« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006年5月

2006年5月31日 (水)

あなたは本当に…

食器を洗っていて、また割ってしまいました(><)
 朝食時に ヨーグルトを入れてた青い器
 家族の人数分しかなかった器
 お気に入りの器
 高価な器
   
私 「ごめんなさい。また割っちゃいました (ToT)」
坊守「あなたは本当に よく食器を洗う子ね (^∇^)」

冗談で「弁償ね」とは言われましたが、それだけでした。
内心は(^-^;)だったかも。
 いや、∑(゚∇゚|||) ぐらいだったんじゃぁ…。


割れた器を集めて、燃えないゴミ用のゴミ箱に捨てました。
「ごめんね、青い器さん (-人-)」

2006年5月30日 (火)

自分で自分を…

自分で自分をほめたいと思います
というのは、アトランタオリンピック(1996年)で銅メダルを獲得したときの有森裕子さんの名言として有名です。ことば と、ことばを発する人のやってきたことがピタリと合っていると、ことばも人も輝きを増しますね。
         
         
     
朝食時の会話
坊守 「私、まだまだ若いからね^^」
住職 「自分で言っちゃうからなぁ」
坊守 「あら、自分で自分をほめてあげなきゃ

自分で自分をほめてあげないと、誰もほめてくれませんからねぇ。

自分を追い詰めて 追い詰めて、しかも結果を出して、自身を持って「自分で自分をほめたいと思う」って言えることも凄いし、素敵だし、そんな人は稀です。
でも、生きていること自体凄い経験。そんな日々を過ごしている私を、こころの底からほめてあげられるのって、実は自分だけかも。自分で自分をほめてあげないで、誰が私をほめてくれますか?

誰もほめてくれない?
誰も認めてくれない?
自分がやっていることに迷いがある?
このままでいいのだろうか? 

先ずは自分で自分をほめてあげてください!!
自分で自分をほめてあげなきゃね^^


2006年5月29日 (月)

肩書き

メダリストは、その後どう生きるかによってメダルの輝きも変わる
                                 有森 裕子

マラソンの五輪メダリスト 有森さんは、競技から退いた後、国連人口基金親善大使として活動を続けられています。
4年前に親善大使を引き受けられてからアジアやアフリカを回り、不衛生な環境で出産・育児に取り組まざるをえない女性の姿を目の当たりにしてきました。環境改善や貧困解消のために自分が出来ることをしていきたいと、世界の現状を訴える活動をされています。
                    (2006年5月27日 読売新聞夕刊より抄出)

メダルを獲った後の生き方でメダルの輝きも変わってくる。
メダルに限らず、肩書き・経歴・今までしてきた仕事が 自分に付加価値を与えてくれると勘違いしてしまいがちです。
名刺の裏や年賀状に溢れんばかりに肩書きを書いてくださる方がいますが、そういうものを拠り所にしてしまう弱さ・心細さって誰もが持っています。

しかし、肩書きによって この私が輝かされるのではなく、
肩書きを輝かすのも、おとしめてしまうのも、この私。
肩書きを名乗るということは、それだけ責任がついてくるということ。   
       
   
もちろん肩書きやメダルを輝かせることが目的で生き方を選ぶわけではない。
生き方そのものが自然と輝いてくる。
ある人の生き方に 感動・共感・尊敬した人にとって、その ある人は自然と輝いて見える。
そういう人に出遇えたら、私もなにか影響を受けるはず。そんな私もいつの日か輝き増す日がきっと来る。
輝きの相乗効果が生まれてくる。   
    
メダルだけじゃない、肩書きだけじゃない、経歴だけじゃない、
私の生き方によって、私の周りにいる人たちが より輝いてくる。

2006年5月28日 (日)

生まれたかったんだよ

人は、縁によって生かされている。
自分が思い立って成したことは なにもない。
というようなことをブログで書いてるし、法話で話してもいます。
それなのに「人は、自分で望んで生まれてきたんだと思います」って言い切りました。
矛盾してるなぁ…って思います。


昨日、ご法話を聞きに行って来ました。
先生も「人は生まれを選べない。気付いたら、この身を受けて生きていた」って話されていました。
そうですよね。そうなんだけど、でも「自分で望んで生まれてきた」ってことは外したくないんだよなぁ。

「悪人」について書きました。「悪人」とは、「罪を犯した人」という意味ではなく、「煩悩を持つ身」という意味ですって書きました(簡単に書きすぎですが…)。
煩悩にもいろいろあるわけです。私は、さまざまな欲望を持っている。
で、人間一番始めに持つ欲望が「生まれたい」って欲望かもしれない!
そんなことに想いが至りました。
欲望は、叶ってしまうと忘れてしまうもの。
生まれた瞬間に「生まれたい!」って欲望を忘れちゃったんじゃないかな。
だから「自分探し」とか「やり甲斐・生き甲斐探し」をしてしまうのかな。

