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2006年1月 6日 (金)

横に見る世界と 竪(たて)に見る天地と 異なることを知る
                     夏目漱石、病床での日記より

「横に見る世界」は病床から見える世界
「竪に見る天地」は病気になる前に見えていた世界のことでしょね。
そのふたつが、まるで異なっていた、と。
何に対して異なることを知ったのかは分かりませんが、病気になる前となった後で、漱石の中でなんらかの転換が起きたのでしょうね。
   
   
夏目漱石のことば、1月5日の読売新聞朝刊「編集手帳」で引用されてました。
「新撰組」を見て、土方歳三の転換について記事を書いた後でもあったので、こころに引っかかりました。
   
   
病気になったり、生死に係わる局面に立った時、今まで見えなかったものが見えてくる。
世界・天地(状況や環境)そのものは、まったく変わらないわけです。でも、見え方が変わったり、今まで見えなかったものが見えたりする。私の内面が変化するんですね。
   
   
逆に考えると、
物事がうまくいっている時や健康な時というのは、周りの何も見えてないのでしょうね。
物事がうまくいっている時は、困っている人の姿が見えない。
健康な時は、病気や障害を持った人の気持ちに寄り添えない。
   
   
或いは、
物事がうまくいかず困った経験をして、そこから盛り返した時に、私はどんな行動をとるだろうか。
困っている人の姿が見える私になれるのか、姿が見えない私に戻ってしまうのか。

病気でつらい思いをして、病気が治ってから、私はどんな人間になるだろう。
病気や障害を持った人の気持ちに寄り添える私になれるのか、なれないのか。
   
   
何が見えるかが問題なのではなく、どんな人間になるかが問われているのかもしれない。
いや、そういう転換が起こるということは、私の中の“傲慢さ”を知らしめるためなのかもしれない。
病気になったり、生死に係わる局面にでも立たない限り、なにも見えていない私。
病気になったり、生死に係わる局面に立ったとしても、なにも見えないままかもしれない。     
     
私の中にある闇です。
でも、闇だからこそ光を感じることができる。
光に光が射してもなにも感じませんから。

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コメント

病気になったり、死に直面したり・・

普段と違う状況に置かれると人は、どうして良いかわからなくなる・・・

昨年の報恩講で、こんな話を聞きました。

「受け入れるか、受け入れないか」
「認めるか、認めないか」

病気の私。
死ぬかも、しれない私。

何でも、いい。助けてほしい。心の揺れを止めて欲しい、と思う私。

自分をありのまま、見つめられないから・・・
病気の自分が嫌だから・・・
痛かったり、死ぬのが怖いから・・・

「何」かにすがる。
例えば、厄払いにいく、お百度参りをしたりする。

もっと、自分を信じようよ。
見つめようよ。
認めようよ。

弱くてもいい。辛くてもいい。何か、そこに見つかるから。
安易な方法に逃げないようにしようよ。

かつさんの「折々のことば」を読んで、なんか思い出してしまいました。

そういう私は、逃げてないかな~
ここのとこ、毎朝のおあさじは、考えるところがあり自省の日々です。

☆ねこ吉さん こんばんは
実際にその状況になってみないと、人はどういう行動を起こすか分からないものです。
今、私(かつ)は「闇」という記事を書きました。でも、今日か明日かという病気を抱えていたらどうだろう。今日食べるものにも困る状況だったらどうだろう。こんな記事を書いていただろうか。

「考えるところがあり」ながら生きていくしかないのでしょうね。
でも、「考える」ということは「逃げてない」んですよ。きっと(と、自分に言い聞かせる)。

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