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2006年6月

2006年6月29日 (木)

人生は生き物

法話をするときは、シミュレーションするようにしています。
頭の中で考えるだけの場合もあるし、実際に本堂でお話をしてみることもあります(ひとりで)。

でも、実際にお話をする場に立って、聞いてくれる方が目の前にいて、声を出すと、シミュレーション通りに行くことはありません。
場の雰囲気、聴衆との関係性、その日の体調などなど、その時にならないと、どんなお話になるのか、まったく分かりません。

シミュレーションをキチンとしたから うまく話せるわけでもないし、
シミュレーションしてなくたって、無難に話せるときもある。
聞法の場は生き物ですね。
だからといって、それを恐れていては何もできない。

 「百シミュレーションは、一経験にしかず」です。
   
   
法話ではありませんが、昨日 人まえで話す機会がありました。
やはりシミュレーション通りにはいきませんでした^^
手にした原稿が、最後は真っ赤になってました。

でも、シミュレーション通りに事が進むことが成功で、進まなかったら失敗というわけではないと思います。成功・失敗だけでは計れない大きな何かがあります。
それに、失敗したっていいじゃない。
その失敗は、生きていくうえで とても大切な財産になります。


法話や、人前で話すことを例えに出しましたが、
人生そのものが 一人ひとりの大舞台。

シミュレーション通りにいかない人生を誰もが今歩んでいる。
人生は生き物です。

どのように ことが進むか分からない。

だからこそ ドキドキするし、
だからこそ 一生懸命言シミュレーションするし、
だからこそ おまかせの身を生きられる。

2006年6月28日 (水)

ありがとう…

あの人が私を愛してから、
自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう

                                  ゲーテ

あの人が私を愛さなかったとしても 私の人生は進んでいた

でも あの人に会えた

私が 私でいいんだってことを喜べる幸せ

その幸せを あの人は私にくれた

あの人が 自分にとって大切なのではなく

私が 私自身にとって大切だってことを気付かせてくれた

                          気付かせてくれた

ありがとう 

 おめでとう


2006年6月27日 (火)

諸行無常

新しいお念珠を出しました。
お念珠の箱に紙が一枚入ってました。
お念珠の意味について書いてありました。

その中に、
「年珠が切れても、縁起が悪いことではありません」
と、書いてありました。はい、縁起が悪いことではないので、一切気にしないでくださいね。
それに続いて、
「悪縁が切れたものと思ってください」
と書いてありました。
“縁起が悪い”ことではないのだから、“悪縁”云々言うのもおかしな話なのですが
(お念珠が切れた人のことを気遣っての表現なのでしょうね)。

「縁起」とは、縁って起こること。いろいろな縁が積み重なって、起こること。
お念珠も、使っているうちに切れることがあります。どんなに大事に使っていても。使わずにしまっていても、切れることがあります。あるいは、雑に扱っているのに、切れないことだってある。
切れる縁もあれば、切れない縁もあるわけです。ただそれだけのこと。
切れて縁が悪い、切れなくて縁が良いなんてことではないわけです。
そもそも、切れたときには「縁起悪い」とか言う人も、切れないときに「縁起が良い」なんて言わないでしょう。
自分の想いで、縁起を良いとか悪いとか言っているだけのこと。
私を振り回しているのは、身の回りに起きた出来事ではなく、私の想い。

切れた切れないを気にするならば、普段からお念珠の扱いに気をつけたいものです(お念珠だけではありませんが)。
床に置いたり、放ったりしないようにしましょう。

普段の自分の行いを棚に上げて、「不吉だ」とか、「縁起が悪い」とか言ってませんか?
    
    
『平家物語』より   
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

2006年6月26日 (月)

世間

「世間」というと、どんな言葉が思い浮かびますか?

 「世間の目を、世間体を気にする」
 「世間をお騒がせして、申し訳ありません」
 「渡る世間は鬼ばかり」はテレビドラマの題名。
  「渡る世間に鬼はなし」のもじりかな?
   
