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2006年7月29日 (土)

クモの網

クモに生まれ網をかけねばならぬかな
                  高浜 虚子

昨日は 芥川 龍之介の『蜘蛛の糸』を思い返し、蜘蛛の糸に自身をさらけ出してしまう
カンダタ(私)のことを思ってました。
今日は、高浜 虚子の俳句を思い返しています。

クモは糸を出し網を張り、他の昆虫を捕まえて、その いのち を ちょうだい しています。
「クモ」とは、私のことです。
人として生まれ、人として生きるために、さまざまな方法で 他の いのち を ちょうだい している。生きていくうえで避けることが出来ないことです。
   
   
クモ網を張るが如くに我もあるか
                   高浜 虚子

虚子は、このような人間の姿をクモになぞらえて俳句を詠んでいます。
クモが網を張って 他の いのち をいただくように、私も他の いのち をいただかずには生きられない存在なのだ、と。
でも、蜘蛛は必要以上に いのち を奪うでしょうか。他の生命体もそうです。自分が必要とする以上に食料を確保する、他の いのち をちょうだいすることはなかったと思います。
あまるほどに食料を確保する。そして、そのほとんどを無駄にしてしまう。
「もったいない」の記事でも書きましたが、ものが足りないときに有り難さを感じるのは簡単なこと。あまっているときに 有り難さを感じられますか?
少しでも多くの餌が捕れるように網を強くしたり、大きくしたり、そんなことに腐心してしまいそうですね。ヒトクモは。

それから、同種の いのち を奪う生き物が ヒトの他にいるのでしょうか?
網に引っかかって もがいているのは、実は私自身なのかもしれない。

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コメント

私は海釣りによく行きます。
おかずになるような魚ばかり釣れれば良いのですが、リリース出来ず無益な殺生をする時も正直あります。
釣れた魚に憎しみを込めて殺してしまう事はありませんが、そのような光景を目にする事は多々あります。死なせ方は違っていても、死なせてしまった事には変わりありません。
食べる事さえ出来なかった魚、ごめんなさい。
私も自分勝手です。

☆teruさん こんばんは
海釣りがご趣味でしたか。
私は気が短くて釣りは向いてないようです(よく気が短い人の方が釣り向きだとは言いますが)。おまけに船が苦手なんです。

「死なせ方は違っていても、死なせてしまった事には変わりありません」
そのように感じられることが尊いんだと思います。
網を張らずに、自分だけ我慢すればいいという話ではないと思うんですよね。
網を張ってでも生きねばならない。じゃぁ、やみくもに餌を捕っていいのか、どこで線を引くのか。自分が餌を捕ったことにより、知らないうちに仲間を殺していることもあるかもしれない。
そういうことに想いを向けられるか、無関心か。
想いを向けられたとして、そのことは苦しみを生むと思う。でも、お釈迦さまが言われた「一切皆苦」って、そういうことではないかと思っています。

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