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2006年10月21日 (土)

発想の飛躍というけれど

昨日、「発想の飛躍」という表現を使いました。面白い表現だなぁって感じています。

このことばが気にかかるようになったのは、今年の8月のこと。あるお寺にご法話を聞きに行き、ご住職がご門徒に感想を求めました。ある門徒さんが「先生のお話には発想の飛躍があります。そこの部分を詳しくお聞かせください」と言われました。
その時に「発想の飛躍」ということばが脳裏にインプットされました。

で、また別のお寺にご法話を聞きに行ったときのこと。そのときもある門徒さん(先の方とは違う方です)が、「先生のお考えには発想の飛躍があり、受け入れることができません」って。
「詳しく聞きたい」から「受け入れられない」に移ったぞ!! なんて内心ドキドキしながら聞いていました(傍観者ですね)。
「発想の飛躍」ということばが、私の中でキーワードとなってきました。

で、次。「発想の飛躍」は、私が法話をしたときにやってきました。
「こういうお話をされましたけど、発想の飛躍です。詳しく教えてください」(今回の「発想の飛躍」は「詳しく聞きたい」でした^^;)

そこで自分の想いを語り、語り語りしているうちに「あぁ!!」と言ってもらえました(「あ~ぁ><」ではないと思う)。
共感があったようです。
   
感想として、「発想の飛躍」があると感じるのは有り得ることだと思います。でも、「発想の飛躍」って、話している方はそういうつもりはないんですよね。聞いている方が感じることです。
仏教書や仏教辞典に書いてあることを そのまましゃべれば、発想が飛躍する部分なんてないと思うんです。でも、そんなお話を聞くなら、本を読み聞かせてもらっているのと同じですよね。
「発想の飛躍」を感じる話をされたということは、その話し手にとっては、自分の中で様々な、いろいろな、深遠な思考がはたらいているのです。そうしてたどり着いた想いを語っている。
だから、話し手にとっては筋が通っていることなんです。聞き手にとっては「発想の飛躍」を感じるかもしれませんが。

話し手には、分かりやすく話す責任があるのかもしれませんが、聞き手に「あれはどういうことなんだろう?」と考えていただくことも法話の醍醐味だと思うのです。
聞き手も、「聞法(ご法話を聞くこと)」とは 答を求めるのではなく、問いを求めることだということを知っていて欲しいのです。

「この先生はいいこと言う」なんて感想で良しとしているなら、「同感」はあっても「共感」はないでしょう。
「この先生の言うことは発想の飛躍があるなぁ」って思えたなら、「同感」はないでしょうが「共感」があるかもしれない。

「発想の飛躍」を感じた空白部分に、阿弥陀様がいるのですよ。
「発想の飛躍」を感じる話をした人は、自分の思考の中で阿弥陀様に出遇っているのだと思います。

そんなことを思うのです。
って、自己弁護・自己肯定みたいですね。そんなつもりはないのですが^^;

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