2006年5月27日 (土)

阿弥陀如来

真宗の基礎的なことに立ち返ったのは、“悪人”について考えたかったのではなくて、阿弥陀如来のことを想ったから。

如来…“如”より来るもの。 “如”とは真実なり。

真実は分からないもの。分からないものだけど、実は私自身。
 私…縁によって生かされる身。必然の生と死を生きる身。

阿弥陀如来は、この私自身だった。
    
    
真宗の教えで、
“悪人”を他者に見るのではなく、
私こそ“悪人”でしたと感得する自己内省が大切ですと教えられる。
でも、阿弥陀如来を外に見た自己内省は反省にすぎない。    
自分自身が内省(反省)するのではない。
内なる阿弥陀如来が呼びかけてくださっている。ずっと前から。これからもずっと。
そんな大きなはたらきを受けながら、私は生かされている。
すでに自己内省のいのちを生きている。
私がするのでも、感得するのでもなかったんだなぁ。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

2006年5月26日 (金)

悪人

悪人正機・悪人往生と表現される親鸞聖人の教え。

悪人こそが正しく救われる機(人)である。
悪人こそが往生できる。

初めて聞いた人はビックリする。
「えっ、悪人こそが救われる?」
「善い行いをする必要がないじゃないですか。みんな悪いことをしてしまいますよ」

親鸞聖人の名をかたって、悪事を勧める人もいる。
「親鸞聖人は悪人こそが救われるとおっしゃっています。みなさんも、気にしないでかまわないのです」

浄土真宗のお話を聞いた人は、
“悪人”とは、罪をはたらいた人のことではないことに気付く。
“悪人”とは、煩悩盛んな者を意味することを教えられる。

ちょっと聞きかじっただけの人は、
煩悩盛んな者を、他者に見てしまう。

「煩悩盛ん」と聞くと、性欲・食欲・睡眠欲などの欲求が盛んな人を連想する。
でも“煩悩”と言ったら、妬み(ねたみ)・腹立ち・嫉み(そねみ)を含む。
喜んだり、笑ったり、泣いたり、悲しんだり…それらすべて煩悩のなせる業。

ここまで読んでいただけた方はもうお気づきですね。
“悪人” “煩悩盛んな者” つまり、私自身ということを。

親鸞聖人の「悪人正機」「悪人往生」のおしえとは、「悪人こそ救われる」という教えではなく、
生きとし生けるもの、すべての衆生が救われるということ。

そんな“悪人”を救ってくださるのは、阿弥陀如来。

2006年5月25日 (木)

真実

「生は必然 死も必然」という内容の記事を前回書きました。
書いてから いろいろと考えてます。

子供が犠牲になる事件・事故が増えています。
ニュースを目にしたり、悲しみを感じている人の話を聞くと こころが痛みます。

「生は必然 死も必然」
そう書いた想いに偽りはないし、
人間の、いや、生きとし生けるものすべてが背負っていることだと思います。

そうなんだけど、このような事件・事故を見聞きすると、ユラユラしてしまう。
悲しいのは 子供に限った話ではない。
誰が亡くなっても、どのように亡くなっても、悲しいし つらい。
でも「生は必然 死も必然」。

生まれたのだから、いつかは死ぬ。分かりきっていること。言ってしまえば、“真実”。
でも、その分かりきっていることで、人は悩む。
“真実”が分からない。 いや、“真実”だからこそ分からない。

事件・事故の被害に遭われた方は「真実が知りたい」と切望する。
報道する方は「真実を伝えるのが仕事」と言い切る。
真実を知り、真実を伝えることが出来たとして、それで満足出来るかといえば、そういうものではない。真実を知ってしまったがために、今まで以上に苦しむことがある。真実とは、そういうもの。

でも、私たちが知りたがっているのは、“真実”というよりも“事実”。
“事実”は調べれば分かるけれど(分からないことだって ありますが)、
“真実”は人知を超えたところにあるもの。分かるとか分からないといった次元をはるかに超えている。

人知の次元をはるかに超えているからといって、果てしないところにあるものなのか、考えなくてもいいことなのか、理解不能のことなのか。
いや、私の目の前にあって、考えるまでもなく、理解しようと試みなくても既に私に身についていること。
 それが「生は必然 死も必然」。
  それが 避けられないもの。 
   それが “真実”。

でも、ユラユラしながら生きていくのが私。

2006年5月22日 (月)

避けられないもの

死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ
                            チャップリン

