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2006年8月30日 (水)

法に聞く

お釈迦さまは、自分が話をするときに「今日のテーマは○○です」なんて言わなかったことでしょう。
人にふれ、自分のさとりの内容をただ話されただけではないでしょうか。

お釈迦さまのお話を聞いた人が、自分の人生に引き当てて
 「お釈迦さまは こういうことを言おうとされたのではないだろうか」
 「私は自分の人生から逃げていたなぁ」
 「ほかにもこんな道があったんだ」
などと感じられたのではないだろうか。

テーマ設定なんてしなくても、お釈迦さまのお話は誰にでもリンクするもの、響くもの。
テーマを設定してしまうと、そのテーマに興味がある人は聴くけれど、興味が無い人は耳を傾けない。
興味があっても、納得できなければ「今日の話はダメだね」なんて言ってしまう。
聞法慣れした人はテーマだけ聞いて、「こういう話をするだろう」と勝手に想像してしまう。

自分の興味で聞くのではなく、
お話を聞いたら、その内容はなんと私のことを言い当てたものだった。
そういうのが聞法じゃないかな。
   
  
8月ももう終わりですね。8月になると反戦の訴えをよく耳にしますが、お釈迦さまの「兵戈無用(ひょうがむよう)」という ことば がよく例えに使われます。
「お釈迦さまは“兵戈無用”とおっしゃっている。だから武器を捨てよう!!」という感じで。

「兵戈無用」とは、「兵隊も武器も必要がない」という意味ですが、お釈迦さまは「仏教広まるところに、兵隊も武器も必要としない国が開かれる」と言われたのであって、「兵隊も武器も必要としない国を作ろう!!」と扇動されたのではありません。
お釈迦さまは「兵戈無用」としか言われてないんです。それを聞いて、自分のこころの中の“兵戈”がなくなっていく世界をイメージした人がいる。そうありたいと願った人がいる。そういう人がたくさんいただけの話だと思うんです。だからこそ、この ことば が大切にされてきた。でも頭から「お釈迦さまも兵隊や武器の無い世界を望まれました。“兵戈無用”と言われています」と言ってしまっては、「兵戈無用」がイメージさせる世界を狭めてしまうし、誤解されてしまうかもしれない。

受け手がいて初めて ことば って意味を持つんだなぁ。
ことば のみを掲げてしまっては、ただ拡散してしまうだけなんだなぁ。


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コメント

「ことば」って、いろんな形になると思っているのですが、
時にはやさしく暖かくなったり、硬く(堅く・難く・とか)なったり、攻撃的な武器のようになったり・・・もちろん勇気をもらったりとかいろいろありますが、「今日のことば」を読んでまず浮かんだのが、玄関とかのドアのカギ。
受け口があって、「ガチャリ」と開く場景を思いました。
受け口の形は人それぞれいろいろ無数にあるんだろうなー、せっかくドアが開いたのに、中身は又ドアだから又カギを探す。
自分に「合うカギ」が差し込まれているのに、錆付いて動かなかったら・・・
と思って耳そうじをしました^^

☆teruさん こんばんは
お釈迦さまの説法って、誰にでも通じるマスターキーなのかもしれませんね。
せっかく自分に合う鍵が差し込まれているのに、こちら側が錆びてたら開きませんね。
錆びついているのは、世間のせいでも、社会の生でもない。錆びついてしまわずに、法に向き合いたいものです。今まで聞こえなかったことが、たっくさん聞こえてきますよ^^

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