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2006年11月 1日 (水)

2006年11月のことば

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      他力と言うは 如来の本願力なり
                       親鸞聖人

人生、楽あれば苦もある。うれしいことがあれば、つらいことだってある。たとえその比が半々だったとしても、私のこころを占めるのは、苦しくつらいことばかり。
なぜこのようにつらい人生を生きねばならないのか。なぜこの世に生まれてきたのか。
その問いの答を探そうと、目先の誘惑に心奪われ、甘い香りのする方へ一歩を踏み出してしまう。そしてますます哀しみに引き込まれていく。「なぜ」の答を求め、途方に暮れてしまう。答を求めているようで、問いからの逃避をしているから。

なぜこのようにつらい人生を生きねばならないのか。なぜこの世に生まれてきたのか。
健康のこと、お金のこと、人間関係のこと。いろいろ問題を抱えながら生きている。悩み苦しみ不安になる。しかし、その悩み苦しみ不安がありながらも、「何か」のために、生きている。その「何か」とは何ですか?
家族・友人・仲間・仕事・地位・名誉…。人それぞれあることでしょう。それらのことを想い、苦しみに耐える。しかし、それらは想い続けるには、あまりにも儚い。人との絆はもろく、生きていることをもって人間として見ている私の目には、死に別れてしまってからの落胆は大きなものとなる。あるいは、あっさりと見限ってしまう。地位や名誉も、果たして本当に想うべきものなのか。
こんにち、心の底から想うべきものがないのではないか。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏と念仏申す道を示してくださいました。阿弥陀如来を想い、南無阿弥陀仏と念仏申す。
それも儚いものではないのですか?
家族・友人・仲間・仕事・地位・名誉を想うといっても、それは、私の想いでしかない。私の想いほど儚いものはない。しかし、阿弥陀如来を想うということは、私が想うのではなく、阿弥陀如来から私が想われているということなのです。

悩み苦しみはつらいことだけど、それをつらいことにしてしまっているのは、実はあなた自身なのではありませんか? 周りの目は気にしなくていいのです。周りと比較する必要もないのです。周りを気にするがゆえに、自分で自分を苦しめていませんか? どうか自分で自分を苦しめないでください。この身このままで生きていく道があるのですよ。 そのことにどうか気付いてください。

そのように、阿弥陀如来は衆生の、ひとつひとつのいのちを想っています。その想いを「他力」と言い、「如来の本願力」と言います。
「なぜ」という問いを持ち続けることは大事なこと。「なぜ」という問いを持ち続けるということと「生きる」ということは同義だと思います。その「なぜ」に応えてくれるはたらきがあります。阿弥陀如来の想いです。「なぜ」という問いを失くしたとき、阿弥陀如来の想いも感じられなくなってしまいます。悩み苦しみ不安がありながらも思い続けてきた、生きるための「何か」も失ってしまいます。

 不安はわたしのいのちやもん
 不安がとれたら生きようがないわ

                  (法語より)

悩み苦しみがあるから、不安を生きるから阿弥陀如来の呼び声が聞こえてくる。「南無阿弥陀仏」と念仏称えることが出来るのは、阿弥陀仏の呼び声が聞こえてきたから。
頼りとするものとしての他力ではない。 すでに他力を頼りとして生きているのです。
だからこそ、「なぜこのようにつらい人生を生きねばならないのか」と問わずにおれない人生だけれど、今生きることができるのだと感じています。

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