生は偶然 死は必然 

うん、そうなんだけど 私は、この世に生まれてきたのは、「生まれたい!!」っていう自らの意思があったからだと思っています。
「おかしなことをいうなぁ」って思われましたか?
そうですね。以前、そういうことを公の場で言ったら、「あなたは面白いことを言いますね。生まれる前に意思があるわけないでしょう」と言われたことがあります。
うん、常識的に考えればその通りかもしれない。
それでも私は、生まれて、生きていることは自分の意思なんだと思っています。
避けられない現実。だけど、自分で望んできたこと。望んで生まれてきた。
それなら、「死」も望んでいいのか?
いや、「死」は望むことではない。望まずともいつか「死」はやってくる。
「生」は、望んだからこそやってきた。

生は必然 死は偶然

「偶然」って表現すると、軽く感じられてしまうかもしれない。
でも、偶然の出来事は、必然を含んでいる。
結局は

生は必然 死も必然

私にとって必然の出来事は、避けることができない。
私を成り立たしめるために起きた出来事なのだから。

「避けられない」
逃げたい出来事から逃げられないという意味ではない。
私の身に、起こるべくして起こる出来事。
うん、それじゃぁ避けられないですね。

2006年5月19日 (金)

落ち葉の季節

落ち葉の季節というと、“秋”を連想しますよね。

でも、葉っぱって年中散るんです。
今日も 午前中掃除をしていたのですが、70リットルのゴミ袋がいっぱいになりました。ふた袋。

この時期の落ち葉は、新しい葉が生えて 古い葉が散るので、枯れた葉なのです。
秋は“落ち葉の季節”というイメージがあるので、落ち葉が散らかっていても「あぁ、秋ですねぇ」って感傷的にもなりますが、今の時期の落ち葉は風物詩的なイメージもないし、見た目にも汚いので感傷的にはなれません(落ち葉さんごめんなさい)。

掃除をしながら考えていたこと…
大学を出て 寺に戻ってきた頃は、毎日毎日朝から晩まで掃除をしてたなぁ。最近は一日フルに掃き掃除をすることもなくなったなぁ。なんでだろう?

今は、午前中は掃除して、午後は法話を聞きに行ったり、法務があったり、教化活動の会議があったり…。忙しいっていうほどでもないけれど、時間が足りない感がとてもする。
なんでそんなに時間が足りないんだろう(時間の使い方が下手なだけなんですけどね)。

時間のことだけじゃなくて、ここ数年で境内の木の数がかなり減ったなぁ。
いろいろ理由はあるけれど、木が減りました。減ったのに、木が鬱陶しいという苦情が来るときもある。「自然があっていいですねぇ」って言ってくださる人もいる。
同じ景色を見ていても、人の こころは十人十色。「自然があっていいですねぇ」って言える人になりたいなぁ。


枯れた墓地花…見てるだけなら、ただの枯れてしまったお花。見た目にも汚いし、腐った水のにおいがする。
集めていると、「こないだお参りにみえたのに、もう枯れちゃったね。暑くなってきたんだね」なんて会話してしまいます(あぶない?)。

掃除をしながら、いろんなことを考えています。
掃除の時間は、とても大切な思索の時間です。

2006年5月18日 (木)

人間が好き

森達也さんのお話の続き(最終回)

友人「森さんのお話を聞いていて一貫しているなぁって思ったことは、『私たちが望んだ結果である』ということです」

(私の感想)
今までに起きてきたこと、今起きていること、これから起きていること、すべて私たちが望んだ結果起きている。どんな出来事も、事件も、事故も、事象も。オウムのことや戦争のことだって。
「そんなこと、私は望んでない!!」
「そんなことを望むわけないだろう!!」
なんて思う人もいることでしょう。当然の反応だと思います。
でも、「見て見ぬふり」「人のせいにする」「誰かがやるだろう」「私には関係ない」「どうでもいいや」ってことの積み重ねが今起きているすべての物事。
「望む」というと語弊があるかもしれない。でも、私たちが「それで良し」としてきた結果が今。

そんな今を作り出してきた私たち。
しょうがないなぁ、ろくでもないなぁって悲観してしまうけれど…
    
    
友人「お話している森さんの根っこの部分には『人間が好き』って想いがあるように感じました」
   
(私の感想)
「人間が好き」
友人がそう言った瞬間、スッとした気持ちになりました。森さんの本を読んでいて暗い気持ちにならないのは、そういう森さんの想いが根っこにあるからなんだ!! 本の題名にもなっているけれど、「世界はもっと豊だし、人はもっと優しい」という想いが。

「人間が好きです」なんて言ってしまうと嘘っぽいけれど、
言わなくても、話の中から、その人自身から「人間を好き」という想いが満ち溢れて、伝わってくる。そんな人がいるんだ!! そんな話が出来るんだ!!

