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2006年6月12日 (月)

現世利益

ノートをめくっていたら、青木新門さんの ことば が目に留まりました。

どんなことがあっても平気で生きていけることが現世利益

家内安全・家庭円満・交通安全・商売繁盛・合格祈願・祈願成就・世界平和などなど、さまざまな願い事があるものです。これらの願いが成就することが“現世利益”だと思っていませんか?
しかし、それらの願いはひっくり返してしまえば、“自分さえよければいい”ということに通じます。そのようなご都合主義を“利益”とは言いません。願っていれば叶うことだってあるでしょう。叶わないこともあるでしょう。ただそれだけの話です。信仰とはまったく関係ありません。
自分の思い通りになることを“現世利益”というのではありません。青木新門さんが言われるように、「どんなことがあっても平気で生きていける」私になることが現世利益であり、信仰上の現世利益なのです。

「どんなことがあっても平気で生きていける」
そんな人間になれるということは、よっぽど強い精神力の持ち主になることのように思われるかもしれませんが、私自身は何も変わりません。こころが強くなるわけでも、忍耐力がつくわけでも、何事にも動じないようになるわけでもありません。

「どんなことがあっても平気で生きていける」
裏返せば「どんなことでも起こりうるのが人生」ということであり、そのことに気付くことが“現世利益”なのだと思います。
で、気付いて強くなるのではなく、気付いたけれど、私自身は人生で起こる“どんなこと”に対してもオロオロしたり、悲しんだり、泣いたり、笑ったり。
何も変わらないかもしれない。でも、大きく何かが変わってくる。
景色は変わらないけれど、見方が変わる。そういう眼を持てることが“現世利益”。
    
     
余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
  正岡子規 『病床六尺』
    
  
    
(でもね…)
“現世利益”ってそういうことだと思います。いや、そういうことなんです。
法話や寺報やブログでもそういうことを言ってきました。
    
ある時、友人から“現世利益”について聞かれたので、上記のような話をしました。
実は友人もそのことは承知でした。でも、友人は言います。
「分かってるんだ。分かってるんだけど、祖父が病床に臥してから『助かってほしい!!』って願わずにはいられなかったんだよね…」

本来の意味は説き続けなければいけない。大切なこと。
でも、分かっていても迷ってしまうのが私の姿。
助けるため、助かるために願う人もいる。
願ったから助かるなんてことはないことを分かっている人もいる。分かっているんだけど「助かってほしい!!」と願わずにはおれない。

助けるため、助かるための願いは、願いが叶わなかったとき、平気でいられない。
そして、願いが叶わなかったことに対して疑問や憤りを感じる。
人生、“どんなこと”でも起こり得るということが見えなくなってしまう。

願いと救いが直結しないことを承知でする願いは、願いが叶わなくても…やっぱり平気ではいられない。
願いが叶わなかったことに対する疑問や憤りは…やっぱり感じる。
でも、感じながらも“どんなこと”でも起こり得るんだということに目は向いていると思う。
   
    
平気で生きていけるっていうことは、平気で人生を見つめることが出来るってこと。目を背けずに。

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