「世間」
…元々は仏教用語
「有情世間(うじょうせけん)」 生きとし生けるものすべて
「器世間(きせけん)」 生きとし生けるものすべてを棲まわせる自然環境

本来「世間」とは、私が身を置いているところをさす。自然界の中のさまざまな生き物の中の私。
そして、私自身の有様を浮かび上がらせることば。

今使われている「世間」は、人間だけの世界。私を中心とした、身近な範囲程度しか含んでいない。人間にしか視線が行ってない「世間」。
しかも、そんな狭い範囲の「世間体」や「世間の目」を気にしながらビクビク生きている。
   
   
「世間をお騒がせして、申し訳ありません」
悪いことをしたのなら、加害者ならば、被害者に直接謝るべきこと。
世間に謝ってどうするのか? 被害者自身よりも、世間に謝ることが優先される。
世間に身を置く私も、先ず「世間をお騒がせして、申し訳ありません」の一言を待っている。
悪いことをした人はいるのかもしれない。でも、騒いだのは、騒いだ人自身。
被害者よりも、世間に謝罪しなければと、フラフラしてる。
謝罪はどうしたと、第三者がイライラしている。


「世間」とは、私が身を置く この場所を指し、本来そこに落ち着いていられるはずのところ。私の居場所。
でも、ビクビク フラフラ イライラしている「世間」に落ち着いて いられるはずはない。

2006年6月23日 (金)

テイク アンド ギブ(日常のこと)

「これだけのことをしてあげたのに、お礼の一言もない(怒)」
なんて思ったことはありませんか?

でも、「これだけのことしてあげた」背景には、
「これだけのことをしてあげ」たくなる想いが私の中にあったから。

私の子供として生まれてきてくれた感謝
私を生み 育ててくれた親のぬくもり
いつも気にかけてくれた先生の包容力
教える身が、逆に教えられることが多かった教え子の成長
話を聞き続けてくれた友人のありがたさ
自分のことは二の次で親身になってくれた人々
なにをしてくれたかが問題ではなく、そこにいてくれるだけで私にとってかけがえがなかった

すでに「テイク」をいただいていたんだなぁ。
だから「ギブ」した私なのに、それに「テイク」を求めてしまった。

「これだけのことをしてあげたのに、お礼の一言もない(怒)」ではなく、
お礼をしても し尽くせないほどのお世話になったから、なにかしたいなって想いが こころの底から 純粋に溢れたからこそ「これだけのこと」をさせてもらってたんだなぁ。

2006年6月22日 (木)

テイク アンド ギブ(現世利益)

6月12日に「現世利益」について書きました(こちら)。

現世利益って、
自分が信じたから、祈ったから、頼りとしたから、お金を出したから、
願いが叶いますように、不幸が起こりませんように、こころの安らぎが得られますように、
という図式になっていませんか?
言ってみれば「ギブ アンド テイク」

でも 私って、
自分の嘘に振り回され、
信じることも徹底できない存在。

そんな私が、自分の想いを土台にした信仰心を掲げたところで、砂上の楼閣でしかない。
そんな「ギブ」に「テイク」を期待してしまう図々しさ。

現世利益について考えていて、「テイク アンド ギブ」ってことばが浮かんできました。
合掌して南無阿弥陀仏を称えるご縁をいただけたこと
(祈るご縁、お題目を唱えるご縁、自分の出遇ったご縁に置き換えてください)
そのこと自体が、すでに「テイク」。

自分が信じて、利益を求めるのではない。
すでに私が信じられていた。ご利益をいただいていた。
だから私が南無できる。

手を合わすことすらできないはずの私が、
手を合わすことができる驚き。
それが現世利益。


2006年6月20日 (火)

行ったり来たり

私、あなたのこと信じてます。

私、あなたのことは信じません。

信じる信じないだけでなく、
好き 嫌い・愛する 愛さない・頼る 頼らない・任せる 任せない・許す 許さない、などと言い換えても同じこと。
私の想いって、徹底しないなぁ。

徹底できないから悩み、迷う。
好きな人も憎くなる。憎いけど、怨みきれない。

徹底できないのは、生きる知恵かも。
好きなものを寵愛し、嫌いなものは削除する。
終には誰もいなくなってしまう。
   
でも、信じるからこそ 信じられないということを知り、信じられないなかで 信じるということを知る。
愛するから憎むという感情を知り、憎むから愛するということを知る。


愛することは、憎むことを知る始めである
            永井荷風 『歓楽』

2006年6月19日 (月)

嘘をつくということ。

私、今まで嘘をついたことがありません。

私、嘘つきです。
   
自己保身のためにつく嘘もある。
人を助けるためにつく嘘もあるだろう。

自分のための嘘が、自分の首をしめることもある。
助けるためについた嘘が、人を傷つけることもある。
   
嘘…口が虚しい

嘘が いいとか 悪いとかではなく、
嘘をつくということは、口も こころ も虚しくなることかもしれない。
自己保身のためであっても、人のためであったとしても。

嘘をついたから虚しくなったり、後ろめたくなったりするのではない。
嘘をつくということは、虚しさ・せつなさ・後ろめたさを背負うということ。
セットなんだなぁ。

2006年6月18日 (日)

本当?

