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2006年10月18日 (水)

軽いほど重い

最近お経の声が思うように出ないのです。ノドで声を出している。で、そのノドが詰まっている感じ。肉体的に声が出ていないという面もありますが、自分の気持ちの中で声が出ていない。そんな感じ。

困ったときに、自分がしてきたことを振り返る。
京都で声明(お経)の稽古をつけてもらっていた頃のノートをパラパラ。
で、目に留まった先生のことば。
軽いほど難しいんです

「正信偈(しょうしんげ)」という浄土真宗の日常のお勤めがあります。普段は「草四句目下(そうしくめさげ)」というテンポ・節でお勤めします。でも、儀式の内容や、末寺でお勤めするのか本山でお勤めするのかによって、同じ「正信偈」でも軽いのから重いのまでいくつも種類があるのです。
先生のことばは、軽い「正信偈」を習っているときのことば。テンポが速く、ほとんど抑揚がない「正信偈」。サラッと読んでしまいそうだけど、実はなかなか難しい。大勢で読んでいて、ちょっとつっかえたり間違ったりしたら、もう取り残されてしまう。
  
軽いほど簡単かといえば、そうではない。
簡単・難しいというよりも、私の意識の問題なんでしょうね。軽い・簡単と意識してしまうと、つい手を抜いてしまう。気を抜いてしまう。
気を抜いていいお勤めはないけれど、軽いほど気を引き締めていないと失敗したときに取り返しがつかなくなる。
   
   
前の文章で、「簡略化・簡素化は本来の意味を見失う」ということを書きました。そんなこともあって「軽いほど難しいんです」ということばが目に飛び込んできたんだと思います。
物事の簡略化・簡素化はそうなる必要があってのことでしょうから、仕方がないのです。でも、注意しなければいけないことは、簡略化・簡素化=簡単化ではないということです。どんなに簡略化・簡素化しても、必要なことだから、大事なことだから、大切なことだからものごとを為すのでしょう。手や気を抜いたり、チャッチャッと済ませてしまいましょうなんて気持ちを持ってはいけないと思うのです。真剣に、一生懸命に、向き合いたいものです。
   
声明のことから、ずいぶん外れましたね。
でも、私に「軽いほど難しい」ことに気付かせようとする力がはたらいたのだと思います。
ということは、声明を軽んじていた私がいたのです。それではお経の声も出るはずがありませんね。

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