あぁ、お話を聞きに行けばよかった(TT)
   
    
(おまけ)
森さんの講演を聞きに行った友人に お話の内容を聞いて4回に分けて書いてきました。森さんの話を直接聞いてもないのに 申し訳なく思いながら書いてました。
話の内容を語ってくれた友人が とても嬉しそうに話してくれたので、「あぁ、良い場だったんだなぁ」ということを強く感じました。
しかも、実際に話を聞いていない私がこれだけ書いてしまうほど、話を聞かせてくれた。つまり、それだけ「私はこう聞きました」ということがシッカリあるということ。この人(友人)は、“聞く”ということが出来る人なんだなぁって、うらやましく思いました。
私はそういうことが苦手なんです。お話を聞きに行って、友人や親から「どんな話だった?」って聞かれても答えられないのです。「う~んと う~んと…」「え~っと…楽しかったよ」(そんなことを聞いてるんじゃない 怒)
感動したり、心に残っていることはあっても、うまく表現できないのです。つまりは本当に聞いてはいないということなのでしょう。

聞いた話だけではなくて、自分が話した内容もです。
5月15日によそのお寺の永代経法要の法話を頼まれて お話をしてきました。で、その晩に坊守(母)から「今日はどんなお話をしてきたの?」と聞かれて、説明できませんでした。もう一度話せと言われれば話せますけど、要約することが苦手なのです。
森さんのように根幹を成すものが無いからなんでしょうね。

あぁ、聞き上手になりたい(TT)

2006年5月17日 (水)

ひつじとやぎ

森達也さんのお話の続き

友人「森さんがモンゴルに行ったときにね…」

モンゴルで いくつもの羊の群れを見かけたんだけど、必ずヤギが群れの中にいたそうです。
なぜでしょう?
羊って、その場から動こうとしないんだそうです。
自分たちが今いる場所の草を食べ尽くしてしまったとします。そしたら、次の餌場に移動しそうなものですが、動かないんですって。じっとそのまま。移動するという発想がないそうです。それだと終には飢えてしまいます。困った困った。
そこでヤギの登場です。ヤギは良い意味でも悪い意味でも協調性が無い。だから、勝手に動き回る。
でも、そのヤギのおかげで 羊たちもヤギと一緒に移動するんだそうです。で、新しい餌場にたどり着き、飢えることがないそうです。
   
このお話はいろいろな捉え方が出来ると思います。
羊を私自身に置き換えることもできます。羊を日本人に譬えることもできます。
自分からは動かないけれど、いいなぁと感じる指導者が現れたら、ヒョイヒョイ付いていってしまう。
組織の中における、反体制の人間の必要性に譬えることもできます。
いいなりになる従順な人間だけ揃えても、組織は機能しないし、やがては潰れてしまいます。

森さんは、特に何かに譬えたわけではないけれど、
視点を変えることの重要性を説かれたそうです。
人・物事にはいろいろな側面がある。正面から見えるものがすべてではない。
それなのに私たちは 自分が見た一面だけで物事を判断・決め付けをしてしまう。
視点を変えることによって今まで見えなかったものが見えるようになる。そうすると、人は優しくなれる。他人に対しても。自分に対しても。
    
    
私にとってのヤギさんは、外部にいるのではない。自分自身の中にいる。
動こうとしないのも私。新たな一歩を踏み出させるのも私。

2006年5月15日 (月)

今の日本は?

昨日の続き。森達也さんのお話より。

友人「こういう言葉を紹介されていました」

政策を決めるのはその国の指導者です。
そして国民はつねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。
国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、
平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。
このやりかたはどんな国でも有効です。

        ヘルマン・ゲーリング(ドイツの政治家・軍人)
   
   
ここからは私の感想
う~ん、なるほどなぁ。言い当ててるなぁと思いました。
ただ、このことばは、
“指導者”的立場の人が言うのか、
“国民”的立場の人が言うのかで 内容や重みがまったく変わってしまうと思う。


“指導者”的立場の人が言ったのなら、
国民を弄んでいる。自分の思い通りにしようとしている。
“国民”的立場の人も、どうにかしようという気持ちがない。

“国民”的立場の人が言ったのなら、
いろいろな道筋が見えてくる。
“指導者”的立場の人の私利私欲のままにはさせない。

で、発言主は“指導者”的立場にあった人。
戦争って敵国を攻めて起こるのかと思ったけど、自国民の危機感を煽れば戦争は起こせるんだ!! 簡単に。

今の日本は?

2006年5月14日 (日)

ぬくもり?

