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2006年7月20日 (木)

形見

私が死んだら、何が遺るだろう
…そんなことを ふと 思った

なんてことを考えているときに、目に飛び込んできた ことば

 形見とて 何残すらむ
 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉

                      良寛

私が亡くなった後に、形見として残せるものはなにもない。
しかし、春には梅や桜の花が咲き、
夏にはホトトギスの鳴き声が響き渡り、
秋には紅葉した葉がヒラヒラと散る。
私がこの世を去った後も、
自然は相変わらず美しくあり続けてくれる。
これ以上の形見はないことだろう。

良寛さんの時世の歌と言われています。素敵です。

地位・名誉・財産をどんなに築き上げたって、あの世には持って行けない。
遺された者にとっても、なんの意味もない。
争いを生むことはあっても、自然の美しさに心奪われる一瞬は生まれはしない。

何が遺るだろうか 何かを遺そう 
傲慢ですね。
亡き後、自然に返る。その自然が美しい風景を描いてくれる。
これ以上、何が遺せるというのだろう。


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コメント

私が「行信」をいただいていることで、私の思い計らいを超えて「南無阿弥陀仏」の歴史がつくられていく。それが還相回向の全てではないか? とも感じます。また、それが勤行の最後に「回向文」を誦することの意味ではないか? とも、それが本当の私の唯一の願いではないか? とも感じます。外を見れば個人的にも社会的にも無数の境遇の変化、事件の連なりにしか見えない歴史、つまり因果業報の世界も、内を見れば「行信」「願」が常に「今」展開しているのが真実の歴史であるようにも感じます。

かつさん お久しぶりです
いつも読ませていただいています

自分の亡き後・・・ちょっと想像してみました、
子供ができてから「まだ死ねない!」みたいなことをよく思うようにはなりましたが
自分がほんとにいなくなった後・・というのはあまり考えたことがなかったかも
自分のいない、今自分が暮らしている世界・・・^^
なんだか不思議な感じがしました。

良寛様の歌、すてきですね。
この夏帰省したら良寛様の庵に行ってみたい・・と思いましたが
きっと行けないだろうけど^^; いつかゆっくり行ってみたいです。

☆まつさん おはようございます
「自然」とは、「還相回向」の姿なり。
新しい発見です^^

☆fairmoonさん おはようございます
お久しぶりです。
私も、いつもお邪魔してました^^

良寛様の庵があるんですね。
ネットで写真を見ることが出来ましたが、「庵」のイメージ通りでした。
晩年はここで過ごされたのかなぁ。想いが膨らみます。

「いかに死ぬか」ではなく、
「いかに生きるか」を一生問い続けることが、
「生きる」ということなのでしょうね。

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