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2006年8月17日 (木)

なんで人間は聞法するのかねぇ

なんで人間は聞法するのかねぇ

安田 理深先生(1900~1982)という真宗の教学者がいらっしゃいました。
その安田先生が晩年に「なんで人間は聞法するのかねぇ」とお見舞いに来られた方に言われたそうです。

見舞いの人はびっくりします。仏教を、真宗を、親鸞聖人の教えを生涯聞き続けてこられた先生が言われたのですから。でも、見舞いの人に質問したのではなく、自身に問いかけるような言い方だったようです。
人生の晩年に、自分の聞法生活を自ら問われた。

聞法って、生涯聞法なのですね。
聞いて答が出る。聞いて悩みがなくなる。聞いて争いが解決するわけではない。
聞いても答えは出ない。聞いても悩みはなくならない。聞いても争いは解決しない。
では、何で人間は聞法するのか。
  
あっ!!
「聞いても答えは出ない。聞いても悩みはなくならない。聞いても争いは解決しない」
って当然のように書いたけれど、答が出る・悩みがなくなる・争いが解決するって、勝手に聞法の利益を決め付けてました。
聞いた結果を自分で予想・期待してはいけませんね。
たまたま「聞く」ご縁をいただいた。それだけでご利益なのに。

自分が聞法していたつもりだけど、そういう場が用意されてたんだなぁ。
それだけで喜ぶべきこと。
  
で、安田先生は「なんで人間は聞法するのかねぇ」と仰られた後に、
春になったら、木が芽吹くようなものかねぇ」と言われたそうです。

「木が芽吹く」ことを、答が出る・悩みがなくなる・争いが解決すると受け取ってしまっては、予想・結果を求めての聞法になってしまう。問題解決の聞法になってしまう。
聞法するということそのものが、「春になって、木が芽吹」いた状態なのではないだろうか。
すでに芽吹いているのですね。
私の中にある いのち が、芽吹いているんですね。

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