« ものもらい | トップページ | ご無事を念じております »

2006年7月23日 (日)

責任を生きる

罪を犯したら、責任をとります。
責任の取り方は人それぞれ。

一生かけて償うつもりで責任を負う人もいる。
心の底から謝る人もいる。
謝って済まそうとする人もいる。
謝っている振りだけの人もいる。
謝らない人もいる。
みんなやっていること と自分だけが悪いんじゃないと言い逃れする人もいる。

責任の取り方は人それぞれ。
でも忘れてはいけないことは、どんなに謝っても、どんなに逃げても、犯した罪は消えないということ。
許してもらえる、風化する、笑い話に転化することはあっても、罪を犯したという事実は消えない。つまり、忘れてはいけない。

法を犯した罰ならば、刑に服するか、時効を待てば償ったことになる(なってしまう)。
たまたまバレなくて、たまたま捕まらなくて、罪を償わずに済んだ人がいたとする。
刑事罰を受けるほどではなくても、人には言えないことをした人がいたとする。
「もう時効だから言うけど…」
なんて自らご丁寧に断りながら、自分が しでかしたことをしゃべる人がいる。笑い話・昔話のように。でも、時効なんてないから。自分で決めることじゃないから。
もし“時効”という言葉を使いたいのならば、それは生きている間ずっと。いや、死んでもずっとかもしれない。

追い詰めるようなことを考えすぎだろうか。
「罪を犯したら、責任をとります」なんていうと、自分には関係ないことと考えてしまう。でも、特定の誰かの話ではない。私自身の話。
罪を犯すといっても、法的なことだけじゃない。
人の こころ を傷つけること。人の存在に気付かないこと。私がいること。なんてことも罪・罪・罪。

罪を犯しながら生きているのが私なら、責任を背負いながら生きるのが私。
生きるということに責任があるということ。

その責任の自覚において、ためらうことなく仏法・真理を求めることができる。
責任回避や滅罪のために仏法・真理を求めるものではない。

« ものもらい | トップページ | ご無事を念じております »

コメント

こんにちは、またきちゃいました。
またまた、共感。
周囲だけでなく、自分にもいえることだなあ。
自由と責任は一体なのに、今は自由ということばだけが先行している気がします。だから、皆ひとを傷つけることにはすごく鈍感で、なんか寂しい世の中です。
でも、だからといってあたしはその色に染まりたくはない。
「駄目なことの一切を、時代のせいにはするな。わずかに光る尊厳の放棄」あたしのお気に入りの詩の一節です。
皆がそうだから、といって責任のとれない人間になどなりたくない。尊厳を放棄などしたくない。
あたしだって、どこか気づかぬところでひとを傷つけているかもしれない。だからこそ、そういうひとに気づける鋭敏さと思いやりと責任感だけは持っていたい。ひとがどうこうではなく、結局、今気づける、変化できるのも自分だけだから。

☆月子さん こんばんは
コメントありがとうございます。
“責任”って、「とる」ものではなく、誰にも「ある」ものなんだよなぁって想っています。
自分のことを棚の上に上げて、「責任をとれ!」とか言うのがやりきれないのですTT

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« ものもらい | トップページ | ご無事を念じております »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