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2006年9月 3日 (日)

間(ま)がもたらす余裕

昨日東京は、歩いていると汗ばむ陽気ではありましたが、爽やかで心地よい気候でした。
練馬の真宗会館に法話を聞きに行ったあと、近くの光が丘公園に足を延ばしました。
とても広い公園で、爽やかな気候の中、ブラブラ歩いていました。

犬の散歩をするご婦人・ジョギングをするおじさん・キャッチボールをするカップル・野球をする家族・サッカーをする家族・スケートボートをする若者・ジャグリングの練習をする中学生・トランペットの練習をする女子大生・虫取りに夢中のお父さんと傍観する子ども・ゴムで手作りの飛行機を飛ばすおじいさんetc etc

いろいろな人が思い思いのことをして過ごしていました。
公園に足を踏み入れてから「なんかいいなぁ」という感覚がありました。広くて爽やかな気候だからかなぁって最初は思いました。
でも、園内を歩いていて気付いたのは、注意書きが少ないなってことでした。「あれをしちゃダメ」「これをしちゃダメ」っていう。
今、公園でキャッチボールや野球なんて出来ないじゃないですか。犬の散歩を禁じている公園もたくさんあります。楽器の練習なんてもってのほか。
でも、そういうことをしてはいけないという注意書きがない。かといって、みんな好き勝手やってるかというと、ちゃんと周りに気を遣っているいるように感じました。

キャッチボール・野球・サッカーをする人たちは、キチンと周りとの距離を保って、犬の散歩をする人はみんな糞の処理袋を持っていました。
まぁ、当たり前と言えば当たり前なんですけどね。
確かに、ゴミも捨ててあったし、自転車で猛スピードで走るような人もいました。犬の糞を始末しない人もいることでしょう。でも、公園にいる人の多くが、自分なりに決まりを作って、みんなで楽しめるようにしている気がしました。だから、公園に足を踏み入れたときに何かを感じたんだと思います。

今、注意書きやお願いが多いじゃないですか。公園・駅・電車の中・公共の場。「あれはダメ」「これはダメ」「電車は自分の部屋ではありません」とか。
注意書きが必要な社会になってしまったといってしまえば、確かにそうなのかもしれません。でも、注意書きやお願いの多い環境、どう思いますか? 息苦しくないですか? 恥ずかしくないですか? 他人がやってるのは許せないけど、自分はちょっとだけならって甘くなってませんか?

注意書きやお願いが貼ってあるから規律が守られるという面もある。注意もしやすい。
でも、あまり過剰になりすぎると、自分で良い悪いを判断する力がなくなってしまう。
例えば電車の優先席。自分が子どもの頃は「お年寄りと体の不自由な方にお譲りください」とだけ書いてあった気がする。今は「お年寄り・体の不自由な方・妊婦・小さなお子さん連れの方」など、譲る対象が増えた気がする。
譲るのは当然のこと。でも、以前は「お年寄りと体の不自由な方」とだけ書いてあっても、妊婦や小さい子連れのお母さんに席を譲っていた。自分で譲るべき人を判断して、譲ってたと思う。そういう想像力があった。
今は譲る対象を書きすぎるあまり、それ以外の人には席を譲らなくなってしまう。それどころか、譲る対象にすら席を譲らない。困っている人がいる・大変な人がいるという想像力・判断力が欠如してしまっているような気がする。

注意書きやお願いが貼ってないから好き放題する人もいるけれど、ないからこそ、どうしたらいいのか、どこまでならいいのか考える。自分で線引きをする。やらされてするわけではないから苦にならない。みんなが守るから、自分も守る。

思うんですけど、決まりごとを守らない人がたくさんいるように錯覚してしまうけど、守らない人って実は少ないのではないでしょうか。
たとえば、ゴミ捨て場ではないところにゴミを捨てていく人。たった一人だけのこと。それまで何十人・何百人と所定の場所にゴミを捨てていても、たった一人が公共の場にゴミを捨ててしまえば、じゃぁ私もとみんな捨てていく(いけないことをマネする人は多いですけどね)。
捨てられたほうは「なんで? 情けない。張り紙でもしとくか」となってしまう。悪循環。その結果が今の日本なのでしょう。

実際、注意書きがなくなってどうなるのか分かりません。今よりもっとひどいことになるかもしれません。でも、元々注意書きが無い社会だったんですから、そこに戻れないのですか? 一度「注意書き」だらけの世の中に慣れてしままうと、注意され続けないと自分で何も判断できないのですか?
  
  
なんて書きましたが、広~い空間が人間にもたらす余裕ってあるんだなぁって思いました。
公園、スッゴク広いんです。見渡す限りの原っぱ。邪魔なものがなにもない空。
こういう間が欠けてるなぁ、こういう空間が生活には必要なんだよなぁって思いました。
家の中を考えてみてもそうです。今の住宅事情では、廊下や縁側が狭かったり無かったりします。でも、廊下や縁側という空間が、人に余裕やゆとりをもたらしているそうなんです。でも、今そういう空間が無い。こころが閉じこもってしまうのも当然の成り行きなのかもしれません。
(「間取り」と言うけれど、空間をどう取るか、生かすかという意味があるのかもしれませんね)
気持ちが沈んだり、ワッと叫びたくなったら、広い空間のあるところに時間を作って行って、何時間でも身を置きましょう。きっと落ち着きますから。狭くなっていた思考が広がりますから。
(だから飛行場や本山の阿弥陀堂が好きだったのかな)

公園で2時間、ブラブラ歩きながら、時にはベンチに座りながら、空や木々を眺めていました。
贅沢な時間と空間でした(だから どっちにも“間”という字が入っているのかな)。

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コメント

「広い空間」私もよく行きます、
ちょうど近くに印旛沼があり、仕事の後帰宅してからとか、休みの日などは、よく自転車でひとっ走りに出かけています。
広い空間と景色を見ながら汗を流せることに、
贅沢だなーと思いながら、自分と会話しています。
 広い夜空の空間に揚がる花火、大好きなのですが今年の夏はまだ見てません、このまま夏が終わってしまいそうです、残念!

☆teruさん こんばんは
広い空間、そんなところにいると「自分と会話」してしまいますよね。
落ち込んでるときに「自分と会話」してみると、なんだ ちっちゃいことで悩んでんなぁって思えることがあります。

花火…今年は(も)見なかったなぁ。隅田川や多摩川の花火大会の音や振動は寺まで伝わってくるんですけどね。視覚以外で花火を楽しんでいます^^

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