森達也さんの講演会を聞きに行く予定でいたのですが、用事が出来てしまい、残念ながら行けませんでした。で、講演を聞きに行った友人から、話の内容を聞きました。

印象に残ったお話を

歩いていて、前の人の踵(かかと)にぶつけてしまうことってありますよね。
あるいは、満員電車の中で、人の足を踏んでしまうことも。
そんな時、日本人は どうしますかね。わざとじゃないということで、謝れば済みますよね。「すみません」「気をつけてね」って。足を踏まれた、肩が触れたで喧嘩になることもありますが…。
モンゴルでは、足をぶつけてしまった場合、先ず握手をするそうです。そこで一拍おくことによって、冷静になれるのでしょうね。

その話を聞いて、「へぇ~」って感心してしまいました。
もう少し詳しく調べてみようと思ってネットをカチャカチャしてたら、すでに「トリビアの泉」で取り上げられていました。もしかしたら「それテレビで見た」って思った方もいるかもしれませんね。


私「それって、法律とか条例のようなもので決められたことなの?」
友「いや、習慣らしいよ」
私「よく習慣として定着したねぇ」

なぜ足をぶつけたときに握手をすることが習慣として根付いたのか(ここから先はトリビアでも取り上げられてない話ですよ)。
モンゴルの人々は、遊牧民です。自然の中で生きているわけです。そのため、ナイフを常備することとなります。野草を切ったり、野生の動物に襲われた時のために。
それが、急激な都市化が進み、人が密集したところで生活するようになります。しかもナイフは持ち続けているわけです。そうすると、足を踏まれてカッとして つい…なんてことも起こるわけです。まさに生き死にの問題です。
そこで、どのようにして握手をするということが提案され広まっていったのかはわかりませんが、生きるための知恵として、先ずは握手をするということが習慣として根付いていったそうです。
守らなければ死につながりかねないことですから、みんな必死だったのでしょう。
日本は、公共の約束事を破ったところで たいした罰も受けないし、死に結びつくようなこともほとんどないので(最近はそうとも言えないか)、ぶつかった際にとりあえず握手なんてことが定着することはなさそうですね。
   
   
私「日本でそういう決まりごとが出来たら、キャッチセールスやナンパに利用されそうだよね」

なんてことを笑いながら友人と話していたら、
トリビアの補足で「最近はナンパに利用する者もいる」って書いてありました。
考えることは一緒ですね。
    
(追記)    
握手すれば体温を感じるし、体温を感じれば 怒ることもカッとなってしまうこともない。
いい習慣だなぁって思いました。
でも、外国では挨拶で抱き合う ハグする国もありますよね。あれは、武器を持っていませんよってことを示すためだと聞いたことがあります。
抱き合う、握手する
 …あたたかい行為のようだけど、信用していないってことの裏返しなんだなぁ。
今日のタイトルを「ぬくもり」とか「あたたかさ」って付けようと思ってたけど、悩んでしまいました。

2006年5月13日 (土)

阿弥陀さん 阿弥陀さん

阿弥陀さんは実際においでになるかと聞かれる
そう言う貴方自身は 実際に有るのですか

                 暁烏 敏(あけがらす はや)

宗教離れ・仏教離れが言われて久しいけれど、カルチャースクールとしての仏教講座は人気があるらしい。
寺には入りづらいけど、カルチャースクールは入りやすいんだろうなぁ。
智慧の学びとしてではなく、知識の学びとして仏教を学ぼうとされているんだろうなぁ。
だから、寺で住職の話を聞くより、カルチャースクールで“先生”と呼ばれる人のお話を聞いた方が ためになる気がするのでしょうね。
          
知識として学んでいると、阿弥陀さんを実存として考える人も出てくる。
いるのか いないのか。存在するのかしないのか。
いたら信じるのですか? いないのなら信じられないのですか?

私が 今 ここに こうして 有ることが、なによりも阿弥陀さんがいることの証だと思います。
思うのですが、私がハッキリしないから 阿弥陀さんもハッキリしない。
阿弥陀さんの存在がハッキリしないのではなくて。

阿弥陀さんは実際においでになるのですか?
阿弥陀さんはいると信じている人のところにいるのが 阿弥陀さん。
阿弥陀さんはいないと思っている人のところにもいるのが 阿弥陀さん。

2006年5月12日 (金)

ありがたい偶然は 必然

ありがたい偶然は 必然って言うんだよ
話をしていて、ふっと出てきた ことば。
自分でも驚いた。
 「ありがたい偶然は 必然かぁ…」(こころのなかで噛み締める)
   
  
ご恩でできた私。
いろいろな出会いがあった。 いろいろな出来事があった。
そのうちの ひとつ が外れただけでも今の私はいない。

出会いが出会いをふくらませる。
ある人との出会いが、ほかの人との出会いに広がる。
ある出来事によって、新しい道が開かれる。
ある人との ある出来事との出会いによって、私の感情・気持ちが大きく変わることがある。
殻に閉じこもっていた私の想いが、大きく開かれる、正反対に転換されることがある。
出会いが私を成り立たせる。

