« なんで そんなこと聞くの? | トップページ | 世の中は美しい »

2006年6月 6日 (火)

ここにいます

ひとりの視覚障害者が興味深い話をした。その人は駅のプラットホームで電車を待つとき、かならずだれかの背後につくようにしているのだという。それがもっとも安全だからだ。ところが最近、うまくいかないことがある。気配のない人が増えていて、なかなか後ろにつけないのだ。ならんでいたと思ったら、前にあったのは柱だったということもある。以前はなかったことだという。    藤原智美「消えゆく他者」  〔『あんじゃり』(親鸞仏教センター発行)11号より〕

藤原さんは「気配のない人」について考えます。
存在感という意味では、今 誰もが公共の場で自己中心的な存在感を示しています。地べたに座る若者・抱きつくカップル・大声で通話する中年男性・ヘッドフォンステレオをして外部を遮断する者・ケータイに熱中する者などなど。
存在感がないという意味で「気配がない」と言っているのではなく、他者に対する配慮のない人を指しているのではないかと考えます。では、人から 他者に対する配慮を奪っているものは何かということについて書かれています(あまり書いてしまうわけにもいかないので、内容はこの程度で)。

引用させていただいた文章を読んだときに、ドキッとしました。
私にも視覚障害を持つ知人がいます。でも、私は長いこと彼に声をかけられませんでした。
友人は即座に「○○さん こんにちは。□□です」と声をかけ、肩を貸し、自然に歩いていく。私はその後をついていくだけ。名のりさえもせずに。
どう接していいのか考えすぎていました。
今では声をかけられるようになりましたが、そんな自分を思い出しました。

そんな自分を思い出しただけなら、自己嫌悪するだけなのですが、彼のことを思い出すと 一緒に思い出す出来事があります。

彼も含め10人ほどで飲みに行ったときのこと。
誰かが私の性格について語ったとき、彼がポツリと「白山君は、もっとドッシリ構えたほうがいいと思うなぁ」と言ったのです。一緒に飲んでいたみんながウンウンと頷きました。
まだ私が 彼にうまく声をかけることが出来なかったころの話です。

「見透かされてた!!」と思い、ビックリしました。
私が声をかけられずにモジモジしていたことも、後ろから黙ってついてきていたことも、彼は感じ取っていたのだと思います。
しかも、場にいるみんなが頷くほど私のことを分析している。
失礼な言い方になりますが、「目は見えないけれど、この人は誰よりも僕のことを見てくれている」と思い、顔が真っ赤になったことを覚えています。

べつの視覚障害を持つ方と話をしたときに、「“ここにいます”って思ってくれるだけで、私は安心するのよ」って言われたことがあります。つまり、気配を示すってことですね。

自分の世界に入るのは勝手だけれど、周りに人がいるという意識を捨ててはいけない。
他者への配慮がない者は、なにも見えていないということ。
他者への配慮を忘れて生きるということは、気配をなくすということ。
つまり、自分で自分を無くしてしまっているということ。

      
そういえば、「気配(けはい)」って、「気配り(きくばり)」とも読めますね。
(「り」って送り仮名が必要だけど)
自分が気配を発することも、他者の気配を感ずることも、気配りに通じます。

« なんで そんなこと聞くの? | トップページ | 世の中は美しい »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« なんで そんなこと聞くの? | トップページ | 世の中は美しい »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