私、あなたのことは信じません。

2006年6月17日 (土)

本当?

私、あなたのこと信じてます。

2006年6月16日 (金)

嘘つき

私、嘘つきです。

2006年6月15日 (木)

嘘つき

私、今まで嘘をついたことがありません。

2006年6月14日 (水)

願い

人生には二つの悲劇がある
 一つは願いがかなわぬこと
 もうひとつはその願いがかなうこと
 
                バーナード・ショウ

願いが叶わなかったとき、絶望感が私を襲い、どうしていいか分からなくなる。
道に迷ってしまう。誰かを罵る(ののしる)私になってしまう。
願いが叶ったとき、その時に感謝はしても、いずれは忘れてしまう。
当たり前のことになってしまう。誰かを蔑む(さげすむ)私になってしまう。

私の願いは、私の欲望から生じたもの。
欲から生じたものの結果に、結局は振り回される。悲劇となる。

それならば、願いを持つことは罪なのか。いけないことなのか。
いや、願いを持たずには生きていけないのが私。
願いを持っているからこそ生きている私。

願いを持つ存在だからこそ、仏よりかけられている“願い”に出遇える。
願いを持たない存在は、“願い”を“願い”と受け止められない。
願いを持つから“願い”が分かる。
願いない身に“願い”は分からない。

ただ、「願い」といっても大きく違う
 私の願いは、今と違う自分を求めてのもの
 仏の願いは、今のままのあなたを求めてのもの

 私の願いは わがまま 
 仏の願いは そのまま

2006年6月13日 (火)

いい汗かいてますか?

今朝グランドに行くと、仲間がサッカーボールを蹴りながら昨日のW杯での日本の試合について愚痴ってました。

 「あと10分だったのになぁ」 ポーン

 「もったいねぇよなぁ」 ポーン

 「最初っから押されてたけどね」 ポーン

 「最後は疲れてたし」 ポーン

 「もうちょっと根性出せよな」 ポーン

 「精神面弱いんじゃない?」 ポーン
   
   
なんて言いながら20分ほどボールを蹴りあってました。
私はその様子を見ながら、ベンチでユニフォームに着替えてました。
今日はお日様は出てないけど、湿気があって、疲れがたまりやすい気候でした。
サッカーボールを蹴りあってた面々がベンチに戻ってきました。汗いっぱいかきながら。

 「疲れたぁ~」

 「いや~90分も試合するなんて、あいつら すげえよなぁ」

 「しかも、あんな緊張感の中で」

 「暑い中でよく頑張った!!」

 「次も応援するぞ!!」
    
    
    
どうやら大変さが分かったようです^^(たった20分ほどボールと戯れてただけですが)
何事も、外野は好き勝手言えるものです。当人の大変さ・頑張りも分からずに。

日常、いろいろ もの言いたくなることはありますが、相手のことを考えた上で ものをいうのと、自分の想い・感情だけでものをいうのとでは、同じことを言ってたとしても、中身はまるで違います。
    
相手の身になる。どうして そうなったかに想いを馳せる。背景にあることを考える。自分でも実際に経験してみる。
文句・愚痴を言う前に、すること・できることはたくさんあります。
         
         
メンバーも揃い、時間になりました、さぁ試合です!!
野球で一汗かいてきました。(サッカーじゃないんかい!!)

2006年6月12日 (月)

現世利益

ノートをめくっていたら、青木新門さんの ことば が目に留まりました。

どんなことがあっても平気で生きていけることが現世利益

家内安全・家庭円満・交通安全・商売繁盛・合格祈願・祈願成就・世界平和などなど、さまざまな願い事があるものです。これらの願いが成就することが“現世利益”だと思っていませんか?
しかし、それらの願いはひっくり返してしまえば、“自分さえよければいい”ということに通じます。そのようなご都合主義を“利益”とは言いません。願っていれば叶うことだってあるでしょう。叶わないこともあるでしょう。ただそれだけの話です。信仰とはまったく関係ありません。
自分の思い通りになることを“現世利益”というのではありません。青木新門さんが言われるように、「どんなことがあっても平気で生きていける」私になることが現世利益であり、信仰上の現世利益なのです。