反対に、嫌な人との出会い、二度と起きてほしくない出来事との出会いもある。

「“ありがたい”偶然」って言うと、「“ありがたくない”偶然」もあるように思ってしまう。
自分の希望通りになったとき、自分に有利になったとき、感謝するとき、「ありがたい♪」と言うけれど、「“ありがたい”偶然」の “ありがたい” は、そんな「ありがたい♪」ではない。
突き詰めれば、すべてが「ありがたい偶然」。つまりは必然だったということ。
あの出会いも。この出会いも。

有ること難い偶然の連続・積み重ねで今の私ができた。
良い出会い 悪い出会い…自分で色分けしてしまうけど、出会いはすべてが必然。良いも悪いもない。
私を成り立たしめるために ありがたい偶然が積み重なった。
いや、ありがたい偶然の積み重ねによって 私ができた。
    
     
そういうことを考えていてネットを散歩していたら、
出会いは必然。会うべきして会う
という ことば に出会いました。
(本山 東本願寺の青少幼年センター準備室 のHPです)

想いを持って生きるということは、その想いにつながる何かに出会えるものですね。
それも「ありがたい偶然」の積み重ね。つまりは必然。
               南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

2006年5月11日 (木)

いのちの根っこ

親鸞聖人がお示しくださったお念仏の教え…「ただ念仏」。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏称える生活を、喜びを持って実践された念仏者を妙好人(みょうこうにん)と言います。

昨日の記事に書いた 浅原才市さんも妙好人として知られています。
その才市さんが、

ご恩思えば みなご恩 この才市も ご恩でできました

と、おっしゃっています。
この ことば を初めて聞いたとき、「ご恩でできました」というところが響きました。

「ご恩」というと、「いただく」と言いたくなりませんか?
「ご恩をいただきました」と言いそうなところを 「ご恩でできました」と言われる。

「ご恩をいただく」と言う時、「いただく」私が先に存在していることが前提になります。
私がいて、その私が さまざまなご恩をいただく。
その発想では、いただいたご恩に対して選り好みをしてしまいます。
あのご恩はありがたかったけど、このご恩はいらなかった(そんな言い方はしないですけどね)。

「ご恩でできました」と言う時、いくつものご恩が積み重なって、今の私がいるんだなぁということが実感されます。
ひとつだけじゃない、いろいろなご恩の積み重ねによって、今の私が出来上がった。
いろいろなご恩…そう、良いご恩だけでなく、つらいご恩、悲しいご恩も含めて。
あんなことさえなければ、どうしてこんな目に遭うのかなんて悲嘆してしまう出来事も、すべて私を成り立たせるためのご恩だった。

才市さんのことばに出会ったとき、
「ご恩をいただきました」ではなく、「ご恩でできました」と表現されたのを聞いたとき、
有り難い いのち の、
感謝してもしきれない(済まない) いのち の根っこに触れたような気がしました。

2006年5月10日 (水)

すみません

「すみません」
謝って、それで済ませた気持ちになってなかっただろうか。
それで済ませた…そう、「すみません」って「まだ 済みません」ってこと。

何が済まないのか…いただいている ご恩に対する感謝
“感謝”って書くと、ことばで表わしたり、誠意を示したりしなきゃと思ってしまう。
でも、どんなに謝っても、感謝しても、誠意を示しても、しきれないという意味での「すみません」
謝らなくていいとか、無駄とかいう意味ではなくて、
どんなに「すみません」と言っても、済まないほどのご恩をいただいて 今の私がいるという事実。

「すみません」
謝意のことばではなくて、今を生きているありがたさを想うことば

「すみません( -_-)」って暗い顔をして言うものではなくて、
「すみません(^-^)」って笑顔がこぼれてくるものなのかもしれない。

ご恩思えば みなご恩 この才市も ご恩でできました
                          浅原 才市

「この才市も」の「才市」の部分に自分の名前を入れてお読みになってみてください。

2006年5月 9日 (火)

ありがとうございます

「ありがとうございました」
と、つい言ってしまうけど、
感謝の気持ちが過去形になってしまうことはない。
過去形にしてしまってもいけない。
それともサッサと忘れてしまいたい感謝なのかな?

