手間が省けたため、午後のご法話を坊守も一緒に聞けるようになりました。
一緒に聴聞する。当たり前のようで、有り難いことです。
  
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午後1時 住職の挨拶。
引き続き 海 法龍先生のご法話・報恩講法要と続きます。
法話・法要中は写真を撮りませんでしたので、写真はここまで。
来年はぜひご参詣ください。

2006年11月 4日 (土)

一期一会

この人に出会えたから、今のこのような自分になったと思える人の一人です
俳優の水谷豊さんが、松田優作さんのことをそのように語っていました。(テレビ朝日「スマステ-6」より。聞き覚えなので、正確なことばではありません)。
     
いろいろな人との出会いを通して、今の私がいる。
そういう意味では、今まで出会った人・事柄・耳や目にしてきた情報など、一切のものが今の私を形成しているわけだけど、「この人と出会えたから」とハッキリ口に出来る人ってどれだけいるかな。
あなたにとっては誰ですか?  
「この人と出会えたから」と言える人というと、親・先生・先輩など、目上の人が浮かぶ人が多いのではないだろうか。
水谷さんは、目を輝かせながら、松田優作との出会いがあったから、今の自分がいると語っていました(「相棒」の右京さんより「熱中時代」の北野先生のような感じでって言っても伝わらないか^^;)。そんな姿を見て、うらやましく思いました。
友人とか同期の人間に対して、「こいつと出会えたから」って言えるって、よほどの影響を受けたんだろうなって思いました。
ましてや、子供・教え子・後輩のことを「こいつに出会えたから」って言えるだろうか。
(余談…学生時代の恩師が、私のことを「大事な友だちです」と言ってくださったときは、衝撃と共に感動を受けました。「あぁ、そういうふうに思っていてくださったんだ」って。長いことご無沙汰してしまい、申し訳ありません)
         
      
でね、「こいつに出会えたから」って言える出会いがある人はいいなぁって話ではなくてですね、
誰にでもそういう出会いはあると思うんですよ。ただ、そういう出会いをしていることに気付いてないことって多いのではないでしょうか。そう思うのです。
しかも、良い出会いに限らず、悪い出会いも“今の私”を作るきっかけになっているのです。
その悪い出会いによって卑屈になったと言う人もいるかもしれないけれど、悪い出会いのおかげで良い方に向くということだって有る。
文章の流れで「良い・悪い」と書きましたが、そういう意味では「良い」も「悪い」もないのです。出会いは、出会いなのです。私を、私成り立たしめてくれる大切な出会いなのです。
 
松田優作さんの出演作を見たくなってしまいました。

2006年11月 3日 (金)

広さと深さ

今日、存明寺さんの報恩講に出仕させていただきました。

ご法話の先生は加賀田栄香さん。
存明寺さんでは、お話にいらした先生に色紙とノートに一筆書いていただきます。
報恩講出仕の僧侶控え室の壁に、さっそく色紙が飾ってありました。
  
 高さと強さを競いあって生きているがゆえに
 もっと深くて広い世界を願わずにはおられない

  
本日自坊で用事があり、残念ながら報恩講のご法話を直接お聞きすることは出来なかったのですが、色紙のことばから、お話のエッセンスが溢れ出していたような気がします。

高さと強さを求めることが幸せにつながると信じてきたけれど、その方向性に誰もが疑問を持ち始めている。深さと広さを求めて生きていく道があるのではないだろうか。
けれど、高さと強さを求める道から外れることも、引き返すことも出来ないでいる私。
もっと深くて、もっと広い世界を模索しているけれど、私が求める深さや広さは高が知れている。
もっと深い、もっと広い世界があるんだよと、どうかその世界に生きて欲しいと、「願わずにはおられない」のは阿弥陀如来。
そう願われて生きているのが私。
   
 人生は
 聴聞を続けることで広く深くなる

       (法語カレンダー 11月のことばより)
   
  
仏法聴聞してないのに、想いつくまま書いて申し訳ありません。

2006年11月 2日 (木)

仏像

昨日、上野の東京国立博物館へ「仏像 一木にこめられた祈り」を見に行きました(こちら)。
仏像に囲まれ、穏やかな時間を過ごしてきました。

ひとつひとつの仏像を丁寧に拝見し、「あぁ、この仏像を彫った仏師には、仏さんが見えてるんだろうなぁ」って感じました。
奈良平安時代に彫られた仏像が、1200~1300年の時を経て、今私の前に現われてくださっている。仏像を彫らしめた仏の願い、仏像を彫った仏師の祈り、仏像を拝んできた人々の想いが伝わってきました。

