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2006年8月 1日 (火)

2006年8月のことば

  Pict0154
  たとえ明日
   この世の終わりが来ようとも、
    今日わたしはリンゴの木を植える

                       ルター

《この世の終わり》とは、何を指すのでしょう。世界の終わりかも知れない。地球消滅・人類滅亡・日本沈没。そんなこと有り得ないと感じるか、まだまだ先のことと捉えるか。つまり他人事と思ってしまうのか。《この世の終わり》とは、そんな大きな話ではなく、私の いのち 尽きることを指しているのではないだろうか。

「未来のことが分かったらいいなぁ」って思ったことありませんか? ハッキリ分かっていることがあります。それは、死ぬということ。いのち あるもの必ずいつかは“死”を迎えます。しかし、まだ先のこととして考えている。まだ来てくれるなと敬遠して生きている。私の身に起きる明白な事実なのに、見ない振りをして生きている。

では、“死はいつ来るのでしょう。明日かもしれない、一年後かもしれない、数十年先かもしれない。いつか分からないことのようだけれど、息を吸って吐いて、次に吸うことがなかったとき、いのち は尽きる。吐く息吸う息の一瞬一瞬を生きている私。“死”は、明日でも、一年後でも、数十年先でもない。この呼吸の先に待っている。私の いのち は、吸う息吐く息の積み重ね。数十年後が、一年後が、明日が徐々に迫ってくるのではない。
他人事でもない、先の話でもない、まさに《たとえ明日この世の終わりが来ようとも》の いのち を生きている私。
そのような いのち を生きているからといって、《リンゴの木を植える》ことが無駄なことだろうか。愚かなことだろうか。それとも希望を求めて木を植えるのか。

無駄だとか愚かだとか思うのならば、なぜ生きるのか。

希望を求めて木を植えるというならば、“死”は絶望の象徴なのだろうか。

たとえどのような状況であろうとも、私は、今私ができる限りのことを精一杯する。リンゴの木を植える者もいる。木を植えたくても植えられない者もいる。植えても無駄だと判断して、植えない者もいるだろう。それぞれが私の想いを尽くしてのこと。私は、私の想いを生きるしかない。精一杯想いを尽くして生きるしか、私にできることはない。
しかし、木を植えるも、植えられないも、植えないも、私の想いのようでいて、私の想いを超えた“縁”というはたらきによるもの。“縁”を生かされている真実。想いのみで生きているのではない。“縁”という土壌があるからこそ、私は想いを生きられる。私の身に起こることは、すべて“縁”による。運命論でも、諦めでもない。シッカリと立っていられる“縁”という土壌があるからこそ、私は想いを生きられる。
だからこそ、いつ訪れるか分からない“死”に向かって、絶望せずに生きていける。
敢えて希望を求めずとも、“死”を内包したまま生きていける。なにも心配はいらない。死ぬまで生きているのだから。

植えられたリンゴの木は、懸命に生きよう生きようとすることだろう。「どうせ明日でこの世は終わり。生きることに意味はないさ」なんてこれっぽっちも思うことなく。
植えた私にも大切な仕事がある。リンゴの木を育てるという仕事が。その仕事を、明日でもいいやと言って、先に延ばしますか?  吸う息吐く息の一瞬一瞬の いのち を生きている私なのに。次の瞬間には何が起こるか分からぬ生を歩んでいるのに。

 明日ありと思う心のあだ桜
  夜半に嵐の吹かぬものかは

               親鸞聖人

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コメント

 一瞬、一瞬を生かされている身、

「私は、今私ができる限りのことを精一杯する。」

今日まで自分は、精一杯出来てた?ウーん・・・

☆teruさん おはようございます
「一瞬、一瞬を生かされている身」であること、普段は忘れて生きてます。
「ウーん…」な私です^^;

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