「ありがとうございました」と言ったからといって、
べつに過去形にしたつもりはないけど、
「ありがとうございます」の響きが美しい。

「先日はありがとうございます」
文法的に「おや?」って思われるかもしれない。
でも、感謝の気持ちは現在形。
   
   
いつもお読みいただいて ありがとうございます^^

2006年5月 7日 (日)

自分がずれている

ご法事で、ご本尊(阿弥陀如来)の正面に着座したとき、「あれ?」と思いました。

「あれ? 阿弥陀さん 右にチョットずれてないかなぁ?」

なんて思ったのですが、私の座る位置が左に数cmずれてただけでした。

自分を疑うことなく、自分中心に考えてました。

2006年5月 6日 (土)

GW日記(その2)

今日、ご法事を頼まれ、珍しく門徒さんのお家に出かけてきました(東京では、ご法事の場合 寺に集まってもらうので、門徒さんの家に行くことが滅多にありません)。

表参道駅近くの交番前で待ち合わせ。
(午前10:30頃、表参道の交番前で袈裟を着て立っていたのは私です。誰か目撃しました?)
交番前から通りを挟んで反対側、たくさんの人だかりでした。たくさんの人に、パトカー・救急車・消防車・マスコミの車。何があったんだろう?と眺めていました。
寺に帰ってから夕刊を見たら、表参道の地下鉄入口の階段に車が突っ込んだという記事と写真が載ってました。
あぁ、こんな事故があったのか。人がたくさんいる場所・時間なのに、けが人は車に巻き込まれたオートバイの運転手だけ。よくそれだけで済んだなぁと思いました。車道から地下鉄入り口まで、歩道を横切っているので、人が歩いていたら大惨事になるところでした。

表参道から原宿方面に歩き、表参道ヒルズの前を通りました。
入場規制をしてました。ビルの前にどれだけの人が並んでいたことでしょう。
やっぱりお休みの日って、皆さんこういう所に行くものなのですね。墓地を探しているわけでもないのに霊園見学に行く人なんて稀でしょうね^^(昨日の記事)。
土曜・日曜・祝日はお寺でご法事があるものですから、外を出歩く、ましてや表参道や原宿を昼間に(袈裟を着て)歩くことなんてないので、新鮮な感じがしました。

それから 門徒さんのお家でご法事をお勤めし、お昼をご一緒させていただきました。
とても美味しかったです。

2006年5月 5日 (金)

GW日記(その1)

今日、ある霊園に行ってきました。
新聞によく霊園の広告が挟まってますよね。きれいな景色の中にある霊園。どんな所なのか一度見てみたかったので、行ってきました(偵察じゃないですよ^^)。
霊園は広くて眺めも良かったです。
車も少なく、渋滞も無く霊園に着きました。
お彼岸には 霊園に続く道は大渋滞だと聞きますが、ゴールデンウィーク中にお墓参りに出かけるご家族は少ないのかな。霊園でも数える程度の方しかお見かけしませんでした。お墓参りの穴場ですよ。

行った霊園では、ペットも合葬できるお墓を分譲してました。
 生前のワンちゃんやネコちゃんの写真が焼き付けてある墓石
 足跡を彫ってある墓石
 亡くなられた人の戒名とペットの名前を並べて彫ってある墓石
可愛がっていたんだなぁっていうのがとても伝わってきました(私はなにも飼っていませんが)。

ペット合葬可を売りにするということは、それが普通は認められていないということ。
“お墓にペットを一緒に納骨するものではない”という意識が強いからでしょうか。
個人的には、ペットも同じお墓に納骨してもかまわないと思っています。衆生(生きとし生けるもの)なんだから、分けることもないのに。
抵抗ある人が多いのかなぁ…多いのでしょうね。

すがすがしい風に吹かれながら、そんなことを考えていました。

2006年5月 4日 (木)

親しいということは…

子連れのお母さんとお話をしていて・・・

私(子供に)「お母さんを困らせちゃいけないよ」
子供「うん(^-^)」
お母さん「でもね、この子に困らされて、うれしいと思えるんです。なにも手がかからなかったら淋しいし。手をかけさせてくれてありがとうって思います」

そう言われた瞬間、ハッとしました。
4月28日に「迷惑をかけずには生きて行けない私」ってブログにアップしました。
うん、迷惑をかけたくないと思っていても 迷惑をかけずには生きていけないんです。私は。
ということは、迷惑をかけられずに生きてはいけない私でもあります。そこの想いが欠けてたなぁ。
親しくなればなるほど、近くなればなるほど、迷惑はかけて かけられての関係が深くなるもの。
迷惑をかけない人を良しとして関係を築くものではない。

迷惑をかけてくれてありがとう
そんなふうに言える関係があるんだなぁって感じました。

ありがとうございます

2006年5月 3日 (水)

無駄

5月1日と2日の記事に共通したことばが出てきます。…「無駄」です。

1日
多いつもりで少ないのが 分別
少ないつもりで多いのが 無駄

2日
人生には何ひとつ無駄なものはない

かたや多いものとしての「無駄」
かたや「無駄」なものはない
比べるものでもないけれど、矛盾するかなぁ、「無駄」ってなにかなぁ、などと考えていました。
       
      
少ないつもりで多い「無駄」は、私が作り出すもの。
時間やお金の浪費とか、
まだ起こりもしない出来事を心配しすぎて何も出来なくなったりとか。

「無駄」なものはなにもないと言われる時の「無駄」は、私に与えられるもの。
阿弥陀さまはあなたならこの苦しみを受け入れられると思って あなたに与えてると思うの
神様はその人が乗り越えることができる困難をその人に与える
ということをこのブログでも何度か書いてきたけれど、このことだなぁって感じています。

