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2006年4月19日 (水)

遇う(あう)

昨日は「遭う」と「逢う」について書きました。
真宗では「遇う」という字をよく使います。真宗の読み物をよくお読みになる方はご存知かと思います。

阿弥陀如来如来、私を教えに導いてくれる先生、共に仏道を歩む仲間との出会いを「遇う」と表現します。

「遇」…意味は「偶」と同じ意味があります。偶然の「偶」ですね。偶然の出会いを「遇う」という。
偶然というと、思いがけずということですよね。私としては予期も期待もしていなかった。
驚きのある出会いです。
会うことが有り得なかったかも知れない出会いです。
もしかしたら 気付かずに通り過ぎてしまっていたかもしれない出会いです。
「遇う」には、会い難い教えや仲間に出会うことができたという驚きと感謝が込められています。

「偶然」の反対語は「必然」です。だけど、「偶然」には「必然」の意味がギュッと込められているように感じます。
私としては求めていなかったけれど、会うべくして遇った。
教えに、師に、仲間に出会うためのはたらきが 私に起こったのではないでしょうか。
私的には偶然の出会いだけれど、私のためには必然の出遇いだった。

親鸞聖人は「遇」を「たまたま」と読んでいます。
「たまたま」というと、偶然性が強く感じられます。
しかし、親鸞聖人の想いとしては「たまたま」の中に、遇い難い教えに 遇うことが出来た喜びが込められているように感じます。

雑感
最近、真宗の読み物を読んでいて、今までなら「遇う」と書いたであろうところを、「会う」と書いてあることが増えたように感じます。
「遇う」という使い方は一般的ではありませんし、分かりやすく読んでもらうことに気を遣って「会う」と書いてるのだと思います。
間違いではないし、そんな細かいこと言うなよと言われるところかもしれないけれど、
今日の記事を書きながら、「遇」の字に込められた想いを忘れてはいけないなぁと感じました。
驚きと喜びを


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コメント

はじめまして、誠と申します。

こちらにたどり着いたのは、さだまさしの「親父の一番長い一日」の詞の中で、
「やがて彼女を訪れる不幸に胸を痛めた」、不幸とは一体なんだったのかを知りたく
検索しているときでした。
「お寺さんのブログなんだ、どんなことが書いてあるんだろう」と、興味をもち、
ブログにでてくる言葉に、読みふけってしまいました。
読み、自分でも考えているうちに、何か言葉をのこしたく思いレスさせてもらいました。
また楽しみに読ませていただきます。
蛇足ですが、他でも彼女を訪れた不幸については分からずじまいでした。何のことなんだろう・・・

☆誠さん はじめまして コメントありがとうございます^^

誠さんのコメントを読んで、あらためて
「やがて彼女を訪れる不幸に胸を痛めた」について考えてみました。
今までは、人が生きていくうちに訪れる不幸のことだと思ってました。特に何かということではなく。
でも歌詞を読み返してみると、
「親父の一番長い日」は2番3番… それぞれで完結しているんですよね。
そう考えると、1番も1番だけで完結しているはずだから、“人が生きていくうちに訪れる不幸”なんて大きく、漠然としたものではないのではないだろうか…
歌詞の流れからいうと、兄貴の目から見たら妹は「しわくちゃの失敗作品」に見えたわけだから、“妹に彼氏は出来るのだろうか…”という心配を「やがて彼女を訪れる不幸に胸を痛めた」と表現しているのではないでしょうか。(って、書くとひどいことを言っているようですが^^;)


久しぶりに歌詞をじっくり読み返しました。
で、今までと違う目線で読めました。ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。

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