「どんなことがあっても平気で生きていける」
そんな人間になれるということは、よっぽど強い精神力の持ち主になることのように思われるかもしれませんが、私自身は何も変わりません。こころが強くなるわけでも、忍耐力がつくわけでも、何事にも動じないようになるわけでもありません。

「どんなことがあっても平気で生きていける」
裏返せば「どんなことでも起こりうるのが人生」ということであり、そのことに気付くことが“現世利益”なのだと思います。
で、気付いて強くなるのではなく、気付いたけれど、私自身は人生で起こる“どんなこと”に対してもオロオロしたり、悲しんだり、泣いたり、笑ったり。
何も変わらないかもしれない。でも、大きく何かが変わってくる。
景色は変わらないけれど、見方が変わる。そういう眼を持てることが“現世利益”。
    
     
余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
  正岡子規 『病床六尺』
    
  
    
(でもね…)
“現世利益”ってそういうことだと思います。いや、そういうことなんです。
法話や寺報やブログでもそういうことを言ってきました。
    
ある時、友人から“現世利益”について聞かれたので、上記のような話をしました。
実は友人もそのことは承知でした。でも、友人は言います。
「分かってるんだ。分かってるんだけど、祖父が病床に臥してから『助かってほしい!!』って願わずにはいられなかったんだよね…」

本来の意味は説き続けなければいけない。大切なこと。
でも、分かっていても迷ってしまうのが私の姿。
助けるため、助かるために願う人もいる。
願ったから助かるなんてことはないことを分かっている人もいる。分かっているんだけど「助かってほしい!!」と願わずにはおれない。

助けるため、助かるための願いは、願いが叶わなかったとき、平気でいられない。
そして、願いが叶わなかったことに対して疑問や憤りを感じる。
人生、“どんなこと”でも起こり得るということが見えなくなってしまう。

願いと救いが直結しないことを承知でする願いは、願いが叶わなくても…やっぱり平気ではいられない。
願いが叶わなかったことに対する疑問や憤りは…やっぱり感じる。
でも、感じながらも“どんなこと”でも起こり得るんだということに目は向いていると思う。
   
    
平気で生きていけるっていうことは、平気で人生を見つめることが出来るってこと。目を背けずに。

2006年6月 9日 (金)

人生は生きるに値する

はたして人は、
不徳なくして徳を、
憎しみなくして愛を、
醜なくして美を考えることができるだろうか?
実に悪と悩みのおかげで地球は住むにたえ、
人生は生きるに値するのである。

  アナトール・フランス

不徳がなければ、徳ということも分からない。
憎しみなしに、愛も芽生えない。
醜あればこそ、美が輝く。

対称のものだけど、どちらか一方だけでは成り立たない。
徳も、愛も、美も、それだけでは、徳とも美とも感じない。
対称があるから、輝きを増し、
対称と釣り合いが取れているから、徳も愛も美も受け入れられる。
釣り合いの取れてない不徳や憎しみや醜は暴走し、
釣り合いの取れてない徳や愛や美は、不徳や憎しみや醜と同質のものとなる。

不徳あっての徳 徳あっての不徳
憎しみあっての愛 愛あっての憎しみ
醜あっての美 美あっての醜

対称となるものは表裏一体と表現されることがあるけれど、表裏一体ならば、隠そうと思えば隠せてしまう。
しかし、隠せるものではない。
愛と憎は表裏一体なのではなく、愛も憎も同じ面に混在しているに違いない。
だからこそ悪心を抱き、悩み、苦しむ。
その結果 開かれている道も見えてくる。
すでに開かれている道に気付かぬ私。

私とかけ離れたところに不徳が、憎しみが、醜があるのではない。
そのまんま私。

私の中に徳が、愛が、美があるというのなら、
そこには不徳も、憎しみも、醜も内包されている。

2006年6月 8日 (木)

世の中は美しい

世の中は美しい。それを見る目を持っていればね。
                           映画「聖メリイの鐘」より

 世の中に対して文句ばかり言って、
 世の中に対して不平不満ばかりで、
 世の中に対して悲観的で、
 世の中に対して失望して、
 世の中に対して嫌悪して、

世の中に美しさが見えないのは、いや、世の中が美しく見えないのは、それを見る目を持っていないから。
あぁ、世の中に対して失礼でした。
世の中は美しいのに、そう見えなかった私のこころの眼が曇ってました。濁ってました。

2006年6月 6日 (火)

