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2006年10月 1日 (日)

2006年10月のことば

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  どんなに孤独なときも ひとりではないのです
  
私が歩んでいる道は、誰かが歩いた道。
私が歩んだ道は、誰かが歩く道。
先に誰もいなくても、振り返っても誰もいなくても、私はひとりではない。
私に先立って道を示してくださった方がいる。だから道が道として私の前に開かれる。私が歩んだその道が、後の人が歩む道となる。

「白道(びゃくどう)」
西に向かって歩む旅人の前に、大きな河が立ちふさがります。河の南側は火が燃え盛り、河の北側は水がうねりを上げて荒れています。よく見ると、河に一筋の白道が西の岸まで のびています。幅はわずか四五寸ばかり。火と水の勢いは激しく、とても白道を渡れそうもありません。そんな旅人に、盗賊や獣が襲いかかろうとしています。
旅人は西に体を向け、「引き返しても盗賊や獣に殺されてしまう。ここにとどまっても死んでしまう。水火の河を渡っても死んでしまうだろう。いづれにしても死を逃れられないのならば、私は西に向かって、この白道を歩む」と決心します。
その瞬間、東の岸より勧める声がします。
 「仁者(きみ)、決心してこの道を渡りなさい」
また、西の岸より喚(よ)ぶ声がします。
 「汝(なんじ)、決心してこちらへ参りなさい」
旅人は決心して歩き出します。その姿を見て、盗賊は呼び止めます。「この道は危険だ。帰ってきなさい」と。
盗賊が引き止める声に振り返ることなく、旅人は白道を渡り、西の岸にたどり着きます。旅人は、自分を導くよき師よき友に出遇い、空しくない人生を送りました。

「東の岸」は、私たちが住む現実娑婆世界。「西の岸」は浄土の譬え。
「水の河」は、貪り(むさぼり)のこころ。「火の河」は、瞋り(いかり)憎しみのこころ。煩悩を持つこの私の姿です。「白道」は、そんな私のこころに生じた「すくわれたい」という願い。
東の岸で「渡りなさい」と勧めるのはお釈迦さま。西の岸で「来なさい」と喚ぶのは阿弥陀如来。「引き返せ」と叫ぶ盗賊の声は、私を惑わす甘い誘い。
「旅人」は私自身。勧め、喚ぶ声・願いが、この私にかけられています。
旅人は孤独な旅を続けています。けれど、ひとりではないのです。私が気付こうが気付くまいが、既に常にお釈迦さま、阿弥陀如来の声がかけられている。
誰の目の前にも、白道が開かれています。お釈迦さまの勧める声と、阿弥陀さまの喚ぶ声が聞こえてきませんか?

「骨道(こつどう)」
私は今、砂漠を歩んでいます。獣さえも通らない、目印となるものが何もない灼熱の砂漠を。足元を見ると骨が無数に転がっています。それは、私に先立って生きていかれた方々の骨です。この道を「骨道」といいます。
私に先立って、教えを求めて生きられた方の姿がここにはあります。教えを求め、教えに出遇い、楽な道を知って平穏に歩めるのではありません。この灼熱の砂漠を、一歩一歩踏みしめながら歩くほかに道はない。そこにこころ落ち着いた、教えを求め、出遇った人の姿です。
私が歩んでいる道は、私だけが苦労して歩む道ではない。私に先立って、苦労された方の歴史がある。私も、その歴史の一骨となり、後から来る人の導きとなる。

私は今、砂漠を歩んでいます。獣さえも通らない道だけれど、孤独だけれど、でも、ひとりではないのです。
  
  
「白道」も「骨道」も、きれいに舗装された道ではない。平坦で安全で安心で楽な道ではないけれど、だからこそ一歩一歩を大事に歩む。だからこそ支えとなってくれるはたらきがこの私に届いている。

どんなに孤独なときも ひとりではありません。

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コメント

☆やすさん イモーとさん こんにちは
10月のことば&このコメント、お読みいただいているでしょうか?

「どんなに孤独なときも ひとりではないのです」
このことばは9月早々にほぼ決めていたのですが、文章が書けなくて…。
9月30日、一応書き終えたのですが納得できませんでした。
そこでブログのコメントチェックをしたら、おふたりから「二河白道の譬」と「骨道」の教えを頂戴いたしました。
書き終えてたのは削除して、また書き直しました。

おふたりが「道(旅路)」でコメントしてくださったおかげで、10月の文章が出来ました。
10月の文章は3人の合作です^^
ありがとうございます(-人-) 

いえいえ。私の場合は合作に加わったなどとは言えないでしょう。わずかな縁とさせていただいたのかも知れませんが。

安田理深先生に「人は信心を得ると孤独になる」という言葉がありました。それは「独立者になる」という意味だともありました。

かつ様
「今月のことば」には、いつもとても心をくだいていらっしゃるのですね。
昨日最終回でしたが、NHKの「純情きらり」は見ていらっしゃいましたでしょうか。頑張れば最後は報われるという話はよくありますが、この主人公はとても報われたとは言えない悲しい運命でした。でも、「無念の死」に終わらせることなく自分の人生に満足して逝った姿、そしてそれが周りの人の道しるべになったことにとても感動しました。

かつさん、こんばんは。(「こんにちは」でしょうか!?)

先日は私のブログの方にもコメントをくださり嬉しかったです、ありがとうございます☆(^o^)

私は明日から勤務先が変わり、不安と緊張もありますが、かつさんのお言葉にまたしても!救われました。「自分はひとりではない、これから道を作っていく者の一人として歩まなくては…!」という気が起きました。

私が小学生の頃、転校するときにバレーボール少年団のみんなからサインボールをもらったのですが、(小中高とバレー部でした)そこに恩師から「道」という一文字を頂きました。以来、この言葉が持つエネルギーの大きさを感じていたのですが、こんな風に「自分が歩んでいる道は、誰かが歩いている道」と考えたことはありませんでした。
いつも「私が道をつくるんだー!」「誰も歩んだことのない私だけの道だー!」みたいな感じで捉えていたように思います。

自分の道を歩むためにも、自分より前を歩いている人にも眼を向けるべきなんですね。

☆やすさん こんにちは
人生「わずかな縁」の重なりですね。有り難く感じます。

「人は信心を得ると孤独になる」
削除した文章を書いてるときに、
「本当に孤独な人間は、孤独ではないのです」
という ことば が浮かんできました。
安田先生が言われていることと同じ(つもり)です。
「孤独になる」「孤独ではない」反する ことば だけど、意味は同じ。
ことばって難しいですね^^

☆イモーとさん こんにちは
「純情きらり」…私は見てなかったのですが、母が終わりが近づくにつれて熱心に見入ってました。
なにか感じるところがあったのだと思います。

「自分の人生に満足して逝」く、そうありたく思います。
そのためには、“今”から逃げてはいけないのですね。

☆ペコポコさん こんにちは
応援しているチームが勝つと、うれしいものですね^^

私は「自分は自分の道を行く」的人間でした(です、かな?)。
でも、先に歩いてくださる人がいるんですよね。
「自分の道を歩むためにも、自分より前を歩いている人にも眼を向けるべきなんですね」
そういう人がいる(いた、ではなくて)、ということですね。

「道」
素敵な ことば をいただきましたね。
私もおすそ分けをいただいた気がします。
ありがとうございます。


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