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2006年4月18日 (火)

どうして…

「どうして 私がこんな目に遭わなくちゃいけないの!?」
なんて 思ったことはありませんか?
そういう時って、「どうして!?」としか思えないですよね。

「どうして 私がこんな目に遭わなくちゃいけないの!?」
って思うということは、自分にとってそれだけ大きな出来事だということですよね。
忘れたくても忘れられないような。

「どうして 私がこんな目に遭わなくちゃいけないの!?」
って思うことがあったとき、
私は 「この出来事は私に何を気付かせようとしているのだろう?」と考えるようにしています。
もちろん、こころが落ち着いてからですよ。「どうして!?」って時に、そんな余裕はありません。

「こんな目に遭う」
自分は関係ない、自分のせいじゃない、自分に責任はないと思ってしまうんだけど、何らかの原因・理由はあるんですよね。自分にも。
それを認められずに、いつまでも「どうして!?」って思い続けるのか、
「この出来事は私に何を気付かせようとしているのだろう?」と考えて自分の糧とするのか。
どっちがいいとか言えることではないけれど、最近後者の考え方を出来るようになってきました。

そんなとき、
自分勝手だったなぁ、自分本位だったなぁ、自己中心的だったなぁって感じるわけです。
周りが見えてなかったし、私自身が見えてなかった。
そう思えたら、少し視野が広くなる。考え方の幅も広がる。思いやりの気持ちも、ちょっとは増えるかな。
だけど、また周りが、私自身が見えなくなってしまうときが来る。その繰り返しですね。
    
   
良寛さんは、1828年(文政11年)に、「三条地震(M7.4の大震災)」に被災します。
被災したときの心境を手紙に書かれています。
「災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候 
是はこれ 災難をのがるる妙法にて候」

   
初めて読んだときはびっくりしました。突飛なことを言うなぁって思いました。
台詞そのものも突飛ですが、災難に「逢う」って記しているんですよね、良寛さんは。気付かれましたか?
「遭う」じゃなくて、「逢う」です。
「遭う」は、災難や嫌な出来事に「あう」というときに使います。
「逢う」は、親しい人・愛する人に「あう」というときに使います。
良寛さんは、「災難に“逢う”」と書かれています。
地震を待ち焦がれていたわけではないでしょう。地震に「遭う」ことによって、今まで出あえなかった何かに「逢う」ことが出来たのかもしれません。今まで見えていなかった自分自身だったかもしれないし、人の優しさかもしれない。

「災い転じて福となす」とは言いますが、そうではなくて、
「災いが(転じる必要もなく)そのまま福である」という心境だったのではないでしょうか。

とても そこまでの心境には まだまだなれませんが、
「どうして!?」って出来事は、私に何かに出会わせようという はたらきなのかなとは感じられるようになりました。

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コメント

私の大切にしている言葉に「すべての営みには時がある。・・すべて神のなさることは時にかなって美しい」というのがあるのですが、最近他の方のブログでこの言葉を目にして改めて考えていたところでした。
かつさんの記事を読んで、この言葉がまた頭に浮かびました。
私も何か起きたときにまず思うのは「どうして?!」だけど・・・この「どうして」も、今がそう思うべき時なんだ、って少ししてから考えたりします。そこから出てくる何か・・考えでも行動でも、それが今自分に必要なものなのかも、って。

☆fairmoonさん こんにちは
「すべての営みには時がある」
…私もそう思います。その思いを抱えているときに、美雨さんのことばにであって、
2006年4月のことば を書きました。
何事も、その時に出遇うべくして出遇っているんだよなぁって噛み締めています。


「神様はその人が乗り越えることができる困難をその人に与える」という ことば 聖書にありますか?
私はこの ことば を目にしたとき、不思議と心がスッキリしました。

そうでした、かつさんは以前、苦しいときにその言葉を読んで気持ちが救われた・・というようなお話を書かれていましたよね、
私はそれを読んで「ああ・・」と思ったんです、なんていうか・・私は、辛い最中にいる人にこの言葉を伝えたくて、でもなんとなく躊躇してしまって伝えられなかったことが何度もあって、でもかつさんが「この言葉で心が楽になった」と言われたのを読んで、かつさんの中でこの言葉がほんとに生きて働いているんだなあって・・・感動したと言うか、すごく胸に響きました。その時は、結局コメントしそびれてしまったんですけどね^^
こうして、同じ言葉とも何度も出会いなおすことができて、嬉しいなあと思います。
かつさん、いつもありがとう。

☆fairmoonさん おはようございます
「神様はその人が乗り越えることができる困難をその人に与える」や
「阿弥陀さまはあなたならこの苦しみを受け入れられると思ってその人に与える」
こういう ことば に出遇い、支えられてきたって書きました。
前に書いてたことを覚えていてくれて、とてもうれしいです。

私はこの ことば に救われたから、法話会で紹介をしたことがあるんです。そうしたら法話が終わってから、「苦しみの渦中にいる人間に、そんなこと言わないでください」と怒られてしまいました。
私としては 苦しみの渦中にいるときに救われたので、躊躇なく話したのですが、多くの人が 聞きたくないことば なんだなぁって、思いました。
この ことば は、実験(実際体験)した人にしか染み込まないのかなぁ。
でもfairmoonさんのコメント、元気が出てきました。ありがとうございます。
外はスッキリ青空です^^

横レスでごめんなさい。

「神様はその人が乗り越えることができる困難をその人に与える」
この言葉をずっと前から知っていて、その通りだと思っていたのに、
辛い出来事があって、苦しい渦中にいると、
そんな言葉があったことさえも忘れてしまうというか。。。

だから、この言葉をかけていただいた時、
すごーく気持ちが楽になったことを覚えています。
「あ、そういえば、そうだった!私には越えられるんだ!」っていう感じで^^;
(単純と言ってしまえば単純なのかもしれませんが 笑)

あとは、その苦しい渦中にいる人自身が、
自ら、自分の状況をよくしたいと思うか、
誰かに、何とかしてもらいたいと思うかで、
この言葉の受け止め方は変わってきますよね。

ほんと、言葉は難しいけれど、
難しいからこそ、たくさんの勇気と希望と元気を与えてくれるものだと
私は思っています^^

☆りるさん ありがとう
私も、今回のような記事やコメントを書いたけれど、
つらい時はやっぱり言葉を忘れちゃいます^^;

言葉って記憶するものではなくて、
つらい時しんどい時に私に届くものなんだと思う。
逆に言えば、言葉が輝いて感じられるのは、つらい時やしんどい時。
だからこそ「たくさんの勇気と希望と元気」が湧いてくるのでしょうね。
   
   
りるさん、書きたい気持ちが湧いてきたときは、どんどん溢れさせた方がいいですよ。
遠慮はいりません^^
書けない時は書けないということが、自分が出来る表現方法。
書きたくなったときにどんどん書けるようになったら、それがその時の表現方法。
私も、3月はほとんど書けなかったのに、4月は毎日ブログを更新してしまいました^^
想いが溢れてます。

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