ここにいます

ひとりの視覚障害者が興味深い話をした。その人は駅のプラットホームで電車を待つとき、かならずだれかの背後につくようにしているのだという。それがもっとも安全だからだ。ところが最近、うまくいかないことがある。気配のない人が増えていて、なかなか後ろにつけないのだ。ならんでいたと思ったら、前にあったのは柱だったということもある。以前はなかったことだという。    藤原智美「消えゆく他者」  〔『あんじゃり』(親鸞仏教センター発行)11号より〕

藤原さんは「気配のない人」について考えます。
存在感という意味では、今 誰もが公共の場で自己中心的な存在感を示しています。地べたに座る若者・抱きつくカップル・大声で通話する中年男性・ヘッドフォンステレオをして外部を遮断する者・ケータイに熱中する者などなど。
存在感がないという意味で「気配がない」と言っているのではなく、他者に対する配慮のない人を指しているのではないかと考えます。では、人から 他者に対する配慮を奪っているものは何かということについて書かれています(あまり書いてしまうわけにもいかないので、内容はこの程度で)。

引用させていただいた文章を読んだときに、ドキッとしました。
私にも視覚障害を持つ知人がいます。でも、私は長いこと彼に声をかけられませんでした。
友人は即座に「○○さん こんにちは。□□です」と声をかけ、肩を貸し、自然に歩いていく。私はその後をついていくだけ。名のりさえもせずに。
どう接していいのか考えすぎていました。
今では声をかけられるようになりましたが、そんな自分を思い出しました。

そんな自分を思い出しただけなら、自己嫌悪するだけなのですが、彼のことを思い出すと 一緒に思い出す出来事があります。

彼も含め10人ほどで飲みに行ったときのこと。
誰かが私の性格について語ったとき、彼がポツリと「白山君は、もっとドッシリ構えたほうがいいと思うなぁ」と言ったのです。一緒に飲んでいたみんながウンウンと頷きました。
まだ私が 彼にうまく声をかけることが出来なかったころの話です。

「見透かされてた!!」と思い、ビックリしました。
私が声をかけられずにモジモジしていたことも、後ろから黙ってついてきていたことも、彼は感じ取っていたのだと思います。
しかも、場にいるみんなが頷くほど私のことを分析している。
失礼な言い方になりますが、「目は見えないけれど、この人は誰よりも僕のことを見てくれている」と思い、顔が真っ赤になったことを覚えています。

べつの視覚障害を持つ方と話をしたときに、「“ここにいます”って思ってくれるだけで、私は安心するのよ」って言われたことがあります。つまり、気配を示すってことですね。

自分の世界に入るのは勝手だけれど、周りに人がいるという意識を捨ててはいけない。
他者への配慮がない者は、なにも見えていないということ。
他者への配慮を忘れて生きるということは、気配をなくすということ。
つまり、自分で自分を無くしてしまっているということ。

      
そういえば、「気配(けはい)」って、「気配り(きくばり)」とも読めますね。
(「り」って送り仮名が必要だけど)
自分が気配を発することも、他者の気配を感ずることも、気配りに通じます。

2006年6月 5日 (月)

なんで そんなこと聞くの?

友「かっちゃん、結婚経験ある?」

私「うん、あるよ(知ってるのに、なんでそんなこと聞くんだろう?)」

友「ちょっと貸して」

私「えっ!貸す?」

友「うん、貸して」

私「どうやって?」

友「えっ!?」

私「“結婚経験ある?”って聞いたでしょ」

友「“蛍光ペンある?”って聞いたの!!
    “結婚経験ある?”なんてなんで今 聞くの!!」

私「悪い悪い^^ 似てるじゃん」

友「似てないよ!!」
    
    
    
聞き違いましたってお話でした。
似てますよねぇ。
   
 「けっこんけいけん」
 「けいこうぺん」
    
似てないか。思いっ切り間違えました。

2006年6月 4日 (日)

いないけどいる

良いことがあったとき 自分の手柄
悪いことがあったとき 誰かのせい

良いことがあったとき 「あぁよかった」
悪いことがあったとき 「あ~ぁ」

良いことがあったとき これだけ拝んでいるんだもんね
悪いことがあったとき こんなに拝んでいるのに

信仰することによって
 幸福を求め 不幸を追い払おうとするけれど、
信仰と幸不幸に因果関係はない

つらい時には手を合わせ
平穏な時には忘れてしまう

信じているといったって、日常 想いは至らない
信じられないといったって、なにか起これば なにか想う

哀しいけれど、私からの信仰心ってそんなもの

信じるものは救われるというけれど、
こっちが信じていても いなくても、
私と常に一緒にいてくれるのが阿弥陀さん
             
信じている人の前にいるのが 阿弥陀さん
信じていない人の前には…やっぱり いるのが阿弥陀さん
    
   
    