11月5日までの限定展示「菩薩半跏像(伝如意輪観音)」
特に時間をかけて見て来ました。いや、その美しさに見とれてしまい、そこから動くことが出来ませんでした。特に背中の美しさに魅せられてしまいました。見に行ってよかったぁ。
11月7日から最終日の12月3日までは「十一面観音菩薩立像」が展示されます。こちらにもお会いしたいのですが、行ける時間が取れそうもなくて(TT) でも、時間や機会はつくるもの。会いに行きたいと思います。
   
ダリ展やベルギー王立美術館展や大エルミタージュ展にも心惹かれますが、ぜひ「仏像」展にもお出かけください。
そういえば昨日、来館者が10万人目に達したそうですね。記念品は「菩薩半跏像(伝如意輪観音)」の写真の額。いいなぁ^^

2006年11月 1日 (水)

2006年11月のことば

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      他力と言うは 如来の本願力なり
                       親鸞聖人

人生、楽あれば苦もある。うれしいことがあれば、つらいことだってある。たとえその比が半々だったとしても、私のこころを占めるのは、苦しくつらいことばかり。
なぜこのようにつらい人生を生きねばならないのか。なぜこの世に生まれてきたのか。
その問いの答を探そうと、目先の誘惑に心奪われ、甘い香りのする方へ一歩を踏み出してしまう。そしてますます哀しみに引き込まれていく。「なぜ」の答を求め、途方に暮れてしまう。答を求めているようで、問いからの逃避をしているから。

なぜこのようにつらい人生を生きねばならないのか。なぜこの世に生まれてきたのか。
健康のこと、お金のこと、人間関係のこと。いろいろ問題を抱えながら生きている。悩み苦しみ不安になる。しかし、その悩み苦しみ不安がありながらも、「何か」のために、生きている。その「何か」とは何ですか?
家族・友人・仲間・仕事・地位・名誉…。人それぞれあることでしょう。それらのことを想い、苦しみに耐える。しかし、それらは想い続けるには、あまりにも儚い。人との絆はもろく、生きていることをもって人間として見ている私の目には、死に別れてしまってからの落胆は大きなものとなる。あるいは、あっさりと見限ってしまう。地位や名誉も、果たして本当に想うべきものなのか。
こんにち、心の底から想うべきものがないのではないか。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏と念仏申す道を示してくださいました。阿弥陀如来を想い、南無阿弥陀仏と念仏申す。
それも儚いものではないのですか?
家族・友人・仲間・仕事・地位・名誉を想うといっても、それは、私の想いでしかない。私の想いほど儚いものはない。しかし、阿弥陀如来を想うということは、私が想うのではなく、阿弥陀如来から私が想われているということなのです。

悩み苦しみはつらいことだけど、それをつらいことにしてしまっているのは、実はあなた自身なのではありませんか? 周りの目は気にしなくていいのです。周りと比較する必要もないのです。周りを気にするがゆえに、自分で自分を苦しめていませんか? どうか自分で自分を苦しめないでください。この身このままで生きていく道があるのですよ。 そのことにどうか気付いてください。

そのように、阿弥陀如来は衆生の、ひとつひとつのいのちを想っています。その想いを「他力」と言い、「如来の本願力」と言います。
「なぜ」という問いを持ち続けることは大事なこと。「なぜ」という問いを持ち続けるということと「生きる」ということは同義だと思います。その「なぜ」に応えてくれるはたらきがあります。阿弥陀如来の想いです。「なぜ」という問いを失くしたとき、阿弥陀如来の想いも感じられなくなってしまいます。悩み苦しみ不安がありながらも思い続けてきた、生きるための「何か」も失ってしまいます。

 不安はわたしのいのちやもん
 不安がとれたら生きようがないわ

                  (法語より)

悩み苦しみがあるから、不安を生きるから阿弥陀如来の呼び声が聞こえてくる。「南無阿弥陀仏」と念仏称えることが出来るのは、阿弥陀仏の呼び声が聞こえてきたから。
頼りとするものとしての他力ではない。 すでに他力を頼りとして生きているのです。
だからこそ、「なぜこのようにつらい人生を生きねばならないのか」と問わずにおれない人生だけれど、今生きることができるのだと感じています。

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