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2006年5月11日 (木)

いのちの根っこ

親鸞聖人がお示しくださったお念仏の教え…「ただ念仏」。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏称える生活を、喜びを持って実践された念仏者を妙好人(みょうこうにん)と言います。

昨日の記事に書いた 浅原才市さんも妙好人として知られています。
その才市さんが、

ご恩思えば みなご恩 この才市も ご恩でできました

と、おっしゃっています。
この ことば を初めて聞いたとき、「ご恩でできました」というところが響きました。

「ご恩」というと、「いただく」と言いたくなりませんか?
「ご恩をいただきました」と言いそうなところを 「ご恩でできました」と言われる。

「ご恩をいただく」と言う時、「いただく」私が先に存在していることが前提になります。
私がいて、その私が さまざまなご恩をいただく。
その発想では、いただいたご恩に対して選り好みをしてしまいます。
あのご恩はありがたかったけど、このご恩はいらなかった(そんな言い方はしないですけどね)。

「ご恩でできました」と言う時、いくつものご恩が積み重なって、今の私がいるんだなぁということが実感されます。
ひとつだけじゃない、いろいろなご恩の積み重ねによって、今の私が出来上がった。
いろいろなご恩…そう、良いご恩だけでなく、つらいご恩、悲しいご恩も含めて。
あんなことさえなければ、どうしてこんな目に遭うのかなんて悲嘆してしまう出来事も、すべて私を成り立たせるためのご恩だった。

才市さんのことばに出会ったとき、
「ご恩をいただきました」ではなく、「ご恩でできました」と表現されたのを聞いたとき、
有り難い いのち の、
感謝してもしきれない(済まない) いのち の根っこに触れたような気がしました。

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コメント

最近は数時間の外出は出来るようになってきたので、昨日は久しぶりに聞法会へお邪魔させていただきました。やはり御同朋さん方と聞法の座を共にさせていただくことが出来るのは嬉しいことです。  「自分が真に欲するところ」という言葉で「しかれば名を称するに・・・能く衆生の一切の志願を満てたまう。」の「志願」を思っていました。最後の「自分を本当に愛する」は「私はご恩でできました」との才市さんの言葉や「親鸞一人がため」を思っていました。本当の命は南無阿弥陀仏しかないな、と感じさせられています。それでもお念仏を忘れていることが多い私です。ありがとうございました。

☆まつ様 こんにちは
昨日は聞法会にお出かけいただき、私の拙い話にお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
「自分を本当に愛する」ということを「私はご恩でできました」ということばに見出されたこと、驚きであり、感動です。
「ご恩でできた」私ゆえ、愛することができる。昨日、お話いただけたらよかったですね。
来月は「親鸞一人がためなりけり」がテーマになると思います。「法」ってつながっているんだなぁと感じております。
来月の聞法会、お待ちしております。またお話しましょう。
ありがとうございます。

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