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2006年1月10日 (火)

信じるということ

昨日、フジテレビの「西遊記」を見ました。

玄奘三蔵は、かつての師 仁丹とその娘を救うために牛魔王を退治することを約束します。
しかし仁丹は、牛魔王と密約を交わしていました。三蔵を差し出す代わりに、娘と村は救ってくれ、と。
三蔵は捕まり、牛魔王に喰われそうになります。
謝る師 仁丹に対して三蔵は言います。
信じて裏切られたのなら本望です

ドラマを見ながら、自分だったら この師は許せないなぁなんて思いました。
見ていた方、どう思われました?

「信じる」ことの背景には、「裏切られない」という想いがあります。
「裏切られない」から「信じる」。
ところが、裏切られたりすると、その“信”は怒りや失望へと変わります。「信じたのに!!」と。
しかし玄奘三蔵は、自分が喰われそうになっているにもかかわらず、
信じて裏切られたのなら本望です」と言います。
「人を信じることの大切さ」を教えてくれた師に向かって。
    
    
師に対する“信”を貫き通す玄奘三蔵。
その反面、仁丹の裏切りに気付き、見捨てるように進言する孫悟空を玄奘は破門してしまいます。
師をののしる悟空を、玄奘三蔵は信じられなかったのです。
   
ドラマを見て感じたこと…   
ある一方を「信じる」ということは、他方に対する「不信」につながるんだなぁということ。
一方に対する“信”が強ければ強いほど、他方が見えなくなるもの。
すべてを信じようとすることは、結局すべてを裏切ることにつながる。
「信じたのに裏切られた」なんて思ってしまう私自身が、すべてを裏切ることになる。

信じるとは…
 「裏切られてもかまわない」という覚悟とともに、
 他方に対する「信じない」という覚悟もなければ、
 「信じる」と言ってはいけない。
    
     
「西遊記」…
“信じる”とか“つよいこころ”とか、今では恥ずかしがられてしまいそうなことが中心に置かれているように感じました。CG頼りのドタバタ劇かなぁとも思っていましたが、そんなことはないようですね。
これからの展開が楽しみです。

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コメント

こんにちは。
昨日の『西遊記』は私も見ました。おっしゃる通り、やたらに「信じる」という言葉を多発してました。
そこで思ったのですが、「信じる」と意識することが信じることなのでしょうか。私はこれこれこういうことを信じていますと言えば、あるいは思えば、それはそのままその人の信じているものやことについて語ったことになるのでしょうか。そのあたりがどうも不明瞭に思われます。
たとえば「私は無宗教です」とおっしゃる方が最近増えました。葬式もやらなくてよいとか、坊さんを呼ばずにお別れ会をやればよいとか、そういった傾向が強まっています。こういう方がおっしゃりたいのはつまり「私は信ずるものがない」ということなのでしょう。しかし、よくよく考えてみればその方も、「私は信ずるものがない」という考え方を信じて生きておられるわけです。決して何も信じていないのではありません。まあ、たぶんそう言ったところで、「いやいや、だから私は無宗教なんだって。何も信じちゃいないんだよ」と、話は堂々巡りとなることでしょう。
つまり、意識していないところで何かを信じているという部分が誰にでもあって、それは意識しているものよりも強固なものだったりするのではないかということです。それこそ何か強烈な出来事にぶつかり、日ごろの信条など通用しない状況に身を置かされるような経験を通して、はじめて知らしめられるようなことなのかもしれません。「ああ、自分はこんなことを信じてきたのか」と……。
そんなわけで、自分で「俺は何があってもこれを信じるんだ」と叫ぶ姿は格好良いのですが、その存在の奥底にその人自身も気がつかれてないような「信」が眠っているのではないでしょうか。孫悟空がなぜ三蔵法師についていくのかと尋ねられたシーンで、「手が温かかったからかな?」と口ごもっていましたが、彼の旅の目的はまさに眠れる「信」を探すことのように思われたのでした。
眠れる「信」なんて書きましたが、おそらく言葉ほど綺麗なものではないでしょう。今の日本だったら「金」とか「健康」とか「名誉」といった「自分の思い」を守ってれるアイテムみたいなものが大半ではないかなと思います。こういうのは面と向かって聞くと絶対に肯定する人がいなさそうなところが怪しいんですよね。臆面もなく「金でしょ」なんて言う人も嫌だけど。だけどそこをはっきりしとかないと、信じる信じないという議論も、甘い香り漂う「自分探しごっこ」に終わってしまうような気がします。

自分にかかわりのある人たち、同じ日本に住む人たち、同じ地球に住む人たちへどれだけ気づけているかといったら、知らず知らずのうちにこの1秒の間にもたくさんの人を裏切っている無関心・無神経な自分。裏切られたとふさぎ込む前に、いつも自分はどうなのかを思い出していたい。そして、同じ地球の出来事、人々の気持ちに敏感に気づけるようでありたい。今日も3食たべられて、雪の被害もなくて、こうしてブログも出来ている。何か起これば募金や献血、そんなことしか思い浮かばないけれど、いつも思いを馳せることぐらいはしていたいです。

ぼくは昨日、ジェンキンスさんのドラマを少し見ました。かつさんの記事を読んだら、来週は西遊記見てみたいなぁ^^


遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします!! 

こんばんわ!
テレビを見ない私は、西遊記もジェンスキンスさんの話もわかりません。
「信じる」について、ひとこと感じた事を・・・

「占い」信じますか?

