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2006年9月 4日 (月)

点ではなく、線

9月2日 練馬の真宗会館に法話を聞きに行きました。
 一楽 真先生(大谷大学助教授)
  「真宗の救い」

「子どもは育てるものではありません。授かるものです」という授業中の先生のことばに感動しました。生まれて初めて聞きました。

大学の前期試験の答案にこのように書いた学生さんがいらしたそうです。
その学生さんにとっては、今までの自分の考え方をひっくり返された衝撃があったのでしょう。その驚きを先生に直接言うのは恥ずかしい、でも伝えたいという思いで答案用紙に書かれたのだと思います。
感動を伝えたい、分かち合いたいという こころ の動きは腰の重い私に行動を起こさせます。その感動は大切にしてほしいなと思います。

でも、
先生は、学生さんの告白をうれしく思うよりも、「“子どもを授かる”という表現を今まで一度も聞いたことがなかった」という事実に驚かれていました。
私もその驚きの方が大きかったです。

今日では「子どもを授かる」とは言わないし、聞くこともないのでしょうか。

最近は「子どもを欲しい、欲しくない」「子どもをいる、いらない」という言い方をよく耳にします。
『子どもを作ることは行為あってのことだから、その表現があっている。「授かる」なんて偽善だ』と言われたことがあります。思い出してしまいました(TT)
でもそれって、子どもをモノ化した言い方だと思います。自分の「思いのまま」に出来るという発想。
だから「欲しい・いる」と言う人は、子どもが生まれた事実に満足してしまう。「欲しくなかった・いらない」と言う人は、子どもを邪魔者扱いしてしまう。結局はどちらも自分を苦しめてしまう。そして子どもも。

「授かり」の事実は、点ではなく線。
生まれたとき、幼くて可愛い頃、言うことを聞く頃だけの“点”でなく、私の生涯という“線”上を一緒に歩んでいく。

子どものことだけではない、人との出会いも、自分の身に起こるあらゆる出来事も、すべて授かりものだと思います。あらゆる「授かり」の事実によって、私が存在する。
「思いのまま」にならないということではなく、思いを超えたはたらきによって私ができていく。
「授かり」には、大切な意味があるはず。そこに目をつぶらないでほしい。点だけ見ていると、線が見えなくなってしまいますよ。
  
 
※今日の文章は、学生さんがこういうことを書いてましたという先生の話を聞いて、私が感じたこと(感話)を書きました。先生の話そのものではありませんので、ひと言添えさせていただきます。
法話の感話よりも先に、法話の後で光が丘公園をブラブラしていて感じたことを先に書いてしまいました。順番が逆ですね^^;

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コメント

先日の「縁」のお話を以っていただけば、「私」が在って授かるのではなく、授かるところに私が「落在する」のでしょう。勿論、人によっては授からないところに私が「落在する」のだし、時によっては失うところに私が「落在する」のでしょう。「落在する」とは難しい中にも難しいことで、衆生が出来ることではありませんね。

☆やすさん おはようございます
文章を書きながら、
 ご恩思えば みなご恩 この才市もご恩でできました
という浅原才市さんのことば を思い出していました。
「縁」によって成るんですね。

「授からない」「失う」に類することも書こうと思いました。でも、難しかったです。
「授かる縁がない」のではなくて「授からない縁がある」
「保つ縁がない」のではなくて「失う縁がある」
離れるのは出会いがあったから
文にするとこれだけのことですが、文中に書くことが出来ませんでした。ホント、「落在する」ことの難しさを感じています。衆生の仕事ではありませんね。


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