で、せっかく与えられたものを「無駄」にしてしまうのも、「無駄なものじゃない」って引き受けていくのも、この私。


2006年5月 2日 (火)

人生には何ひとつ無駄なものはない

2年前に長崎に行ったとき、遠藤周作文学館に行って来ました。
海が見えて、景色も建物もとてもきれいな所でした。
館内も、遠藤周作さんのことが好きな人が作ったんだなぁって感じられるつくりでした。
館内の書籍棚を見ていて、
『人生には何ひとつ無駄なものはない』という本が目に留まりました。
遠藤周作さんの著作の中から ことば を集めたものです。

人生の意味が初めからわかっていては我々は生き甲斐もない。
人生の意味がなかなかわからぬから、我々は生きる甲斐もあるのだ。

                         『愛情セミナー』

人生は抱き締めれば抱き締めるほど、燦然たる光を放つようになります。
                         『あなたの中の秘密のあなた』

このような、遠藤周作さんの著作から ことば が選ばれて475個も載っています。
読む度に、違う感想・感動が。
こころが動いているからですね。

棚から この本と、『深い河』のハードカバーを取り出して、買って帰りました。
『深い河』は文庫で何度も読んでいたのですが、ハードカバーを見たら、買いたくなってしまいました。
うまく表現できないのですが、『深い河』を初めて読んだとき、書かれている内容が自分の中で立体的にイメージされました。それまで本を読んでも平面的なイメージしか湧かなかったのですが(言ってることが分からないですよね。ごめんなさい)。

2006年5月 1日 (月)

2006年5月のことば

Pict0277
  高いつもりで低いのが教養
  低いつもりで高いのが気位

風薫る5月。いささか気候が不順ではありますが、日中の日差しが心地いい季節になりました。
新緑が目にまぶしく、ツツジが色鮮やかに咲いています。ふと空を見上げると、鯉のぼりが目に入りました。青く澄み切った空を 気持ちよさそうに泳いでいます。

屋根よ~り~ た~か~い 鯉の~ぼ~り~ ♪
 
唐突ですが、鯉のぼりを眺めながら、人間にとって高いものって何でしょう?
誰がお示しくださったのか不明なのですが、「つもり違い十二訓」というものがあります。その中のことばが思い起こされました。
 高いつもりで低いのが教養
 低いつもりで高いのが気位

学歴の高さが教養の高さに比例しないことはよくご存知のことでしょう。
気位を低くしているつもりでも、低く見られると腹が立つ。自分の気位を高く保つために、見下せる人を探す。そうすれば、いつまでも自分が一番下にいくことはありません。

「つもり違い十二訓」には次のように書かれています(参考にするものによって多少 ことばが違います)。

高いつもりで低いのが 教養


低いつもりで高いのが 気位

深いつもりで浅いのが 知識

浅いつもりで深いのが 欲の皮

有るつもりで無いのが 反省

無いつもりで有るのが 七癖

多いつもりで少ないのが 分別

少ないつもりで多いのが 無駄

厚いつもりで薄いのが 人情

薄いつもりで厚いのが 面の皮

強いつもりで弱いのが 根性

弱いつもりで強いのが 我


どのような感想を持たれましたか?
 笑っちゃいました? 
 それとも腹が立ちました? 
「これって自分のことだなぁ」と感じるところがあったからこそ、笑っちゃったのではないでしょうか。そして、腹を立てた人も。
「これって、○○のことだなぁ」なんて、誰かを思い浮かべた人もいるかもしれないですね。そう思った人は、素敵なお知り合いをお持ちですね。その「○○さん」は、あなたの鏡に違いありません。他人の欠点が目に付くのは、自分自身の中にその姿があるから。「あいつは仕方の無い奴だ」という思いに とどまらず、「自分にも同じような面があるのかもしれない」という視線を持ってみてはいかがでしょう。
人ごとではない、自分の姿なんですよね。しかも やっかいなことに、直そうと思って直るものではない。自分が今まで築きあげてきたものですから。
教え・戒めのことばって「ああしなさい、こうしなさい」と指図するものではなく、私の姿を見つめさせてくれるものだと思います。私の姿も見えずに指図されるということは、今立っている所も分からずに地図を見るようなものです。
「つもり違い十二訓」…自分が今立っている所、自分の姿を照らしてくださっています。

 分かったつもりで 全然分かってなかった 私自身
 分かってなかったつもりで 実はよく分かっていた 偽りの私

     Pict0147


« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