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2006年10月15日 (日)

ようこそお集まりくださいました

ご法事に64名の方がお参りにみえました。
64人…西蓮寺の報恩講の参詣よりも多いかもしれません。
法事を勤めますと声をかけて、64人も集まってくださる。亡き人の人柄が偲ばれます。

最近、通夜葬儀やご法事をご家族だけで勤められる方が増えています。勤めるだけいいのかもしれません。仏事そのものをしない方も増えていますから。
仏事をしないことを問おうというのではありません。昨日、64人の方が集まられてご法事を勤めているときに、なんて表現していいのか、私自身感動していたのです。
仏事に限らず、人生の節目の儀式って、大規模にやってきた歴史があると思うのです。それが最近では、人間関係の複雑化(嫌いな人に会いたくないとか)・家族構成の変化(親戚付き合いがないとか)・金銭的問題(お金はかけたくないですものね)などのため、小規模化し、或いは、儀式そのものをやらなくなってきています。

「なぜ法事をしなければいけないの?」「法事にどんな意味があるの?」「法事、しなきゃいけないの?」と問われることがあります。
その問いは、法事(仏事)の意味を知ったうえで勤めたいという前向きなものではなくて、「やらなくていいよね」という思いが前提にあっての仮面をかぶった問いのように聞こえます(問うているようで、自分の中にシッカリと答がある)。

なぜそのような問いが出るのでしょう?
理由としては、確かに人間関係の複雑化・家族構成の変化・金銭的問題等が挙げられると思います。
でも、儀式の小規模化によって、それならやらなくてもいいやって方向に流れているのではないかと感じたのです。昨日、法事を勤めながら。

物事の簡略化・簡素化は、自然の流れなのだと思う。でも、簡略化・簡素化が進んでしまうと、やってもやらなくても同じになってしまう。意味そのものが見えなくなってしまう。
儀式の規模の大小を問題にしているのではなく、儀式をやる意味を自身が問いながら勤めることが大事なんだなぁって思いました。

集まった人の顔を見たら、「やってよかった」って思うんじゃないかな。

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