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2006年9月 1日 (金)

2006年9月のことば

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       苦悩の旧里はすてがたく
       安養の浄土はこひしからず

                      親鸞聖人

8月、「故郷(ふるさと)」について考えていました。夏休みやお盆休みになると故郷に帰ります。乗り物が満員なのに、渋滞すると分かっているのに、休むつもりが疲れてしまうのに、それでも故郷に帰る。故郷の持つ力って凄いなぁ、故郷が私に呼びかけるはたらきって偉大だなぁって想っていました。
私は東京生まれの東京育ちなので、故郷と言っても東京になりますが、母が長崎出身なので、長崎にとても愛着があります。子供の頃は、夏休みになると真っ先に長崎に行き、夏休み中長崎で過ごしていました。
また、京都にも愛着があります。京都の大谷祖廟には祖母のお骨を分骨して納めてあるので、幼い頃からお参りに連れて行ってもらっていましたし、学生時代を過ごした町でもあります。長崎と京都、私にとって大切な故郷です。
 故郷とは、生まれ故郷という意味だけではなく、安心する場・ありのままの自分でいられる場。自分にとって大切な場という意味での故郷が誰にでもあると思います。あなたはどこの場を慕(おも)いますか?

今月のことばは、『歎異抄(たんにしょう)』第9章にあります親鸞聖人のおことばです。第9章は親鸞聖人と弟子の唯円さんの会話で始まります。
南無阿弥陀仏とお念仏申しても喜びのこころが湧いてきませんと尋ねる弟子の唯円に 親鸞聖人は「私もです」と応えます。そして、「お念仏申して喜べないのは煩悩を持つ身だからである。でも、阿弥陀如来はそんな私を見捨てずに慈悲のこころをかけてくださっている。なんとたのもしいことであろうか」と説いてくださいます。
「苦悩の旧里」とは、念仏申しても喜べない、煩悩を持つ私の姿を表現したものです。此岸です。此の岸です。こっちの岸です。「安養の浄土」は彼岸です。彼の岸です。あっちの岸です。
親鸞聖人は、念仏申しても喜べない弟子に対し、「それではいけない」と諭されたのではありません。

 久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる
 苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、
 いまだうまれざる
 安養(あんにょう)の浄土はこいしからずそうろう
           『歎異抄』第9章より

はるか昔からこんにちまで、限りない流転を続けてきたこの苦悩の故郷は、どうしても捨てがたく、まだ生まれたことのない永遠の安らぎの世界である阿弥陀如来の浄土が恋しく思えないということは、まことに盛んな煩悩だからでありましょう。
煩悩を持っている私こそ本来の私なのです。「このままじゃいけないなぁ」「自分はなんて汚い人間なんだろう」「なんとかしなきゃ」と思うことはあっても、なかなか変えられるものではありません。
実は、今の私こそ一番居心地がいい故郷なのかもしれません。苦悩の旧里は捨てがたいものなのです。まだ見ぬ安養の浄土に恋しい気持ちが湧かないのも無理はないのです。
あせって念仏を喜ぼうと思わなくても、此岸から彼岸に渡ろうと思わなくても、娑婆の縁が尽きたとき浄土に渡らせていただけるのです。この煩悩多き私が。こんな私を浄土に渡らせてくださる阿弥陀如来のなんと頼もしいことであろうか。
煩悩持つ身であるからこそ、阿弥陀如来の慈悲が私に注がれる。だからこそ、悩み苦しみの世界を、苦悩の旧里を安心して生きていける。そう、今このいのちをいただいて生きていけるのは、阿弥陀如来の慈悲が既に届いている証拠。だから温かい。だから懐かしい。だから捨てられない。

 いのち終るまで
 いっしょにくらし
 いずれ別れる煩悩なれば
 今は だいじに見まもります
            榎本 栄一

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