若い方は「占い」好きですね。
と思えば、年とった方も男性も、好きな方は信じてます。

「占い信じて、ココロが軽くなるならいいじゃない」

という意見もあります。

どうして、お手軽なモノ、非科学的なモノを信じるのかな。

念仏は苦難を避けるものではない、乗り越えるためのもの。
(十派カレンダー二月より)

お手軽なモノを信じて、生きる方が増えてます。
苦難を避けるよりも、乗り越える、自分と向き合う、見つめる事を
最近、避ける方が多いような気がします。

昨年、ある若院さんに
「占い師のほうが、良心的。すぐに答えを出してあげるから・・
カウンセラーは、自分自身と向き合わせて、落ち込ませてヒドイもんだ。」(若院)
「自分を見つめて、省みないと真の矯正は出来ない」(ワタシ)
と、大喧嘩をしました。

考えると、ワタシもワタシの信じる信念により、喧嘩というコミュニケーション
ばかりだなぁ~

とほほ・・・かつさん、まとめヨロシク

            (ノ_-;)ハア…

若院さん 
お寺の跡取り息子のこと

☆ケイスケさん こんばんは
「信じる」ということでいろいろ考えておられるんですね。
以前書かれた、
「幼児とつき合ってまして、私の中に生じてくるのは、「こいつらのことを信じねばならん」っていう勇気です。いろいろ悩まされますが、核心の部分では絶対に信じてやらなければならんと強く思います」
という想いを抱くことが出来たということが“信”のように感じました。

☆一哉さん お久しぶりです。
お元気でしたか? またコメントをいただけて、とてもうれしいです。

私の場合ですが、
一哉さんがコメントで書かれていることを言うと、「そんなこと出来っこない」なんて言われてしまうことがあります。出来る出来ないじゃないと思うのだけど…。
一哉さんがおっしゃる、
「いつも自分はどうなのかを思い出していたい。そして、同じ地球の出来事、人々の気持ちに敏感に気づけるようでありたい」
という気持ちを、持ち続けていたいと思うばかりです。

こちらこそ、今年もよろしくお願いします。

☆ねこ吉さん こんばんは
私も、その若院さんが目の前にいたら大喧嘩をしていると思います。
「私は、カウンセラーより占い師のやり方が好き」と言われれば、「あっ、そうですか」って話だけど、どうして何かを誹謗する形で自分の好みを表現するのだろう?と最近感じています。批判や誹謗中傷の方が、自分を表現しやすいのでしょうけどね。
あっ、ねこ吉さんの質問から逸れてしまいました。失礼しました。
私は占いは信じない人です。でも、何かの間違いで、朝「血液型選手権」(ご存知ですか?)を目にしてしまったら、やっぱ「B型頑張れ!!」なんて応援してしまいます。ビリよりは一等の方が気分はいいです。テレビを消す頃には結果も忘れてるんですけどね。
そこで、「私は占いは信じないです」というのと、「なんで占いなんか信じるの!?」では相手に伝わるものが変わってしまいます。「あっ、そうですか」と軽く流されるか、大喧嘩になるか。
表現するって難しいですね。言おうとしていることは同じなのに、相手の受け止めがまったく変わってしまう。
すみません、また逸れましたね。

「お手軽なモノを信じて、生きる方が増えてます。苦難を避けるよりも、乗り越える、自分と向き合う、見つめる事を最近、避ける方が多いような気がします」
私もそう感じます。答を与えられたほうが簡単ですものね。
でも、もし簡単に悩みを解決してくれる答があったとしても、自分の中で答を理解・納得する作業を通さないと、その答も答にならないんですよね。でも、それすらも面倒臭がる。
誰もが答を求めるんです。それは当然です。でも、自分の頭を通す作業をしたがらない。そのために問題がいつまでも問題のままなのだと思います。結局、自分自身の問題なのです。

「信じる」ことについてブログの記事で、想うことを書きました。でも結局誰もが「ワタシの信じる信念」を基にして生きているんです。喧嘩にもなるし、意気投合することもあります。人間の“信”はそういう性質のものです。
そういう質を越えた“信”を、阿弥陀如来から与えられているんだと想います。

思うままに書き連ねてしまいました。
「まとめ」にはなってませんが、うまくまとめてしまっては“占い”と一緒になってしまいますからね(ってまとめ)。
一生宿題を背負って生きていくのだと思います。

お久しぶりです、かつさん^-^
そして、新年おめでとうございます。
明けてもう半月も経つのにね・・・
不義理でごめんなさい。

信じる気持ちと覚悟。
とても奥が深く、その芯の強さと儚さを考え直すキッカケにさせていただきます。
ようやく・・・・何かつかめそうでね。

私の場合は、もう信じられなくなってから。
そんな自分に苦しみながらの出発です。
ずっとずっと信じてた。
だから・・・・その報いがほしかった。
それが全てクリアになった時に、2人の間に何かが見えてきたような気がしています。

信じることと裏切ること。
そして疑うこと。
この三つ巴の感覚は、きっと私がこれから生きていく節目節目に、必ずや何か問いかけてくるのではないかと思うのです。

今年はぜったにまたお寺さんに寄らせて下さいね。
大戸屋行かなくちゃね^^

☆ameさん あけおめです。
私こそ不義理でした。ごめんなさい。

「信じることと裏切ること」そこに「疑うこと」も加わり、「三つ巴の感覚」と表現されるなんて、
「ようやく・・・・何かつかめそうでね」と言えるようにまでなった道程を感じます。

答が出るものではなく、
「生きていく節目節目に、必ずや何か問いかけてくる」んですよね。
私もそう思います。

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