     いるけどいないのが 私
     いないけどいるのが 阿弥陀さん

2006年6月 3日 (土)

いるけどいない

夕暮れ時 JR新宿駅改札出口で友人を待つ
改札を出てすぐに人の流れを分断する柱が一本
その柱の前に立ち 友人を待つ
電車の到着の後 大量の人の流れがやってくる
その周期は短い
流れ 流れ 一瞬途切れ また流れ流れ 一瞬途切れ…
流れの中に身を置く私

仕事も終わり 疲れた顔の人 人 人
ちょっと飲みに行きましょうか 笑顔の人 人 人
これから仕事かな 引き締まった顔の人 人 人
誰かが待っている 楽しそうな顔の人 人 人

人 人 人…
人の流れの中に身を置いて
「みんな大変だなぁ」という傍観者な私
川の流れに抵抗する石のよう

「俺は何をしているんだろう」という取り残された感を抱く私
川の流れのままに流される蟻にでもなったような気持ち
 (蟻の気持ちを知っているわけではないけれど) 

そんな私の存在は まるで蟻のように目立たない
そこにいるけど そこにいない

2006年6月 1日 (木)

2006年6月のことば

Pict0226_1
自分の悲しみをだれか好きな人に
打ち明けることができれば、
その時、悲しみはほとんど消える。

               アベル・ボナール


悲しい想いを人に打ち明けると、その しまい場所ができる。
「早く無くなればいいのに」と思っていた悲しみも、こころの中に しまい場所ができる。しまい場所の中にスッポリ入ってしまうこともあれば、はみ出してしまうこともあるけれど、とにかく落ち着き場所が出来る。
で、必要なときにフッと出てくる。悲しみが必要になる? そう、人の話を聞くときに。

 悲しみを消すのは、喜びや楽しみではない。
 悲しみを消すのは、悲しみ。

悲しみが消えるといっても、悲しみそのものが無くなるわけではない。悲しみは悲しみのまま。でも、悲しみは悲しみのままなのに、「もう嫌だ」って気持ちが「頑張ってみようかな」に変わることがある。悲しみを受け止めてくれる人がいるから。

 悲しみを与えるのも人
 悲しみを消してくれるのも人

「好きな人」、誰を思い浮かべましたか?
恋人・親友・仲間・家族…。自分を思い浮かべた人もいるかもしれませんね。
だけど、好きな人だからといって、何でも話せるとは限らない。好きな人だからこそ話せないこともある。
人に迷惑をかけたくないからと、自分で処理しようとして、余計に苦しんでいるあなた。その姿に涙している人もいるんですよ。「どうして話してくれないんだ!」って。

悲しい気持ちを、私が発するのに先立って、受け止めてくれている人がいる。
好きという感情は移ろうもの。悲しい気持ちも、時と共に薄らいでいく。この私自身がいつかはいのちを終えていく身。人は永遠 じゃない。不安定なもの。そんな不安定な私を好いて、受け止めてくれている人がいる。私が気付いていないだけ。

 自分の悲しみをだれか好きな人に
 打ち明けることができれば、
 その時、悲しみはほとんど消える。

この ことば に出会った瞬間、仏の慈悲を想いました。
どんなに悲しくても、どんなに好きでも、どんなに長生きしようとしても、いつかは無くなる私。言ってしまえば、放っておいてもいい存在。だけど、放っておくわけにはいかないと、慈悲のこころをかけてくださっている。そんな慈悲に包まれて、私は生きている。私が今いるということ。それがなによりも仏の慈悲の証。

慈悲・・・慈しみ、悲しむ。「よしよし」と頭を撫でる程度のものではない。「悲」という漢字は、「心」を両手で引き裂いている様を表わしている。それだけ痛みが伴うということ。心引き裂かれるほどの痛みと共に、私を温かく包んでくださっている。何に心を引き裂かれているのか。もしかしたら、この私なのかもしれない。
どうして そんな私のことを守ってくださるのか。それは、悲しみを知っているから。大きな悲しみを受け、傷を抱えているから。悲しみを知っているからこそ、その傷から優しさが溢れてくる。私も、悲しみを抱えているから、その傷から優しさが沁みこんでくる。

 わたしは傷を持っている
 でもその傷のところから
 あなたのやさしさがしみてくる
             星野 富弘

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